唐木机が欲しい

ブログ風のフィクション。

浅い小説、狂気とアヘン

まず、すこし僕の文章を上げてみます。小説形式だからすこし読みにくいです。あれだったら飛ばしてください。

 ひとがなにかに不満を抱くとき、実際には八つ当たりであることが多い。自分の不甲斐なさをそのもののせいにする。で、自分は悪くないのだ、本当はすごいやつなのだ、ということにしておいて自分を擁護するのだ。これはべつに悪いことではない。世間では、問題から目を背けるな、困難に立ち向かえ、そして当たって砕けよ、という格言が大いに流布し、物語としてもどうしようもない必然的な苦行に立ち向かってめでたく自己成長を遂げて(ときに敗れつつも)ついには大勝利を上げてハッピーエンドというものがたくさんある。勇気をもらった、明日からも頑張ろうと思う、そのような感想を物語を受け取ったひとは笑顔で漏らす。そうだ、感動。この言葉がぴったりだ。ひとは凡人の英雄譚を好んで摂取し、明日の自分を励ますのだ。どうしようもなく難しい世界、たくさんの不条理が反乱する世界、それでも我々は行き続けなければならぬ、たとえ一生に渡って不具なものであろうとも。これは、一種の常識になっているように私には思える。簡単な敗退は認められないし、かつては困難に背を向けてトンズラするなど万死に値すると思われていた。武士道のなにおいて。けれども近ごろは、一時的な敗走は全く恥ではない、むしろ本当に追いつめられたとき、形成を立て直すために敗退すべきだ、そして再び自分の土俵を見つけてそこで戦うのだ、という寛容な意見が世の趨勢となっているようだ。一時的敗退、なんと素晴らしい響きであろうか! そうだ、一時的に負けてもいい。勝てぬ戦はせぬに限る。自分にとって不利な場所から立ち退いて、有利な場所でのみ戦えばいい。


 しかし、ほんとうの意味での敗走はこの世の中において(現代において、あるいは過去においても、どの世界でも)認められてはいない。かといって、厳しく禁止されているわけでもない。真の敗退、それはいうまでもなく、自殺である。この世界じたいが、そもそも自分の土俵ではないと確信したとき、あるいは生命よりも尊いものが汚されていると確信したとき、先の論理にしたがえば自殺は許されるべき、むしろ歓迎されるべきものではないか。そもそものこの世界の物理法則と社会的な法則性が如何ともしがたく一人の人間をどうしようもなく抑圧し続ける、そんなことは起こりうる。さらには、そういう不幸な人間はしばしばいっさいの慰めや安らぎを奪われているものである。世界から圧力を加えられ、世界から慰めを減じられる(あるいは、じつはマイナスの慰めを加えられていて、マイナス符号付き慰めをプラスのものだと思い込み続ける。減じられているにもかかわらず、加えられていると勘違いし続け、はっと気がついたときすでに根こぎにされているという恐怖)。そんなとき、ひとは世界を変えようと思う。半径五センチメートルの世界から、半径一キロメートル、さらには国家にいたるまで、さまざなな範囲の世界を変える営み。それは、ひとつの革命である。革命。なんという古臭くて、顔をしかめさせる言葉だろう! もう、我々は革命などという言葉を反射的に嫌悪する。かつての革命思想がなるほど間違っていたわけではないかもしれぬ。しかし、革命が引き起こす暴力と、革命思想にとりつかれた人間のキチガイじみた目つきと言説を我々は、社会の不条理以上に嫌悪するのだ。安定志向、保守主義だと彼らは我々を非難するだろう。どんと来い、と我々は思うし、そうした非難をあるいみで冷たく黙殺する特権を、平和主義者たる我々は保有しているのだ。人類は過去二千年にわたる歴史の積み重ねの中で、暴力ほどに愚かなものはないと学んできた。どれほどまでに暴力が人間の尊厳と権利と自由を踏みにじり、海にも匹敵する量の涙を人間に流させたのだ。もはや、暴力はいかなる理由があれども許されない。そう、我々は考える。どれほどに革命思想が正しかろうとも、それが暴力に訴えるのならばそれは無条件に間違いだ。 これが、一般的な世界標準であるように私には思えるのだ。


