唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

オリンピックのボランティア かつての戦争 想起する

「生きのびることが唯一の執着となる。一切の執着が生への執着に取って代わられるとき、極限の不幸が始まる。」シモーヌ・ヴェイユ

ぼくも詳しくは知らないけれど、賃金を払うことなく時間と労力を国が無償で国民から調達する、ということはどうも確からしい。そこで得られるやりがいだとか、喜びだとか、経験だとか、どれだけボランティアをやることが素晴らしいことか、というプラスの側面をぼくは否定する気はないし、たぶん、実際やってみないことにはわからないのだと思う。これからぼくが書こうとしているのは、マイナスの側面についてだ。

ものごとのいい面を取り上げてああだこうだいったところで、取り立てて利益はない。物事を賛美する場所に美しさは生じようけれど(宗教画とか詩歌だとか)正しさは生じない。正しさは誤りを見いだしてこそ、生じうる。批判精神を失ったものに進歩はあり得ない。
はじめにぼくの立場を明らかにしておくと、ぼくは東京オリンピックのボランティアに何らの価値も正当性も見いださない。見いだすのは全体主義、想起するのは国家総動員法だ。

 

問題の分解。第一、日本人なら東京オリンピックの成功を願うべきという命題の肯定。第二、人間の「空白」へ機会を投げ込み服従を自主性へとすり替える

 

まず第一に、東京オリンピックの成功を願うべき、とする命題について批判したい。スーパーに並ぶ商品のパッケージにも、コマーシャルにも、宣伝広告にも、オリンピックゴールデンパートナーです的なロゴが入っている。また、「2020成功させよう」と耳が痛くなるほどに、宣伝されている。

一体どれだけの人々がこの、コマーシャルなどで喧伝され自明な公理とされつつあるこの命題を疑ったであろうか。想定される根拠。日本国民であるから。日本人だから。日本で行われるから。
日本国民ならば、日本人ならば自分の国で行われる東京オリンピックの成功を願うべきだし協力せねばならないという暗黙の強制がここに見られる。すべての日本人が東京オリンピックの成功のために団結して力を注ぎ、2020の感動を手にしようというスローガンがいま大きくなりつつある。そして、東京オリンピックの成功を願わない、また協力しないなどという態度は、日本人としてあるまじきものだ、という命題がここから導出される。この傾向は、東京オリンピックが近づくにつれてますます顕著に拡大していくだろう。

現在、どうして無償で協力しないといけないのかという非難はあるけれど、その非難は対価と報酬が釣り合っていないという類いの非難であるから、東京オリンピックの成功と自分の歓びが一致し報酬が生まれ大きくなり、さらには世論全体がオリンピックの成功を願う一色に染まるだろうから、オリンピックが近づくにつれてあからさまに非難することが難しくなる。
オリンピック成功の本質は、国民意識の高揚である。スポーツの国家的イベントの成功を国民として願う態度と、政治の国家的イベントである戦争の成功を国民として願う態度が、ぼくにはどうしようもなく本質的に同一なものに思える。ぼくは、オリンピックというものが自分の国で開催されるのは初めてであるから、オリンピックが近づくにつれて盛り上がる国と国民を見るのはこれが初めてだ。たぶんぼくはそこで、戦争へ突き進む国の国民意識の向上と協力体制の樹立とおなじものを見ることになるのではなかろうか、とビクビクおどおどしている。

そもそも、ぼくはスポーツ観戦などで、自分の国だからという理由で外国の選手よりも日本の選手を応援することや、バレーや野球やサッカーなどでニッポンチャチャと応援することに、どうも違和感を感じてしまう。テレビに映る選手が僕の知り合いならばまだしも、どうして話したことすらない縁もゆかりもない人間を自分の国の国民だからという理由だけで応援しなければならないのか。逆に言えば、どうして日本の国民ではないからという理由だけで敵とみなさねばならぬのか、と思ってしまう。これと同じ論理がオリンピック開催においても成り立つ。隣の国の北京オリンピックの成功を祈ったりリオオリンピックの成功のために何かをするということをしないのにもかかわらず、自分の国で開催されるただそれだけの理由で、どうして成功を祈らされ無償で労力すらも提供せねばならないのか、という根本的な疑問がある。

で、実はその疑問自体はとてつもなく愚問であって、自分の国だからというたった一言の回答で十分に満足される答えとなり得るのだけれど、その疑問を提起し回答を自らに与えたかどうか、が極めて大きな意味を持つ。この疑問と答えの道をたどっておらず盲目的に国民意識というものを持ちその存在すら自覚していない国民の数が多ければ多いほど、その国は大衆的な国家となるだろう。自分の国のために何かをなすことは悪いことではない、しかし、その行動が国のため行っているのだという意識を持たなければならないと思う。
この意識さえあれば、その行動が本当に国のためになるのかどうか問うことができる。また、自分の国に焦点を当てて思考しているという自覚があれば、そのために排斥された他国の存在に気づき気遣うことができる。要するに、自分の国を愛するという愛国心は主観的なものだけれど、その主観性を批判する客観性を持つことが、健全な愛国心のためには必要不可欠だと思う。肯定にばかり突き進む精神は病に冒されている。

さて、オリンピックに戻る。オリンピックは果たして愛国心の対象となり得るか、どうか吟味すべき。国の発展に益するか。経済効果。オリンピックが行われれば、お金がどっさり国に流れ込む。日本にある会社が儲かる。日本企業も、そこに支社を置く海外企業も儲かる。税金が国に入る。この論理、果たして、国のためになるのだろうか。
感動。果たして、スポーツが盛んな国というのは、日本が目指すべき国なのか、いや、スポーツが盛んになると国は強くなるのか。名誉、日本人選手が金メダルを何個取ったかで、中国と争う実況解説者がテレビでペラペラしゃべってた。こんなことが、愛国の対象となり得るか。

否、だ。日本という存在が存続すること、その存在性がより本質的に確固たるものになるかが愛国の基準となるべきだから、国にお金が入るだの、日本の名前が海外で有名になるだの、どうだっていいことだ。また、日本人選手が育成されるなど、ますますどうだっていい。彼らがその競技をやっているのは、その競技に対する愛ゆえだ、いわば、趣味と同じであるし、仕事としてやっているのだ。どうして、町工場の職工や芸術家と差があるといえるのか。
僕らがオリンピックに協力したとしても、愛国の名に値しない。
商業的な金銭的な行為に対して、無償で協力するいわれはあるまい。

それでもやりたいと思う思考論理について。
たった一言で十分だ。隷属。
真空。私たちはそれを持つ。何かしたいが何をしたいともいえない感情。暇だなと思うとき。退屈だなと思う。その感情を生み出す、真空。なにもあらぬ、満たしたい。あらゆる情念の原因。
真空は、満たされることを望む。問題は、何で満たすかだ。

満たす。ぼくらは、真空を満たすことで生きている。真空を満たすためには、外から何かモノを取り込まなくてはならない。問題は、その取り込むモノが、低劣なものであるか、高邁なものであるか、だ。

オリンピックのボランティアは、低劣なものである。明確な目的と動機が最初からあって、それを満たす手段として、オリンピックのボランティアを自己自ら選択したのならば、それは、真空を満たしたとは言わず、願望を満たしたというべき。そうではなくて、何にもない退屈さと虚無感を隠すために真空をないことにする現実逃避的な行動、これを真空を満たすという。オリンピックのボランティアは、低劣だ。真空を満たす、というよりも、隷属しているという方がしっくりくる。

なにもない、だからとにかく、国民的な行事にボランティアとして参加しよう、そうすれば自分になにもないことを上手に隠すことができる、という日本人的(たくさんの人間が自殺する、精神的に貧しい、金はあるが思想なき国、日本)な論理である。これを知っての上で、あえて、オリンピックという行事のボランティアを無給にしておいて、また、国民意識の高揚を煽っているようにしか思えない。

なにも、国だとか、国民だとか、企業だとか、実行委員会が悪いのではない。非難されるべきでもない。これは、一種の、重力的な自然法則だ。人間が精神的に困窮したときに起こる法則性、国家という巨大な組織を絶対的なものとみなして服従する*1隷属的な安定性の法則性。

ぼくら人間は、法則を覆すことはできない。モノが落下しないように世界を創り変えることはできまい。同じように、隷属とか無知だとかこうした、なにも精神に対して施さなかったときに生じる動物的状態に陥ることは、法則であって、そちらの方が楽(安定する)だからそうなるに過ぎない。
ぼくらが、もしもそうした状態に逆らいたい、法則に抗って空を飛びたいと願うならば、法則をきちんと認識すること、法則に逆らうために精神を意志的に動かすこと、これが必須となる。

啓蒙、啓発、とは違う。
他人に影響を与えようと考えるその時点で、思考の対象は自己から他者へとうつる。他者が介在する思考は、自己から遊離し根をどこにも持たぬ軟弱な思考にしかならぬ。だから、例えば、職業的な思考ではなくて、純粋な自分のための思考は、法則を観測し言葉で身体化し、その法則に抗うための精神的努力の痕跡を残すこと、である。これを、哲学と呼ぶのかどうかは知らないけれど、この徹底的な自己に根付かせた思考から、初めて正しさとか善さが生まれると思う。
金を稼ぐためだの、アクセス数を稼ぐためにぼくはブログを書いているのではなくて、単純に純粋に、思考の身体を保存するタッパー的なものとして、便利に使わせてもらっているに過ぎない。だから、このブログが、誰かを批判するために書かれているだとか、書いている中の人間の名声を上げるためだとか、アフィリエイトで金を稼ぐためだとか、そうしたことは一切考えていない。SEOのsの字すら頭にない。

このように、思考というものは、純粋に自己の内部で展開すべきであって、目的や対象を自己の外に求めた瞬間に、善さから離陸する。徹底的に冷たい目で世界の法則を観察し、記述する。これだけだと思う。

All you need is...

*1:あるいは、匿名のもとで批判とも言い難い稚拙な論理と「学校では教えない」的なまがい物の事実を本当だとなんらの方法的手続きを踏まえず、自らの主張に適合するという理由だけで真実とみなして以って矛として批判する行為。いずれも、体制と反体制の構成する一分子に過ぎない。体制は反体制があるからこそ成立するのだ

実在と存在について 世界を情報化するということ

定義
実在→実際に在ること。知覚可能な事物。この世界をxyzt軸座標とするのなら、その座標上に点をうつことができる物。動詞で使うのならば、点をうつ行為。例。犬が目の前に実在する。目の前、東経何度北緯何度何月何日何時何分存在せり、と確定する行為一般と、行為がなされたものを指す。

存在→実際にはあらぬ、もしくは、あるとは言えない事物。実在とは異なり、xyzt軸座標で定義できないもの。目に見えないが、確かに、頭の中にあるもの。例えば、神。神は実在しないあるいは実在するかもしれないがそれを証明できないが、存在する。頭の中に描き出すことができるから。ペガサス。この世界には実在しないが、想像上に存在する。アニメのキャラクター。

世界は二つに分けられる。物質的なものと、精神的なもの。
人間を心と身体の二元的に分けて考える、デカルトよろしく心身二元論を世界そのものに適用すれば、世界も物質的なものと精神的なものとで分けることができる。
この目の前にあるペンとインク瓶は、物質的なもの。
ぼくがいま頭の中に描き出したペガサスは、精神的なもの。
このように、実際に、三次元の世界においてxyzt軸上に点をうつことのできる実在を全て包括するカテゴリとして、物質的なものを置くことができる。
また、これとは逆に、三次元の座標上に点をうつことができない存在を包括するカテゴリとして、精神的なものを置くことができる。
ギリシア時代以降、人々は、実在を含ませる物質的なカテゴリを形而下学、存在を含ませる精神的なカテゴリを形而上学とよんで来た。

かつては、神の存在をああだこうだやる神学的な学問、世界の仕組みや人間の構造を言葉と論理で解明する哲学が大きな力を持っていた。つまり、形而上学が強力なものとされ、形而下学は職人による技術として軽蔑され形而上学の下に置かれていた。
人々は、物質的な形而下学よりも、精神的な形而上学を重視し、膨らませて発展させて来た。

けれども、デカルト近代以降、科学と科学技術の発展は目覚ましく、ついには形而上学は、形而下学の下に置かれるようになった。
つまり、これまで形而上学で神を前提に体系化されて来た人類の知は、仮説と背理法を前提とする科学的手法の下に成立する形而下学の知に、塗り替えられていった。
形而上学の知識は、形而下学の知識に比べて、実際に実在を変化させたり、日常生活に応用できないという点で劣っていたのだ。
形而下学の知識は、世界に対して変革を意図的に起こすことができた。

形而上学が、神の存在を公理として絶対的なものとみなして出発する一つの系であるのに対して、形而下学は、人間の理性を絶対的なものとみなして出発する体型であった。つまり、どちらの学も、知の出発点として、根拠なしに正しいとみなす公理を所有しているという点では共通しているが、形而上学は神を、形而下学は人間を公理としているという点に違いがある。

問題。神の存在を否定する論理は存在しない。神は存在するという論理も存在しない。だから、神が存在するかどうか、我々人間にはこれから先も永遠に知り得ないだろう。にもかかわらず、神の存在を否定する、あるいは無視する形而下学が正しいものでありうるのはなぜかと考えてみるに、その実用性以外にはあり得まい。
科学の知識は、その実用性ゆえに正しいとみなされている。何回何百回繰り返そうが、全く同じ結果になるアルゴリズムを解明し構築する、このアルゴリズムこそが正しさの根源である。

つまり、科学の正しさとは、実用性に根付く正しさである。
逆に、形而上学の正しさは、人間の存在を精神的に支える正しさである。神がいるかいないかを解明することが形而上学の使命なのではなくて、神の存在から出発してどれだけ人間の精神(論理的な思考や美的感覚を含め)にとって心地のよい知識の体系を構築しうるか、という場所に形而上学の正しさは帰着する。

そういうわけで、形而上学の正しさと、形而下学の正しさは、全く次元を異にするものであるといえ、双方に非難しあうのはお門違いというものだろう。
二つの正しさが交錯する場所がある、その場所は、人間の精神という場所であろう。