 そして、私自身もその意見を全面的に受け入れる。正直に告白すれば私の生の格率は、ガンジーにならって、非暴力不服順である。生活上、私はさまざまな困難を感じるし、不条理に頬を何度も殴られる。見るもの聞くもの触れるもの、私はそのほとんどすべてに不満を感じ、怒りを覚える。街。都市。メディア。私はまったくそうしたものを快いとは思えないし、不快だと思っている。されども、暴力をつかった変革はそれ以上に不愉快だ。ひとを殴る、ものを叩く、それは事故に対する最大の侮辱であるとともに、他者を冒涜する行為だと思う。だから、やらないしやりたいとも思わない。同時に、私はこんなことを思うのだ。その不満は、実際は自分の不甲斐なさを覆い隠すための自己防衛的なやつあたりではないのか、と。つまり、自分の無能さを人や物のせいにして、自己を正当化しようとする試みではないか、というわけだ。何かを肯定するためには、それを肯定する方法と、それでないものを否定する方法の二種類があるのだが、私の不満は後者ではないのか。ひどく情けないものだ。他者を否定することでエネルギーを得て、そうして生きていくのだ。惨めだ、とさえ思う。無論、否定によって生きることが悪だと言うわけではない。心理的な安定を保つための、人間に兼ね備わったあるいみ生得的な機能だともいえるからだ。生きるために人間が編み出し創り出した機能なのだ、とも言える。たとえ、哲学だの宗教だのが、真の人間は否定によっていくるにあらず力強い肯定によって生きよ、と教えるとしても実際問題、生きるための必死の努力が馬鹿だとは言い切れまい。されど、できれば肯定によって生きたいものだ。自分を、世界を、肯定しながら生きていく。なんだか、こちらのほうが健全な気がするし楽しそうだと思う。眉間にシワを寄せ得て、何につけてもグチャグチャと否定する文句を口にして、いつも顔をしかめて生きていくよりも。


 さて、長々とくだらない言葉を紡いできて、世間を非難しているのか、自分の意見を開陳しているのか、読者は困惑していることと思う。いったいあなたは何が言いたいのですか、そんな問いかけがちょっとした怒りとともに湧き出ていそうだ。つまるところ私はこれから、長くてすこし冗長な物語を語ろうと思うのだけれど、その物語は空想上の、想像上のものであると断りたいのである。なるほどたしかに、本当の現実の世界では、私は非暴力不服順だし、世間というものに対してうまく折り合いをつけながら生きていかねばと考えている。そして、これからも私は一般的であるし常識的であるつもりである。が、これから語る物語は、その範疇にない。いったいどんな人間が登場し、どんな事件を起こして退場していくのか、私にはまだ分からないのであるが、はじめにこうして断っておくことで、できるだけ自由に物語を展開させたいと思うのだ。これから語る物語は、想像上の体系である。思考の対象としてのあるいは思索の結果としての、嘘である。形を持った嘘。形をなぞることで、精神の運動を読み取ることのできるすこしだけ特殊な嘘である。すべては精神の内側で生起し、そして消滅する。精神の工房に私はひとりこもって、こつこつと印鑑を彫って、それを文字として紙に判を押そう。印鑑はいずれ忘却の彼方へと消えるだろうが、押された印は残り続ける。そしてその印は、見た人間の精神に印鑑を想起させるのだ。読者が再び創り出した印鑑が、私の考えていたものと違っていたとしても一向に構わないし、むしろ歓迎すべきだとさえ言える。優れた芸術作品は、その幅が広いのだ。

これは、今朝ってか今、長い長い長編小説の序文として書いた(書き始めた)ものでした。で、書いていてというか、書き終えてあまりの浅さに衝撃を受けたのでした。

なんていうか、毎朝四千字くらいの小説をかいてさ、一人悦に浸ってたんだけど、やっぱり僕くらいの年齢の人間は人生経験も読書量もあまりに浅すぎて、書いても仕方ないなって思えもするよね。

これまでさ、とにかく一人独房的な書斎にこもって(世間とのつながりをすこし減らして)本読んだりもの書いてたりしたんだけどさ、それじゃやっぱだめだなって思ったわけで。かといって、バイトだーとか遊びだーとかなんとか言って、くだらない単純作業で小銭稼いで苦労と言うなの自己満足に浸ったり、サークルの遊び会みたいなものに参加して愚にもつかない会話に時間を潰すっていうのもちがうんだけどさ。結局の所でもね、世界というか人と関わるってきわめて重要だと思う。それは、馴れ合いだとか身体が渇望する欲情的な欲望っていうんじゃなくて、(かといってストア派的に抑圧せよってわけでもないんだけど)もっと上昇志向的なそれも金銭や社会変革みたいなアヘン的上昇じゃなくて(「革命は民衆のアヘンである」ってそのとーりだよね。僕はそこに金銭を加えたい。学生団体とかさ、意識高い系って一種の薬物依存といえるひとがたまにというかしばしばいるから怖いんだよね)芸術的な上昇志向がほしいななんて思う。純粋に良いものをっていう唯一の向上な気がするな。あの怪物的な狂気ね。芸術家の狂気は個人的にむちゃくちゃスキだな。ゴッホが自分の耳切り落としてさ、愛人に送りつけたみたいな話。あれは、個人的にはシャチョーの成功談より格段に面白いな。

そんなわけで、とにかく読書量を増やして、経験量を増やす方向にシフトしようと思いました。

想像力のはなし

またサークル紙に出すための小説を書いた。で、昨日かな、一週間くらいかけて四万字くらいのものを書いて見た。三つの短編小説を一つの主題の上で連結させて、色々な角度と色々な道筋を描いてやって、テーマを描き出すっていうまあ、よくある短編小説集的な手法を使って書いたわけで。村上春樹の『神の子どもたちはみな踊る』的な感じ。この本はよかった。特に、『かえるくん、世界を救う』はなんども笑ったし、それでも単なる喜劇ではなくてやはり一つの主題が詰め込まれていて、すごいなあと思った。なんていうかな、この短編小説集に限らなくてもいいんだけど、人間の意識の下あるいは意識と対象との間に透明化されている、怒りや悲しみや苦しみといった負の感情をさ、寓話的に描き出すって感じなんだよね。シュルレアリスムというか、ピカソの絵みたいな。「悲しいなあ」って言葉で感情を綴っても何にも面白くないというか、何もそこに奥行きはないけどさ、その感情を膨らませたいから長い物語を書いたり神様を登場させたり空想を挟んだりするんだよね。小説なんて読んでも仕方がないよだって所詮虚構で日常生活に何にも役に立たないからねならばむしろビジネス書の方がいいぜ、っていう意見が多分世の中の趨勢なんだろうけどさ、そうじゃないんだよね、そもそもの目の向けどころが違うっていうか。小説は嘘でフィクションで長いことは確かだよ、けどそれはそれそのものが目的で書いてるんじゃない。わざわざ長々と嘘を拵えるのはさ、化学みたいな簡単な命題や数式で提示できない感情や思想を、伝える手段だからなんだよね。そりゃ、「言葉は短い程よい。それだけで信じさせることができるのならば」だよ。でもなんで、そうだな、例えばドストエフスキーカラマーゾフとか罪と罰があんな暴力的長さかっっていうとさ、それくらい長くしないと伝えきれないものだからなんだよね。いや、別に伝えるだけならひょっとするとできるかもしれない。結局、あの小説を一文にまとめればさ、「神いないけど人間は善くないといけないぜ、人殺しちゃダメよ」ってことに帰着するんだろうけどね。で、まあなんていうかさ、まんがで読破みたいなお手軽インスタントコンテンツあるじゃん。あれって、いわば氷山の一角だけを切り取って提示してるだけなんだと思うんだよね。その下にはさ、偉大な作品であればあるほど巨大な建築物があってそれを伝えるために氷山の一角があるのに、一角だけを切り取るって倒錯だよ。

人間と動物を隔てるものはさ、っていうか人間の優劣をつけるものはさ、どれだけ利益を産むかっていう資本主義や市場主義みたいなものじゃないと思うんだよね。結局さ、想像力がどれだけあるかってことだと思う。道徳っていうさ、なんか国か宗教が社会の安定化のために広めた固定観念だってよく常套句的に言われるものあるじゃん? そういう言説は間違ってはないんだよ、間違ってはないんだけど、履き違えてるなって思うわけで。つまり、道徳っていうま人間を善なる存在たらしめる命題の体系はさ、やっぱり想像力の型なんだよね。あれは別に公理ってわけじゃないんだ、想像力に秩序を与えて作った産物的な感じ。だから、想像力がない人間もある人間も等しく善を享受できるっていう優れものなんだけど、それと同時に、想像力を欠いてさしかも理解力を欠いた人間はそれを勘違いして解釈しちゃって、原理主義みたいな暴力が生まれてくるんだよね。だからその意味では、すべての悪は想像力と理解力の欠如に由来する。
話戻すとさ、人間って想像力膨らませないとダメだよねって最近思う。例えばさ、まあ簿記でもプログラミングでもなんでもいいよ、金を生む技術を手につけるってあくまでも生計を立てるための手段なんだよね。目的じゃないんだ。目的は別の場所にある、いやないとダメなんだよね。ないと、そりゃ、金稼ぐ自動機械になっちゃう。ま、その目的とは何かっていう問いは宗教でも哲学でも問い続けら今尚答えは出ないんだけど、だから「神に仕えることである」とか「父と子供に奉仕することである」みたいな容易な問いを誰かから与えてもらうっていう選択と、悩み続けて煩悶とするっていう選択があるんだよね。前者はさ、社会から目的をインストールする感覚。そこには別になんら想像力は働いてないよね。で、後者は目的を自分で想像して考えるっていう過程を踏んでるよね。で、導き出した答えがたとえ社会からインストールされたものであるとしても、そこには想像力が介在してるから自我があるわけだ。

前者はさ、もう、動物的だよね。もちろん、生きやすくはあるんだけどつまり種の保存的にはグッドなんだけど、やっぱり人間っていうよりもディー・エヌ・エーを後世に伝える遺伝子コンテナー生物人間みたいなとこある気がするw それじゃあなんだろね、肉体と精神にさ快楽を与え続けて、まあ快楽物質を貪り食うって感じかな。楽ではあるけど、どーなんだろね。
後者はさ、ある意味でさ種の保存的にバッドつまり身体と精神にストレスをかけて寿命を縮めながら想像し続けるわけでしょ。快楽っていうかさ、苦行だよね。苦行の先に、実は何にもありませんでしたーみたいな、全く面白くないバッドエンド、つまりニヒリズムとかペンシミズムにいたって自殺しましたよっていうやつね。こりゃ、もはや喜劇だよね。悪は振りまかないよ、けど内部に悪を溜め込んでる感あるよね。「たとえ好みが泥の塊に成り果てようとも、何一つ穢さずにいたい」っていうのはある女性哲学者の言葉なんだけどさ、想像して悪を回避するっていうのは、想像上で悪を犯してシミュレーションして悪を自己の内部に溜め込むっていう操作でもあるんだよね。そうすることで、自己を汚してさ、外に悪を振りまかないようにするっていうね。極めて善であることっていうのは、ある意味ではそれだけ悪であることを意味するんだね。ソクラテスとかあの辺りも、多分だいぶんさ、悪を想像上で犯してそれこそ山のような悪のシミュレーションの結果としてあれだけの善を提示できたんだろうね。