形而上学は神の存在から人間の精神的な存在性を確固たるものにする正しさを人間の精神に供給する、そして、人間の精神は実在に対して様々に分析、アルゴリズムの構築と実行を通じて実在に働きかける形而下学を構築する。
こうして、二つの学は、人間の精神で交差するのである。

 

 

課題。形而上と形而下を繋ぐ媒介となりうるものは、あるのだろうか。

形而上学も形而下学も双方ともに、構築のために使用される媒体は、言語である。
言語は突き詰めて考えるならば、つまるところ、情報の入れ物である。だから、言語は情報を伝える機能(function)を持った関数であると言える。
犬、という言語は、犬を存在として人間の思考へ送り込む関数である。
犬、という言葉は、犬という実在と存在、という情報を内包する一つの関数である。
すなわち、あらゆる文章は、情報が身体化された媒介物だと言える。
また、我々が、例えば、黒い犬を見て、「黒い犬がいた。」とノートに綴ったとしよう。このとき何が起きているか、それは、黒い犬という実在が情報を人間の精神に供給し人間の精神がその情報を言語の形をとって身体化させたと言える。
つまり、ここで生じたのは、情報の移動という現象である。

世界のありとあらゆる実在は、情報体であると言える。
我々は、情報体と接して、情報を受け取り、その情報を存在として精神の中で様々に加工し、記述したり後述したりすることで情報を身体化している。

ここに、実在と存在の交流が見られる。
科学的な記述とは、一定の方法論を用いて、人間の精神的な存在を、実在にできる限り近づけて身体化する行為である。実験や統計など。
また、哲学や宗教は、存在を存在として身体化することで、実在たる人間に存在の側から変革をもたらそうとする行為である。

この意味において、分析哲学は、存在であった学問体系をできるだけ実在に近づけようという取り組みであるように思われる。
人類は、近代以降、存在を実在に置き換えてきたし、これからもどしどし置き換えていくだろう。
そして、科学的だの論理的だのという言葉は、実在を正しいものであるとする盲目的信仰のもとに使用され、哲学的だの詩人的だのという言葉は、存在を正しいものとする妄信的信仰のもとに使用される(しばしば、実在側から存在側を非難する常套句として使用される)。

もし仮に、人類が、形而上学から形而下学へと発展したその次の段階があるとすれば、人間と世界を情報として取り扱う意味での情報学への進展ではなかろうか。
ありとあらゆる世界と人間を情報として取り扱うこと。
電子書籍やウェブやビッグデータやコンピュータシュミレーションなどに、その傾向が見られる。
現在、第5次産業革命が進行中であり、これから人類が保有する情報は、かつてないほどに膨大なものとなる。
その情報を、量として扱うのではなくて、質として扱えるかどうか。
単なる商業的な、人間観察的な部分にのみ注目されているように思えてならない情報産業とはまったく違った思考を展開すること。
情報を金なる木見たく扱うのではなくて、情報を一つの関数として扱い、あたかも世界や人間を電脳世界的に扱うこと。

 

....とまあ、こんなふうに最近考えていて、本を読んでいても文字は所詮情報の入れ物である道具に過ぎぬとか、「空が青いな」と考えたとき、この思考は所詮情報の操作でしかいないと考え、あの青い空は、「空が青いな」と考えを抱かせる一つの関数であるに過ぎないのだ、とか考えてしまいます。
そういうわけで、結局、生きるという行為自体、情報を食べて排出する行為に他ならないのではないか、と考えてしまう。
が、ところが、もう一つの機能が人間には備わっている。
体を使って、世界を変革すること。例えば、目の前の椅子が壊れかけている、これではいかんと思って、ドライバーを持ってきて、椅子のネジをキュッと締めてあげる。すると、グラグラしていた椅子は、飛び乗ってもビクともしなくなる。
また、竹の木を一本切り倒してきて、その竹を上手く加工して、コップを作ったり置物を作ったりできる。
このように人間は、単に情報を獲得して操作する情報体として以外に、労働という行為を通して実在に影響を与えることができる。

つまり、どうしても、実在と存在の結びつきを大きく広く素早くすることが極めて重要になってくる。そしてそれは、形而上学と形而下学のつながりに他ならない。人間と世界の間(media)を探求する必要がある。だから、そのために一旦、人間と世界、形而上学と形而下学を一つの基準の上で、情報をいう媒体に全て変換して、その間に何があるのかを調べる必要がある。

けれど、結局それは、熟練した職人や芸術家の、言語化不可能な技へと帰着するのだろうと思います。
それをどう、情報化するか。課題。多分、脳がどのように記憶を保持し処理しているかに関わると思う。犬、という言葉を見て人間がみんな例えばab波が流れるとするならば、ab波を流してやれば、犬という情報を言語を介さずに伝達することができたことになる。

けれど、すると、なかなか味気がない気もします。

知性主義と反知性主義、すなわち意識高い系について

むずかしい言葉をたくさん並べ立てて、あるいはエライ学者先生や歴史上の人物を呼んできてしゃべってもらう。たとえば、こんな文章。

言うまでも無く、フランスの哲学者デカルトはその方法序説の第一文をこう始めている。「良識はすべての人間に平等に分配されている」。ここでいう良識とはすなわち、哲学上の理性をいう。デカルトはこの理性を絶対的なものへと方法的懐疑によって高め、これを第一の原理として推論と演繹を繰り返し行い、絶対性から相対性へと分化させていくことにより、その正しさを確かなものとして保証しながら、われわれの持つ知識というものを再び立て直すことを宣言したのである。いうまでもなく、哲学から自然科学が独立分離した瞬間である。いわば、分配された良識故に、神に頼ることなく、ある一定の方法をたどることでいかなる人間であっても、真理を追究することができるようになった、とした。
さて、このデカルトの良識は、一見すると人類史上、西欧文明を飛躍的に加速させ世界的規模にまで拡大した人類文明の根底に流れる血液であるからして、理性の目覚め、革命的な大発見であるように見える。いままで、神への信仰に依存したなんともたよりなくしかも、自己の外の存在に真理の基準を打ち立てざるを得ない不安定な、いうなれば、教会的権威によってどうとでも真理を創り出すことができるともいいうる状況に置かれていたのであるから、そこからこの理性を起点として思考を展開していく方法論の樹立は、「進歩」に見えた。なるほど確かに、このデカルト的近代の幕開け以降、人類の工業生産力は飛躍的に向上し、生活は便利にさえなった。さまざまな仮説が打ち立てられ、そこからテクノロジーが生まれ、我々の日常生活を急激に変化させた。デカルト以前の人間の思考と生活とをいま、現代人が振り返り見たとき、なんとまあ未熟なものかとおもわれさえする。現代の科学の正しさとはまったくことなる、神や聖書などという曖昧な基準を元に世界を観察し理論を打ち立て解明したと考えていたのだから。
だが、私はこのデカルト以降急速に発達した理性中心主義における科学が、それ以前の神を中心に置く考え方に勝るのだ、とは思えない。それどころか、私からしてみればその二つはその本質にあるのは全く同じものでさえ思われるのである。・・・