ま、シミュレーションの計算能力とその結果を保存しておくハードディスク的なものを足し合わせたものが想像力なんだろうけど、人がみんなそんな能力を持ってるわけじゃない。計算遅い人もいれば、記憶力ない人もいるよね。だから、人間ってみんながみんな善でいられるわけじゃないんだろうね。悪人も放っておけば出てくる。そこで、宗教と道徳の出番なんだな。こういう想像力が不足した人たちに、ある意味ではインストールさせることで社会の秩序を保つしその個人の安全を保つっていうね。ほんとは、自分で想像した方がいいんだよ、でもできない人のためにそれがある。あるいは、想像の型や見本として提示することで、想像力がある人がより高いところに行けるよにするっていう役割も果たすかな。プログラミングのライブラリ的な。

 

そんなわけで、想像力を使う仕事、まあ芸術家とか哲学者とかね、彼らがたくさん自殺してるのは内側に溜め込んだ悪に耐えきれなくなったからだろうね。想像力高めるってことは、それだけたくさんの悪をストックするってことだからね。鬱が小説家の職業病って言われるのも納得だろうね。言語ってあまりに概念と距離が近いから、そんな危なっかしい劇物を調合してたら死にたくもなるわな。
なんていうか、僕もまだ読書初めて一年とかでさ、全然小説も読めてないんだけど、やっぱりそれでも小説家っていうか文豪は、鬱の人自殺する人多いよね。

そんなこんなで、アマチュアですらないぺいぺい大学生の僕みたいな人間がちょこっとした小説を、それこそ人生のおつまみ感覚で小説を書いてみたんだけど、それでもやっぱり独特の憂鬱さを感じるよね。で、しかも案外病みつきになるっていう。化膿した傷口みたいな。むちゃくちゃ痒いんだ、痒いからかくんだけど、すごい痛いし悪化するっていうあれ。想像するっていうのは精神のリストカットだよね。結局は自己満でしかないし、とか言って国家のためだーとか人類のためだーっていうのもなんか純粋性を失うからどーだろーねって思う。

似非でもさやっぱりすごい頭には刺激が強すぎるみたい。ここ何日か、睡眠時間3時間とかでさ、しかも寝てるって感覚がない。寝てる時にも頭の中で言葉がレースしてる感じ。ぐるぐるね。一昨日は、なんか知らないけど、外国人が出てきて英語で、真の芸術はーみたいな長談義聞かされた夢見たし、内容忘れたんだけどその長談義の内容が自分でもびっくりするほど斬新だと思ったんだよね。なんて言ってたかな、思い出せないんだけど、とにかくさ、夢と現実の区別が曖昧になってきてるんじゃないかなんてシャレにもならないことを思うんだよね。

 

昨日やっと書き終わってね、ようやくゆっくり眠れるなあと思ってたんだけど、今度はさ、もっとたくさん小説読まねばっていう強迫観念に駆られて活字中毒になるっていうねw 書いてるとさ、語彙の貧困さとか哲学的思考の欠如を思い知らされるんだよね。例えば、社会に抑圧された人間のイライラを描くシーンとかではさ、あーフーコーが学校化とか言ってたっけ制度だよね、っていう曖昧な知識しか頭の中になくてすごいイライラしたりね。いや、そういう知識をさ小説に直接ぶち込むってことはしないよ、しないけどね書く時に頭の中にそういう知識があった上で書くのと、何にもなしに書くのはやっぱ違うね。読んでてもそうなんだけど、やっぱりあー多分ここはなんとか主義の考えが頭にあってこれ言わせてるなーとか思うわけ。やっぱすげーなみたいに思うんだけど、そういうものが全然ないしょーもない作家とかはそんなこと思わせてくれない。よくさ、純文学と大衆文学の違いはなんだ?って言われるけど多分ここじゃないかな。作家の知識量の差。どっちもどっちでさ、純文学もさ芸術性とやらの孤高の殻に閉じこもってちゃダメだし面白くなきゃダメだと思うし、大衆文学もさ道徳性を欠いたいわば官能に訴えかける大衆をそれこそ制度としてまとめ上げる役割やっちゃったら最悪だよね。単なる快楽物質を提供するしょーもないコンテンツになったらさ。その意味では、さっきも書いたかな書いたけど、村上春樹っていう存在はその境界を問うなって思う。ま、それはまた書くとして、とりあえず、やっぱ知識ないと書いてもしょーもない作物できちゃうっていう恐れね。

とにかく知識をメタ化してストックしとかなきゃいけないわけよね。受験勉強みたいにさ、徳川家康将軍かくのたまふっていうのはどーでもよくて、そののたまった内容を一種のさ液体っていうか気体っていうかメタ化しておくんだね。で、調合可能な状態にいつでもしとくこと、できれば知識という個体に戻せればなおいいね。
才能才能言うけどさ、やっぱ才能ってここに出てくるんだと思うな。どれだけのストックがあるか、でどれだけ鮮やか自由自在に状態変化ができるかね。僕はつくづく自分の知性のアサさを思い知らされてはっきり言って涙すら出ないレベルなんだけど、文豪って言われる人たちはここがとにかく人間の比じゃなかったんだろうね。創造って言うのは、頭ん中の化学物質の調合だからさ、あー天から湧き出たように小説が浮かんでクルーっていうのは溢れちゃってるんだろうね。

 

とにかくインプットだよね。ひたすらにね。インプット、まあ精神的な捕食。一番効率いいの、文字だね、やっぱ。映像と音声は遅いし浅くなりがち。思考が言語で展開されてるから、その言語と最も近い場所にある、ほんとは脳のシナプスの電気信号とかなんだろうけどそれはまだ人類には扱えないから、多分一番近いのは文字だろうってね。だから、読書ってことになるのかな。

でさ、問題は、何語でやるかだよね。大学でもとにかくこれからの時代は英語だから試験いっぱい受けなさい、みたいな風潮なんだけどそれって、じゃあ日本語は会話の手段だけであって思考の道具としては英語使いなさい、そっちの方がいいよーってことかな? 確かにさ、文献の量は英語の方が多いし、使う人間も多いぶんさ英語の方が思考の深さも深いんだと思う。だったら英語で読んで書くべきか、っていうどうしようもない、まあ西洋と東洋の退治と受容っていう明治以来からの問題がまた出てくるわけなんだよね。漱石とかね。
これはさ、多分、永遠に出ないね。東洋人は、永遠に対決し続け悩み続ける問題だろうな。西洋の方がすごいじゃないか、いや東洋の伝統を見よ、っていう一種のナショナリズムね。

難しいけど、やっぱ一つ言えるのはさ、閉じた系って弱いよ。対応しきれないから。

その意味では、西洋にちょっとした根を持ちつつ、日本語で思考するっていうのがテンプレ王道スタイルかなって思う。英語で本を読めて、でも太い根は日本語に貼るっていうやつ。何ヶ国語もできなくていいんだよ、けど英語はやっぱり読めないと閉じた軟弱な系になると思う。

というわけで、閉めますけれど、最近はとにかく世界文学を日本語で読みつつ、寝る前に少し英語を読むようにしてる。楽器の練習する感覚で英語はやってる。引ければ儲けもんって感じで。思い出したけど、最近買ったギター、弦きれちゃって放置してるのが少し心が痛む。

不眠症、心因性発熱、難聴と死と芸術。

あー、最近また不眠症ぶり返してきていよいよ片耳も聞こえなくなってきた。あと発熱もでてきたし、もうこりゃいわば心因性なんちゃらってやつだ、ちゃんちゃらおかしいや。

で、美しさっていうのはさ苦しみだとか憎しみや鬱や悔しさみたいなドロドロと無秩序に存在する情念をきれいに秩序立てて眼の前に提示するからこそ成立する概念なんだよね。だから、もうさっき僕が書いたみたいな体が苦しい頭が痛いみたいな酒屋の陰口的な言葉の連鎖は所詮、くだらない駄文に過ぎないってね。
だからこそ、文学だとか音楽だとか絵画っていうのは一つの芸術として世間一般に認められてありがたがられて、芸術家っていう人種は尊敬されつつその一方でどこかしら軽蔑されてる部分もある。それは、人間の汚い部分を秩序立てて見えるにせよ見えぬにせよ提示するから。そこに人は恐怖を感じつつも感動する。そこには、持ってるんだが持ってると認めて開放した時すべてがおしまいになる深淵的な秩序があるからね。

なんてか、芸術ってリベラルアーツのうちのひとつで教養のために芸術やりましょーって世間の人たち言ってるけどさ、で、文学の造形があります夏目漱石ドストエフスキー僕私読んでます素晴らしいですみたいな言葉がかっこよさの記号として流通するんだね。で、その記号に対してああかっこいいな知的だなっていう憧れみたいなものがにょこにょこ出てきて、俺もなにか芸術の一つや二つ勉強しようじゃん!っていうイキった人たちが誕生するという。芸術に対するあこがれ、ね。専門学校行って俺は芸術を極めるんだー的なね。

けどさ、芸術ってその奥底の根底の部分には見るに耐えないほどの聞くに耐えないほどの、嗅いだら鼻がもげちゃうくらいの闇があるとおもうんだよね。闇ってぼかしたけど、つまるところ、死ね。それと、精神分析学よろしくリビドーね。それと、リビドーに付随して孤独ね。この3つのうちのひとつは絶対に芸術に含まれてると思うんだね。