こんな感じでなにをいっているのかさっぱりわからない文章を目にする。こんなことを話す人さえいる。なにか、頭の良さを誇っているような話に思える。こんなにむずかしい文章を俺は作れるのだ、こんなにエライ人のむずかしい思想を俺は知っているのだ、どうだこれぞほんとうに正しいことなのだ、といいたげ。これは哲学について語った文章だけれど、ほかにも、社会学や心理学、政治学等々、おおよそ学問と名前のつく書物を開けば、こんな文章がぎょうさんアリガタイダロウと言いたげな風に豆粒くらいの文字で細々と印字されている。
で、こうした学問に従事する人たちは、むずかしい言葉で文章を書いているくせに、こんなことを言ったりしている。
「本物の学問により多くの市民が興味を持ち、学び、日常生活に生かすことが重要である。また、我々いわゆる研究者もできるだけ平易な言葉でわかりやすく親しみやすく研究内容を伝える努力が必要だ。」

学問は一種の権威を持っているように思う。正しさ、という点でピラミッドの頂点に立つのは学問だから、学問をよくする人は偉いのだ、という主張が見える。とくに、哲学に関してはこれが顕著だと思う。哲学書というものは、はっきりいって、さっぱりわからない。ぼくはすこし趣味で哲学を勉強しているけれど、哲学書も哲学書の解説をした本もむずかしい。もっと簡単なものはないか、と探してみると「ビジネスに役立つ」とか「エリートなら知ってる」とか「幸福になれる」とか、どうしてもへんてこりんな目的を溶接したような本ばかりが出てくる。目的があって、その目的に合うようにむりやり、哲学者の言葉を検索してとってきてくっつけたような本に見える。「名言集」とかはほんとうに、その哲学者の思想と切り離して詩集みたいなあつかいで哲学書の言葉を拾っているように見える。

そういう学問が持つ権威を否定して、もっと楽しい娯楽や現場の声こそが正しいのだ、とする主張もある。これを、学者の皆さん方はあろうことか「反知性主義」などとお呼びになっておられる。あたかも、知性主義こそがただしくて、それに抵抗する反知性主義ともとれるし、知性の反対のものを求める主義ともとれるけれど、どちらにしても、知性が素晴らしいのだという考え方が透けて見える。

知性が素晴らしい、という考え方はほとんどの人たちにとって正しいと思われていると思う。小さいときから、勉強ができる人はエライと教え込まれてきた。学校だって、勉強ができるかどうかで上下が振り分けられた。知性が優れている人間が偉いのだ、という価値観があると認めなければならないし、社会もそういう価値観の元で動作している。

さて、この知性主義に対して、いや偏差値だけが人間の価値じゃないよねほんとうの人間の価値を決めるのはその人の積極性とか自主性とか熱意とか知り合いの多さとか、そういう人間的な部分だよね、という考え方が大きくなりつつある。経験を積むべきだ、という主張。いわゆる「意識高い」といわれるような考え方。どうしても、ぼくが大学に通って2年間になるけれど、この考え方がとても巨大になりつつあるような実感がある。これを、便宜的にここでは反知性主義としておこう。大学の授業、実際社会に出ても役に立たないよね、学問じゃなくてもっと実践的なインターンシップとかプログラミングとかのほうがいいよね、などという点で一種の反知性主義といえるとおもう。

この反知性主義が否定する知性とは何か。
ぼくはおかしいと思っていた。これまで必死に受験勉強に励み偏差値を気にしていた人たちが急に、大学の授業に興味を示さなくなっていくことに。かれらは大学入学前は、知性を磨くことが優れたことだと思っていたのだろうけれど、大学に入った途端、知性よりも磨くべきものがあると思ったということになる。
さて、ここでいう知性とは、なにか。
学校で磨いてきた知性、それは、いかに世界をよく知り解釈できるかという類いの学問的な知性のことではなくて、より高い社会的地位を得るために有益な道具としての知性であったようだ。勉強ができるというスコア的な知性が高ければ高いほど、社会的に承認される。つまり、彼らが例えば、高校合格、大学合格において他者(親や親戚、先生など)から褒められた理由は、彼らが学問がよくできる人だから、ではなくて、社会的により高い地位を得たから、であったと考えられる。

大学は、社会的地位の最終到達点である。だから、もうこれ以上、知性という便宜的な道具を磨く必要は無い。知性の目的であった社会的地位の獲得のためには、今度は、よりよい会社に入らねばならない、もしくは、より大きな収入を得なくてはならない。そういうわけで、そうした自分の目的を達成するために、自分がなすべき琴は何かと賢い若者は考える。そして、結論を出す。大学に出て学問的な「知性」を磨くのではなくて、社会で必要とされるの能力を磨かなければならない、と。

そこでさらに考える。社会で必要とされる能力は何か。そこで、書店の自己啓発本だのビジネス本をあさり、これからの時代に必要な能力という類いのノストラダムスの大予言的な予言の書を、ホリエモンやら落合陽一よろしく買いあさり、予言の書のいうとおりにブログを始めSNSをはじめ、発信だの交流だのを称した一大ネットワークの構築に精を出す。そして、勉強と称してたくさんの人とたくさんの話をするのだと意気込み、「積極的に」会うアポイントメントを取りまくり、挙げ句の果てには、ヒッチハイクの旅にさえ出る。

とまあ、これが反知性主義のトクチョウである。彼らは学問的な知性よりも、社会的な能力を磨くべきだと考えてそのために行動する。そして、大学は自分たちのニーズを満たしていないから、もっと社会とのつながりを深めてより実用的な教育をすべきだと主張してアメリカのアンタープレナーシップ教育だのを引き合いに出しつつ批判する。大学のあるべき姿は、より人々に益する教育をすべきなのだ、とこういうわけだ。


ぼくは、反知性主義的な行動をとる人たちは合理的で賢い人たちだと思う。こういう人たちが就職で高く評価されて、より大きな生涯賃金を得るのだろうと思う。計画的で、未来志向で、先進的で、効率的で、人生を楽しむことができるだろうと思う。何にも間違ってはいない、意識高い系などと揶揄されて非難される筋合いはあるまいし、たとえ非難されたとしても、フフンと鼻で笑いでもしておいて、結果で示すことになるだろう。なにせ彼らが意識高い系と揶揄されるのは、そのエネルギーの大きさと行動力ゆえであって、注いだだけのエネルギーは必ず何らかの形で結果として帰ってくるだろうから。ドリーム・ブレーカーは無視すべきだ、とはよく言ったものだと思う。

が、ひとついうべきこと。正しさ、という点において、反知性主義的な人たちは知性主義的な人たちに劣る。これだけはいっておかねばなるまい。ぼくは時折、いわゆる「意識高い」立場から世の中の正しさを説く人がいるのを見て、身の毛がよだつ思いがする。一体どういう立場から、正しさを説くのかぼくにはさっぱり理解できない、挙げ句の果てに、道徳や生き方まで説き出す始末、これは堕落というほかない。名誉や効率性や自分の夢を追いかける点において優れた人たちが、どうして、他者の生き方や道徳における正しさを語るのか。ぼくは疑問に思う。

正しさを経験的に導き出して主観的に語る分には何ら問題は無いのだろうけれど、それを誰にでも適応すべき論理として説きだし、果て、主義者まで出てきた日には、もう、こんな国は破滅の一途をたどるだろう。理由。正しさの源に、実業家だの起業家だの成功者が置かれた国においてどうして、国が正しくあることがあろうか。正しく生きるのだという正義を欠く人間、自らの幸福を追い求め、自らの内側の都合を調整する人間、世論の中庸的意見をそのまま受け入れて以て正義とする人間が大量に発生し、国を動かす時代が到来した瞬間、この国はなるほど商業的に金を儲けることには何ら不都合はないだろうけれど、こと正義に関しては強者の権利が適応されることになろう。また、たぶん、これはひょっとするとぼくの偏見かもしれないけれど、そういう人たちは、教養のは幅が狭い。大衆娯楽にはよく通じて、ブランドバッグやアニメや映画やポップミュージック、ドラマや芸能人などといったコンテンツにはたしなみはあるけれど、文学作品や絵画やクラシック音楽などいわゆる古典だの芸術などと言われるものにはほとんど触れることはない。こっちが本物であっちが偽物という気は無いけれど、片方にしか素養が無い、狭い人間であることには間違いはあるまい。

結論。
なるほどたしかに、ぼくらには平等に良識が分配されているけれど、良識で判断できる範囲は自分と近しい事物でしかない。だから、ぼくらは教育をうけて、様々な物事を知ることで良識が移動できる範囲を広げて、できるだけ中庸をとるように教えられてきた。にもかかわらず、偏った物事ばかりを絶対的なものと見なす傾向が、知性主義にも反知性主義にもある。ほんとうに、知性のあるべき姿というものは、両者の中間にあるべきであるから、両方に通じるべきではないか、と思う。
ある教授。「ニュースも新聞も見ません、芸能人も知りません、映画も見ません、時間が無いのです。」
これではだめだ。
ある学生。「学問むずかしくてつまらない、やる意味ない、大学行く価値ない、インターンでもしてたほうがよっぽど有益だ。」
これではだめだ。

ぼくが思う理想。
どちらともつかない宙ぶらりんの状態に自らを置くこと。何色にも染まらない、白でも黒でもない、無色透明。
検討すべき。

思考の道具、日本語についてのエッセイ

ものを考えるにおいて、多くを学ぶことが重要になるけれど、日本語で書かれた優れた思想書はフランス語や英語で書かれたものに比べて、圧倒的に少ない。だからぼくは、日本語でものを読むことをやめて英語でものを読み考え書くほうが合理的なように思えてしまう。日本語で思考することが果たしてできるのか、外国語の思考を日本語に翻訳することしかもはや21世紀以降を生きる僕ら日本人は学ぶこともつくることもできなくなったのではないか。

こんなふうについ考えてしまうけれど、そして確かにそれはある意味では正しいのだけれど、僕は日本人であり日本語を世界中の誰よりも上手に使いこなせる人間のひとりだ。そのぼくが、わざわざ英語を得意とする人たちの元へ土足でズカズカ上がり込んで奇妙な英語で道場破りを試みるようなものに思える。隣の芝は青く見えるもの。世界標準としての英語の力はコンピューターの力も相まって、ますます大きくなることは疑う余地はない。日本語がこれからどんどん縮んでいって、広田先生よろしく「滅びる」日が来るのかもしれない(実はぼくは、十中八九滅びると思う。ぼくが生きている間に突然機器が現れたように標榜するマスコミと国家の困った顔が目に浮かぶ。当たり前じゃないか。日本語でものを考える力を養う人文科学を縮小して、英語教育とプログラミング教育の拡充を図り続け日本史を教えることをやめ世界史に切り替え、実利しか顧みることのない教育方針をとった責任と付けは必ず払わないといけません。国を物質的に膨らますことばかりに目を向けて、肝心の精神的に膨らます努力を怠った国の人たちは野蛮な人間に成り下がること間違いありません。手に職をつけて暮らし向きをよくすることは大切ですけれど、単純にどう自分が動作すればより大きな利益を集団や自己に及ぼせるだろうかという合理的な考え方しかできない人間は、自己と社会の歯車になったも同然ではないでしょうか?大切なことは、何が善いことか正しいことかをきちんと秩序立てて考える力であるべきです。お金を得ること、お客に満足を与えること、提供するサービスそのものが社会的に歴史的に正しいか善いことか、こうした大局的な視点に書欠くならば、現在とイマココの奴隷になったも同然です。時間と空間を超えた思考を展開できない人間を愚かな人間というのではないかと思います。
「責任とつけ」、とぼくはあたかもさも失敗したかのようにいましたが、成功したならば国はますます発展し、あの時の政策と方針は正しかったと賞賛されるのもあなた方ですからご安心なさい。)。

日本という国家が尊敬するに値しないものだということは歴史を見ても制度を見てもすぐに分かります。第二次世界大戦の日本帝国の愚業は上げても挙げ尽くせません。そのあと、日本は変わったのだと言いますけれど実は全然何も変わっていません。官僚も政治家も当時の日本の未来を正しく予想できなかった人たちが実はそのまま政治の椅子についています。いえいえ、これは当然のことで、政治の素人が突然国を動かすようになることの方が空恐ろしいことではありますし国が根底からひっくり返した経験が僕ら民衆にはありませんから当然体制は変わりません。
要するに、日本という国は明治維新以降なにも変わってはいないとぼくは思います。(一番いい例が特高警察でしょう。彼らはそのまま権力を引き継いで公安警察になりました。)そんな国をぼくは尊敬しようという気にはなりません。具体的に申せば、ぼくは日本という国に服従はします。法と憲法を遵守します。が、命令は一切受けないつもりです。ひっくり返そうとも思いません。革命は必ず戦争を生みます。戦争は最も人間を隷属する愚業で何があっても避けなければならないからです。たとえ、正当な防衛であったとしても、暴力を行使されたとしても、力で以って反撃することは断じてやってはならないと思います。
じゃあ日本という国家ではなくて、文化はどうなんだ、という問いが出ましょう。国というのは、国家機構と文化的な概念の両方を含んだ言葉ですから。さて、日本の文化を見たとき、なるほど芸術は素晴らしいと思います。仏像や寺院や庭園や自然、短歌や和歌や俳句、美しいかな文字で書かれた物語も鈍重な趣を持つ漢文も立派でいい。文学だって、夏目漱石太宰治ら文豪をあげるまでもなく、多彩な擬音をもってまた複雑な敬語や言葉遣い、慎み深い感情のない奥ゆかしさを描く物語(I love you.を和訳するとどうなるかと問われた漱石は、「月が綺麗ですね」くらいなものだと答えたという例がよく物語っています)をぼくは好きです。けれども、それは芸術として日本文化を見た時の話です。こと思想に関して述べればお粗末極まりない。ぼくは日本の思想を調べるたびに猛烈な吐き気に襲われす。日本の思想は潔癖のです。名前はあえて出しませんし言葉にすらしたくないほど嫌いですけれど、簡単に一言で日本思想を述べるならば、排外的で潔癖なものといえば足りるでしょう。日本の思想は、選民的な民族思想でしかなく、自分たちの民族とか国家とか天皇を正当化するためになされた必死な試みであって、個人とか広い視野とかには一切関心がありません。関心があるのはただ一点、集団の利益と名誉。まったくもって、日本思想は自己を正当化することしかせずに、否定作用がなされていません。人間の思考は、肯定と否定とを交互に行いながら発展していくものだと思います(芸術は強い肯定作用だけでも発展し高みに登るでしょうけれど)。この否定佐用を欠く日本思想は思想ではなく宗教に過ぎません。いえ宗教が悪いというわけではなくて、思想と宗教は相互に否定と肯定の作用を与え合ういわば兄弟みたいなもので、片方がかけたならかなり大きな違いが出るいうものでしょう。