楽しい芸術ってなによ、って思うんだよね。笑顔で芸術やってます、美しさをみんなで一緒に探求しましょうって冗談言うにしてもちゃんちゃら可笑しいや。あまりに聴くに耐えなくて、たとえばさ、幸せになるための芸術活動ってことば。これ、ひどいや。もちろん、幸せっていう目的に付随して芸術をうまいこと加工してやれば楽しい芸術鑑賞ってのは成り立つよ。でもさ、それはあくまでも芸術を鑑賞するって話。いやしくも、芸術と一体化しようってんならつまり制作しようってんなら明らかに、それは不可能だ。

 

まあ別に芸術じゃなくてもいいんだけどさ、本当に真剣にある一つの対象にエネルギーを注ぎ込む作業ってさ、孤独じゃなきゃできないよね。みんなで一緒に楽しく道を極めましょうって、噴飯ものだよ。そりゃ楽しむんなら協力してみんなで一緒に楽しもうぜって思うよ、でもさ、真剣なら楽しめはしないよね。もし楽しめたとしても、みんなで一緒にやるときに目指す楽しさとは次元が大分違うと思う。

そんなこといいながらも、なんとかして孤独とか死みたいなものから逃れたいって思う、とうぜん僕がそんなものの知覚に確かに在るってはいわないよ。もしかしたら僕が感じるような死とか孤独の恐怖ってのはたんなる自意識過剰の幻想かもうそうかもしれない。でも、在ると感じてるって事実はゆるがないんだな。ないじゃないかってことを必死に、それこそ文字通り死ぬ気で証明しようといろいろやったけど結局逃れられない必然としてそこにあったんだよね。
ま、どうするか? そんなこと簡単で、話のわかる生身の人間(って言い方自体がもうすでになんか独善的独我論的なんだけど)と議論戦わせるしかないんだね。生身の人間ってのは、つまり書物の中にいる想像上の人間じゃなくてっていう意味ね。あ、ちなみに想像上のそうした孤独や死から逃れるための人間ってのは、神ね。イエス・キリストとかお釈迦様とかがそれにあたるね。哲学の神が人間の肉体を持たないできわめて概念的だったのに比べて宗教の神は受肉してるぶんとても救われやすいんだね。だからさ、僕もまあ神様信じてみようかなっては思ったさ。中世あたりだったらそうしてたね。
でもさ、現代にはやまのように神って存在を否定した思想があふれてるし、科学や文明っていう物を目にしないで生きることができない以上、神を信じるなんてえらく神様に愛着ないとできなんだな。ぼくの家は普通の日本人家庭だから、神様なんて単語小さいときからずっと馴染みなく育ったからさ、不可能なんだよね。神に救われるのって。

ホントはさ、カルト宗教に騙されて救われた気になるのが一番なんだな。ああ、カルト宗教ってのはそのままの意味だけじゃなくて、資本主義におけるボードリヤールよろしく消費される記号シニフィアンの体系だとかも含めてね。お金を稼ぐためのコミュニティが大学内にいっぱい発生してるけどそれも含めてね。ある一つの合目的性をなんら深い論証なしに盲目的に信じさせるものね。目ん玉(もちろん、理性や良識っってことが言いたいんだけど)つぶせば、そういうものを信じれるようになるけどさ、やっぱり目ん玉潰してまでみっともなく生きていたくはないよね、目ん玉つぶして見にくい生き恥晒すくらいならば死んだほうがある意味マシだよ。その意味では、てかべつに蔑むとかいうわけじゃないけど、羨ましくて仕方ないんだよねじつのとこ。栄とかギラギラしたファッションで女と男と大所帯で都市をぶらついてる同じ年くらいの人たちがさ。あれぼくにやれって言われても度胸ないから不可能だし、心情的にもやりたいとも思わないんだよね、けどやりたいって思える状態になりたい。

 

じゃ、どうするねって。自己変革とかさ自己啓発的には言うよ。このままじゃ俺はだめだだから変わらなきゃだめだっていう決心ね。でそこから必死に勉強して苦労してお金持ちになりましたーっていうサクセスストーリー。
で、お金欲しいか、友達たくさん欲しいか、いっぱいたくさんの可愛い女の子とわちゃわちゃしてたいかっていうとそんなことない。むしろ、そんなのいらない。ただ欲しいのはさ、安らぎってか慰めなんだよね。絶え間なくホメオスタシスを破り続ける自己否定の連鎖から開放されたいんだよね。これってあまりに残酷なディストラクションだと思うよ。努力を根こぎにするって最強の技だよ。いるよねどのアニメにもさ、能力無効化できるやつ。黒ひげとかね。あれチートだと思うんだけど、やっぱり最強は無効化根こぎなんだろうね。