結構です、長々と訳のわからない文章を綴ってきました、ぼくは今論文を書いているのではなくてエッセイを書いている気でいます。長い文章、実はぼく大嫌いです。気の利いた短い警句を積み重ねたパンセやカイエこそ思索の果実のあるべき姿理想像だとさえ思っています。だのにどうしてこんなに長々と書き散らしているかといえば、正直ぼく自身の思考がだいぶん混乱しているからなんです。昨日、日本語最高と考えてドイツ語にフランス語も英気味勉強しなくて身構わないぞと意気込み古典文法の勉強を始めたかと思えば、今日はこうして日本語がダメだと書いているのですから。もっといえば、一昨日ぼくは日本語万歳主義を歌う文章を英語でノートに書いたほどです。
で、まあなんと言いますか結局の結論として言えることは、目の前に、ぼくが日本人であって日本語で思考せざるを得ない、という事実だけが立ちはだかっているということ。そして日本人であることすなわち日本語で思考する人間に生まれついた運命は、決して変更し得ないということ。そして最も重要な悲惨な悲劇的な事実は、日本語の過去に渡る思考の蓄積は西洋のそれと質的にも量的にも遠く及ばないということ。そしてアルファベットの権力は情報化と国際化が叫ばれる今と未来、拡大し続けるということ。もっといえば、日本語はだんだん辺鄙な場所へと追いやられついには「おはよう」「こんにちは」レベルの低次元の思考だけが行われる単純な言語に成り下がってしまうこと。ぼくはこうした運命と言いますか予言と言いますか、大和魂とか愛国の心とか忠君の思いとかいう難しい感情からでなく、単純に自分の母親がだんだん衰弱していく様を見ているような苦しくて悲しい気分になってしまいます。
ほんとうは、まだ間に合うのではないか。病床でうごめく母を見捨てイケイケな若者連中と酒でも飲んで騒ぎたい衝動との間で迷っているような気分なのです。いやまだ間に合う、間に合わせてみせよう。

日本語が生き残るためには、日本人が外国語で思考を展開したり芸術作品をつくるのではダメだ。日本語で驚くほど強力な思考を展開するかもしくは美しい文学作品を作り上げねばならぬ。学んでまで読みたいと思わせるような思索を日本語に受肉させる必要がある。明治維新日清戦争日露戦争の栄光に入り浸っている余裕が果たして日本語にあるのだろうか。ない、と僕は思う。今ぼくの目の前で母語である日本語が死にかけている。思想としての古典を持たないだけでなく、民衆すらも自国の文化よりも外国の文化を大切にし始めた。いやそれは悪いことではない。無理やり日本文化は外国産のよりも素晴らしいと調教して省みらせる行為ではなくてむしろ、帰り見たくなるだけの文化をつくるべきだ。いつまでも日本文化は外国文化に劣らないのだとかアイデンティティがここにあるではないか、などと誰も気がつかない芸術に深遠なるものをどこぞの和辻哲郎見たく追いかけたって、一体どこの誰が日本文化にハッと気づかされ理解し惹かれるようなことがあろうか。彼らが躍起になって行った過去を美化する努力が取ろうであるとは言わないけれど、それで何が変わるのかぼくにはわからない。解釈と整列で過去そのものを変えることはできないし、どれだけ過去を掘り漁ったとてホメロスプラトンアリストテレスも発掘されることもなかろう。過去の箱を重箱の隅をついて対西洋思想用の文献が出てきはしない。

もう、西洋も東洋もない。あるのは今この瞬間の我々の意識の運動だけである。我々が何を日本語で思考し受肉し身体化できるかにかかっている。ほんとうに、過去と西洋ばかりを恍惚として見つめていても今も未来も変わらない。西洋の思想家や芸術家が我々日本人と隔てるものは、未来を創造しようとする意思と熱情と、真なるものと善なるものと美なるものへの愛を持っているかいなかのみである。過去の不在は確かにあるが、我々は150年に渡り西洋の優れた芸術と思想を日本語へ翻訳してきた。たとえそれが完全な変換と言えずとも、だ。プラトンをヘルメスを言語で西洋人は読んだか?アメリ人はフランス文学や哲学を言語で読んだか?パースは?ピアジェは?言語ではなくたぶん精神の問題だ、日本人の隷属精神を何としても打ち砕き、自由と真善美への愛とに満ち満ちたものへと変える必要がある。アルファベットと感じ平仮名の間に差があることは確かだしぼくも表音文字表意文字の違いがあることは認めるが、故に劣っているとするのは結果しだいではないか。過去だけを見て判断してはならない、西洋語が日本にやってきてまだ150年だ、これから先100年200年後に、やはりアルファベットのほうが優れていたと判断するのならいざ知らず、創造する権利と変革する自由があたえられているにもかかわらず否定へと逃げ込むなど断じてあってはならぬ。未来を創造するのみを手にして何も掘らぬ惚れぬと言うは愚かと言わざるをえまい。日本語で哲学をするもの現れよ。日本語で芸術を為すもの現れよ。かつての日本人哲学者の言葉である。

 

注 たいへん大きくて強力な台風が大阪を襲った。ぼくは大阪に住んでいるわけではないではないけれど、その翌日つまり今日たまたま大阪へ所用で出かけていた。果たして、電車が止まったのである。二時間、車内で退屈な時間を過ごさねばならなくなった。良識と余裕を持つ誰しもが経験することとは思うけれど、遅れたり止まったりした交通機関の中にいる人々はイライラムカムカするものである。ぼくもその例にならいてイライラムカムカしてきた。加えて暇ときた、手元にはスマートホンとそこからにょきにょきコードを伸ばすイヤホンである。こうなったらば、もう怒りを文章に書きなぐってやろうと、混み合った車内スマホを片手にショパンの英雄のポロネーズのような激しい曲を聴きながら久しぶりに記事を書いた。ので、誤字脱字や偏見が多々見られるが、これも公共交通機関の遅延がしからしめた偶然の賜物だ、ということでそのまま載せることにしたのでどうか、ご容赦ください。

縦書きと横書きについて 読書ノートのあり方

文字とは一つの道具であって、書くとは一つの技術だと思います。
技術である以上、当然、作法や法則性はあって、自然の法則に対して合理的であるように技術は存在しなければなりません。
例えば、ものを投げると言う技術、野球でおおきく振りかぶって足を前に突き出して、腕を上から下へ振り下ろす投球法は、人間の身体を有効に使用するように、淘汰されて今に至ったと言えましょう。ですから、地球上にあるどこの国でもだいたいあの投球法が使用されています。(逆に、人間の体が今のような形ではなく、腕の関節が三本あったり、足がタコ足だったりしたならば投球法は異なっているでしょう)

そう言うわけで、書く、と言う技術に関してもおおよそ世界中で規則性があると考えて良いと思います。人間の精神は世界中どこの国でも、その本質は等しいと思われます。日本人よりもロシア人の方が精神のスピードが三倍早いだとか、アメリカ人の精神の回転方向は日本人の逆だ、とは言えないでしょう。
しかし、文学だの思想だの文化だのを観察すれば、国によって大きく書くと言う技術の法則性が異なっていることは、すぐにわかります。
なぜでしょうか。

文字、すなわち言語が大きく関わってくると考えます。
道具というものは、道具を使用する人間を規定します。例えば先ほどの野球の例で考えてみますと、バットの形が先に行けば行くほど徐々に太くなり、持つ側にグリップがついていて細身になっています。で、このバットとは全く違う形を考えてみます。例えば、羽子板やハエ叩きのようなラケット型であったのならば、その振り方は大きく異なっているでしょう。また、バットに限らず、ボールがゴム製だったならば、投げ方も変わってくるでしょう。

このように、道具の形や質によって、技術そのものが変化し、ゆえに、人間の身体の動きさえも変化する、と言えます。
であるならば、この規則性が、書くという技術にも応用できましょう。
文字の形が違えば、書くという技術のあり方も変わるでしょうし、当然したがって、書くという行為を行う精神の動きさえも変化するでしょう。言語が人間を規定するのだ、と偉いおじさん哲学者は言いますが、なるほど、確かに言えています。

 

僕ら日本人は、日本語を使って書きます。ひらがなや漢字やカタカナを紙に記すことで、思考を展開していきます。この時、当然のことながら、アルファベットを使って書く思考との相違は存在します。使っている記号が違うのですから、仕方のないことです。英作文をしている時の頭の動きと、日本語で作文する時の頭の動きが大きく違う、という経験が大学受験時代の僕にはあります。

さて、今回は問題の所在を、縦書きと横書きの違いにおいてみます。日本語は縦でも横でも書くことができますし、現在では横で書かれることも多いですけれども、本当の日本語は縦書きされるものです。ひらがなや漢字の記号をよくよく観察してみればわかりますが、縦書きに特化されて創出されたものですから、縦で書くと見栄えも筆記速度も上がります。実際に、縦で書くときと横で書くときとで比較してみると、僕は明らかに縦で書く方が、筆記にかかる時間とエネルギーが小さいように思えました。

書物を開いてみると、言葉は縦書きで綴られています。試しに僕の本棚にある本をいくつか開いてみると、横書きで書かれた本は心理学の教科書とプログラミングの教本だけでした。文系的な思考(小説も含む)を身体化するために、主に縦書きの書物が使われます。僕らが本を読んでなんらかの思考をなぞるとき、僕らの精神は縦書き的な運動を行なっていると言えるでしょう。ですから、たくさん本を読む人間の精神というものは、縦書き的な思考を得意とするものと言えるのではないでしょうか。

本というのは、精神を受肉させ身体貸したものだと言えます。ですから、本を読むという行為は、身体化した精神と触れ合うことだと言えそうです。そしてその触れ合う身体が、縦書きである以上、本を読む僕らは縦書きの身体と精神とで向き合っていると考えられます。

 

さてここまで僕は、文字が書くという行為と読むという行為を規定するということ、そしてその行為は、縦書き化された身体と触れ合う以上、僕ら自身も縦書き化した精神を持っている、と述べてきました。
これは当然僕の、勝手な仮説ですけれども、この仮説が正しければ、読書ノートのあり方も自ずから決まってきます。
読書しながら、本の書き抜きをしたり乾燥を書き綴ったりするノートは、縦書きが適切と言えましょう。
本を読む行為は、縦書きの精神の運動を促しますから、その運動とあえて逆の運動を、ノートを書くという行為で促進させたならば、精神活動はやや混乱します。
また、書き写すとき、縦書きの身体を横書きに変換するときに生じる摩擦も気になります。縦書きで認識した文字を頭の中で横書きに変換し、書き綴ることは、文字の処理速度を著しく減少させることになるのではないでしょうか。

 

 

適当に書いた仮説的な記事ですが、気が向いたら「学術的」に調べてみます。

「ある」とはなにか、あるいは絶対性について パルメニデスから

「ある」という概念は一つの機能であり関数である。例えば、人間がある、という時の「ある」は人間という存在がすでに「ある」という前提の上に立って、その存在を「ある」という言葉で呼び出している。すなわち、「ある」は、概念を呼び出す機能と概念そのものを入れておく容器の存在を指す機能の二つを有する言葉であると言える。我々が、ある、とかない、とか語る時そこで語られている「ある」は存在の呼び出しか、存在そのものの前提を指すのか、吟味しなければならない。

そしてまた、最も重要なことを指摘せねばならない。パルメニデス詩篇で語ったように、我々は存在そのものの容器がある、という前提に立たなければならない。この「ある」を懐疑にかけることはもはや、自己の存在そのものの否定にしかならず、そしてまた、容器そのものが「ない」のならば、我々はなんら精神的な活動をなすことができなくなってしまう。確かに、我々の精神的な探究活動は、どこまでも無意味で臆見で誤りであるかもしれない。だが、だからと言って、我々の探究活動を成り立たせる前提たる「ある」を否定し、自己は無意味だとか宇宙は存在しないとか真面目な顔で語って、底抜けの懐疑主義虚無主義に陥ることは、論理性だの道徳性だのの観点から禁止されるべきものではないが、一つの存在の範疇に自己がある以上、禁止されねばならないことである。

一つのイデオロギーや体制や国家や宗教を絶対的なものとして崇拝し、真理探究は全てそこから始めるのだとする絶対主義は歴史が、愚かであったと証明している。だからこそ、我々は、いかなる絶対的な視点をも認めず、あらゆるものを懐疑と吟味の俎上に載せて、批判的に思考しなければならないという、デカルト的な思考の型が埋め込まれている。さらにその型は、科学の力が大きくなり実験と観察に基づく科学的思考こそが真理に近づく方法だとするイデオロギーと、マルクス主義の失敗による資本主義の優位性の確立が生んだ労働と営利上の優位性確保の必要性の肉迫とにより、ますます拍車をかけられている。
が、ややもすると、宗教も思想も信じることができなくなった現代、かつ科学が発達した状況下の我々は、懐疑の糸にくくりつけられて風に揺られる脆くて宙ぶらりんの存在になりがちではないだろうか。

当然、絶対性など断じて容認すべきではない。絶対性に依拠した思考と行動を垂れ流す人間ほど、見ていてムズムズするものはない。例えば、どこかの神様の言う通りに厳密に思考と行動を規定し型にはめて恐ろしい形相で理想を叫び飛んだり跳ねたりする狂信者、また共産主義イデオロギーを崇拝し反対勢力をことごとく非難し自らに対する一切の否定的な意見を受け付けない態度*1が挙げられよう。だからこそ、あらゆるものを疑い、なんら正しいものは存在しないのだとし、信頼できる自分よりも大きな勢力に与するのだと言う奴隷的な考えに陥っても行けないと思う。

もしも何が正しいか、知りたいと思うのならば、対象を多角的に考察するべきである。そのためには、肯定と否定の両方から観察した書物や人物や実験を訪ねなければならない。自分の意見の正しさを証明するための学問や勉強や行動ほど、有名無実なものはない。ポーズをとっているにすぎない。