理解するってさ、とてつもなく難しいんだよね。人はよくさ、あれは変だっていうよ。けどその変っていう言説の提示は、理解じゃない。ただ知らぬって事実の表明だと思うんだよね。あああの宗教変だね、あの人変だよって言うのは簡単だよ。俺が知ってる知識の範囲内は常識でその外は変ってラベリングしてるだけなんだから。けどね、本当は変って言う前に理解って過程がなきゃいけない思うんよね。理解はさ、相手の精神とか言葉の意味が頭んなかに入ってて底と照らし合わせて了解するっていうことでね。つまり、理解するためには相手の人間の頭の中に入ってる知識と同じくらいの知識がなきゃだめなんだね。二人の間でおおきくさ、知識の量の差がありすぎると、理解はほとんどできないんだね。だから、芸術家っていうのはどこまでも理解されなくて自分を高めれば高めるほど孤独さはまして行って最後死ぬんだよ、彼らは馬鹿だから死ぬんじゃない自分を高めてその究極の先にある孤独ってものに耐えられなくなって死ぬんだね。眼の前にさ、えらーい芸術家先生、まあ文豪でも哲学者でもいいんだけどさ、その人をはたして僕らは理解できますかっていう問題。無理だよね。あまりに知識の量の差がありすぎる。それはさ、理解出来ない側の問題なんだね。理解されない側はただ自分を高めるっていう営みを必死にやってさ、最後にたどり着いた先に「変」ってレッテルはられるんだ。それってあまりに理不尽なんだけど、しょうがないことだろうね。

まあ、だからってわけじゃないんだけど、頑張って努力すればするほどにだんだん独りぼっちになるし見える世界も常識とかけ離れてく。そんな人間がさ、理解してほしいなんて希望を持ったところでちゃんちゃらおかしいもんになる。

もちろん、僕がすごく偉くて頭良くて知識豊富で高みの見物してるって言ってるわけじゃなくて、このまま僕がやってる努力を続けた先に待ってる絶望の話をしてるんだよ。決して、自己賛美がしたいんじゃない。

当然、環境ってのも大事だよね。同じようにさ、自分を高めようって純粋に考えてるような人たちがたくさんいる場所にいればさ、こんなへんてこりんな考えには至らないよ。でもね、そんな考え方をする人間は世の中にごくごく少数なんだと思うんだよね。ほとんどのひとたちはさ、社会のなかでそこそこのお金と地位を得てさ、いろんなものを買って暮らすことが幸せなんだし目的なんだ、その枠組から出たいとは思わないしひょっとするとそんな枠組みにすら気が付かないで、大衆やってるかもしれない。

どっちがいい悪いって話じゃなくて、ただたんに僕が枠組みから好き好んで出て、人間として高みを目指したいって頭おかしい考え方してるんだって話ではある。で、同じようなことを考える人がいないからって、駄々こねるだけなんだけどね。
でも、その駄々はけっこう頭を苦しめてひとりの人間を不眠症にして難聴にするくらいの力を持ってるっていう恐ろしい代物。

 

 

小説や哲学書を読んで、小説を書いてるからこんなことになるんだけどさ、やめられないんだよね。コレ以外に本質的に意味のあることが見つからない。どっかの詩人が書いてたけどヴァレリーかな、「芸術と学問だけだ、二日酔いのような不快さを伴わない快楽を与えてくれるのは」ってね。ほんと、そのとおりだと思う。なにしてもさ、そりゃやってる最中楽しいんだよ、ゲームも遊びってやつもさ。でも終わったあとの虚無感と来たらこりゃないね。恐ろしすぎる。

特に小説書くのは妙に病みつきなんだよね。カネになるわけでもなく、誰かが読むわけでもないのにさ、こっそりとカチャカチャ毎日書いてんだからある意味虚しいよね。でも、意識を飛ばせるのって小説を書いてる瞬間だけなんだよね。他のことやってるときはさ、すごい苦しい物事を考えて自己否定しちゃう。あ、自己否定って行っても俺頭わりーとかだせーとかいわば自虐じゃないよ。いちいちありとあらゆる認識にさ、ゼロをかけていくんだよね、マイナスを掛けることもあるけど。そんな意識って苦しみでしかないよね、あーなるほど自殺した人たちはこんな事を考えて苦しんで死を選んだんだなっていうちょっとしたためしてガッテン的な納得したりしてるんだけど、笑えるよね。ほんとに。ま、もちろん自殺なんてしないけど。右手でナイフ掴んでるのは事実だよ、けど左手がその右手を必死に抑えてるからとうぶんは安心かな。ドストエフスキーの二重人格って小説みたいに、へんてこな幻想が出てきたらそんときは終わるけどねw

 

どーせ今日も寝れないな。豆電球に薄暗くした部屋にひいた冷たくて硬い布団にくるまって、ビートルズでも聴きながらせめてもの否定を緩和するかな。小説家書けばいいじゃんって思うかも知んないけどさ、そうだな例えば自伝小説太宰治みたいな。あれやったら絶対ダメだと思うんだよね個人的に、死への階段を降りてく感じする。どっかの批評家が書いてたけどあれやるとさ、ほんとに舞台から退場できなくなる。やるならせめて神の目線から書かなきゃだめなんだけど、その境界線が破られるのが怖くて書けてないや。あー。トマス・マンとかドストエフスキーみたいに馬鹿みたいに長ったらしい小説をさ、十年近くかけて書きたいな。延長って唯一の救いだからね。  