が、しかし何かを探求するために、たった一つ、妄信的に信じなければならないものがある。先に述べた「ある」だ。言語以前の言語、存在以前の存在としての「ある」は絶対的に信じなければならない、とパルメニデスはいう。「ない」は獣道である、それは、「ない」のならば何事も語ることができないから。

*1:往往にして、彼らは社会が人間の思考を規定し自らはその臆見から逃れ正しさを主張しているのだとの思想を有しているから、彼らに対抗する意見はすべからく発展途上の社会が生んだ誤謬であって、それに囚われている人間をこそ救うべき、と言う考えを持つ。そこまで行けば主義は、もはや宗教となる。

【小説】二重性のエピグラフ

一筋の閃光がどこからともなくやってきて、虚無の暗闇を徐々に照らしてゆく。閃光の一本の筋、その周りにほのかな黄金色の暖かな光が充塡していく。光は自らを包み込む容器としての空間を形成し、その中に収まる。光線が一本その周りに抗して空間が創造されていく。そして、光線の先頭には球でも立方体でもない、形容しがたい一つの物体(物体とここでは便宜上記したけれど、一つの存在としてさえも決して定義することのできない絶対的な「何か」である。)がただひたすらに真っ直ぐ、なにものもあらぬ虚無の闇の幕を一枚、また一枚と破り捲るが如く、進んでいく。その進行は早い遅いというような、比較対象を必要とする記述を許さない絶対的な直進である。虚無においては、上や下、右や左といった相対的な方向性は存在しない。孤独なこの光線の先頭たる物体こそが、世界そのものであった。物体を側から観察する我々はややもすれば、この創造者に対して、意思や信念や法則性を見出そうと愚かな想像力を働かせるかもしれない。だが、この物体はもはやこうした想像力の作用をも跳ね返し、何らの概念をも生じさせない。ゆえに我々がこの物体を目にしたのならば、その瞬間にこの物体に対するすべての言語は無に帰し、ただ説明できぬ恍惚感のみがぼんやりと残像として残るだけである。

男がいた。当然、名前を持っていた。けれど、我々は彼の名前を思惟する必要も認識する必要もない。ただ、男がいた、それだけを知りさえすれば十分である。男はこの閃光を、見た。閃光を見るということ、それは閃光の先頭のあの物体を見ることとは大きく異なっていて、閃光に対して概念を抱くことはできるのである。だから、男はその閃光の美しさに感動し、恍惚とした気分を味わい、言語的な思索と叙述をなしたのである。男は、閃光を「恍惚線」と定義した。男は、恍惚線のすばらしさと美しさを粗末な大学ノートに書き綴った。原稿用紙に綴られた男の、恍惚線に対する愛は本当だった。恍惚線が放出するエネルギーを男は受け取り、生きるために、そしてまた彼自身の創作活動のために利用した。男は手記の中でこう述べている。

「恍惚線が私たちに提供するエネルギー。価値、希望、恩寵、美しさ。何にでもいい変えられよう。私たち人類の生存において、食物から摂取する生物的なエネルギーの他に、精神の働きを支える精神的なエネルギーがあるはずだと、私は昔から考えており、その仮説を何十年にも渡って実証しようと試みてきたのである。文学、哲学、芸術、宗教。こうした人間のためにある、あるいは人間がために為す人類の精神的な営みを分析すれば、エネルギー源の存在と正体が判明すると思ってきた。だからこそ私がこの恍惚線を発見した時には、涙を流し鼻水垂らし、四肢のあらゆる部分から喜びが放出されたかのように感じた。恍惚線とはすなわち、あらゆる存在と実在の根底に流れる宇宙の体液である。」

男は、宇宙の体液たる恍惚線の源の存在を仮定し、それを「恍惚光源」と定義した。男はさらに躍起になって恍惚光源の探求に身も心も捧げ、15年の歳月を費やしてとうとう、恍惚光源を見た。恍惚とした気分のみを残像として残しつつも、少々残酷ではあるけれどその記憶は持ち得ない。はずであった。男は、恍惚とした気分を理由もわからずに味わって終わるはずであった。けれども、男が抱いたのは、未だかつていかなる人類さえも感じたことのない絶望と虚無感であった。加えて、理由がわからないときたから、男は出所がわからない負のエネルギーを一気に吸収してしまった。男は、誰にも会わず、何も語らず書かず、独り静かに首を吊って死んだ。遺書すらも残さなかった。
ここで我々は、一つの疑問を感ずるはずである。男は何を見たのか。なにゆえに、男は恍惚に与れなかったのか。

真実を語ろう。男は、恍惚線を逆走してしまったのである。恍惚線は一本の直線であるからしてそしてまた直進し続けるからして、当然、流れには向きというものがある。男は、恍惚線を伸ばし続ける恍惚光源の方へではなくて、恍惚光源がやってきた方へ向かって逆走し、探求し、ついにその果てにまでたどり着いたのである。男が見たのは、自分が辿ってきた恍惚線が、別の恍惚線から分岐したちっぽけな存在であるという事実であった。分岐点に立った男は、自分が辿ってきたよりももっと太い恍惚線から数え切れないほどの恍惚線が分岐しており、自分の恍惚線はそれらのうちのちっぽけな一本に過ぎなかったことを知った。目を太い恍惚線の方へ向けると、さらに真っ直ぐ遠近法の彼方へ伸び続けた暖かな光の線が確認できた。男は悟ったのだ。この太い恍惚線さえもまた、もっと太い恍惚線の分岐した一本に過ぎず、そしてその一本もまた分岐した一本に過ぎず、こうして無限に恍惚線は続いていき、多分、恍惚線の本当の光源は、存在しない、いや、たとえ存在したとしても存在を確認することはできないのだ。ここに男のエネルギーは全て吸収され尽くし、莫大な負債さえ残ることとなった。恍惚線を逆走したのだ、当然の摂理であろう。男が正気に戻った時に感じた、出所のわからぬ負のエネルギーは、男のどうしようもない罪な行動から生じたものだった。負のエネルギーゆえに、男はもはやこの世界にその精神を存在させ続けることはできない。だから男は、必然的に首をくくって自殺したのだ。

ここまで我々は、男の生涯を抽象的に見てきた。この世界の仕組みなど当然、わかるはずもないから、私はいわば比喩的に男の生涯を綴ったに過ぎない。あらゆる物事はその通りに具体的に観察され、記述するべきだ、というある種の実証主義的な主張とはあえて逆の記述を私はやった。論理的に具体的に世界をありのままに記述すれば、神秘は全て無に帰するだろう。有用性と論理性が支配する理性的な世界、それもよかろう。だが、私は美しい世界を望む。論理は論理性ゆえに美しいのではない。自然は自然物の具体性に美しさが宿るのではない。美しさは、抽象性を以って述べられなければならない。私は、この男の生涯をい美しいと思う。だから私は、男に対して最大の敬意を払って、二重性のエピグラフをこしらえた。男の物語の幕は、二重性のエピグラフを以って開かれ、そしてそこへ帰るだろう。これから我々が見ていくのは、この哀れな男の具体的な美しい物語である。