【生活1】部屋紹介と個人的よかった本ベスト3

今の書斎

太宰治の『葉』のなかに、「生活。」という文章があるけど、この文章を始めてみたときどこか感慨深い気持ちになった。たった二文字に丸をつけて文章にしている。美的にも哲学的にも深遠な文章だという印象が残ってる。

で、生活っていうのはたとえば正しさとか美しさや効率や将来みたいな単語よりも僕ら人間にとっては遥かに重大な意味を帯びていると思う。というのも、例えば「人生」とか「未来」や「現在」みたいなあらゆる人間に関わる単語は結局のところ「生活」を言い換えたものに過ぎないから。命や生命だってつまり、「生活」のことだとおもう。

そんなわけで、生活について何個か記事を書いてみようと思って、第一回目が生活の空間である部屋について書く。で、僕にとっての部屋はゲームする場所や食事する場所という意味合いもあるのだけれど、やはり何かを読んだり書いたりする意味合いが強い。今年に入ってから、部屋を書斎にしようという書斎計画のようなものを一人でちゃくちゃくと進めてきて、最近ようやく部屋が書斎っぽくなってきて喜んでるところだったりする。

これが僕の部屋すなわち書斎。

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まだまだ発展途上で未熟なエセ書斎ではあるけれど僕なりに結構気に入ってる。
右側には、一つ腰くらいまでの高さの書棚と、背の高さよりも高いでかい書棚の2つをおいている。これは、椅子に座ったときに右側の洋服ケースが目に入らないようにするためのもの。

で、正面には背の高さほどの書棚が2つおいてある。集英社の世界文学全集全80巻ほどとがぎっしり詰めてある。その右側の書棚には、世界の大思想全60巻が入ってる。

左側の書棚には、日本文学全集全70巻が詰めてある。

デスクは、広々とスペースを取るためにディスプレイを斜めにおいてある。ちなみに、このパソコンは液晶が割れてぶっ壊れたMacBook Proを繋いでデスクトップ化している。画面は、stoneというきわめてシンプルで使い勝手のいいエディタを開いてる。大学の文芸サークルのサークル誌に載せるための小説を書いてる。画面の前に置いてある紙はディスプレイの文章を印刷したものを置いてる。
小説でもレポートでも文章はできるだけ、デジタルで文字を書き込んでからアナログに印刷して手を加えて推敲するようにしてる。

 

過去の書斎

1代目書斎

 

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春頃の書斎。本棚の数も圧倒的に少ない。
机もこのときは小さな60cmほどのものしかなくて、パソコンもまだ壊れてなかったからディスプレイもない。持ってた本の数も少なかった。
このころは、なんか英語の勉強してた気がする。
とーいく、みたいなものの勉強してた。
アマゾンアレクサで音楽かけてた。

2代目書斎

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いつかな、たしか夏休みの部屋はこんな感じだったと思う。
暑かったから扇風機かけてた、右端に見える。
ちょうどコの字に本棚と机を配置して、その真ん中に椅子を置いていたから、椅子を後ろに引くと本棚にあたって窮屈だったから、今のスタイルに変えた。
さっき紹介した背よりも高い本棚がこのときにはなかった。

 

本について

だいたいこんなにたくさん本置いてあるけど読んだのか、と聞かれたらごめんなさい全然読んでませんと答えるしかない。世界文学全集も日本文学全集も哲学全集も、一切合切ほとんど読んでない。
だいたい毎月読む量以上の本を買ってしまうから、理論上部屋にある本を全部読むなんてことはできない。

けれど、全集をバカみたいに購入して部屋に置いておくことはとても意味のあることだと思ってる。本を読んでたりネットサーフィンしてたりして、読んだことはないけれど部屋に置いてあった本の題名を見つけることがある。そういうときすぐに手にとって、本を開いて中の活字を眺めることができる喜びはかなりのものだと思う。

けっきょく、書斎は考える空間で、考えるとは言葉のハイパーリンクを構築することだと思う。で、深く広く考えるためには必然的に言葉を数多く所有しないといけない。できるだけ言葉を精神の近くに置いておく必要があって、その一番接近させる手段は暗記。頭の中に言葉をぶち込んどく。で、とはいえ世界中には無限の言葉と観念が存在しているし、人間の記憶力には限界がある。だからこそ、書斎という空間に数多くの言葉を所有して、使いたいときにアクセスできるようにしておくといいと思う。 

 

一番気に入ってる本。この一年(読書を始めたのは今年の一月だから)読んだ本の中でよかったものベスト3でも書いて、書斎の紹介を終えようと思う。

1.アラン著作集1 思索と行動のために

読むのに半年かかった。
難しいテクニカルタームは使わないけれど、それでもえげつなく深い思索を書物に詰め込んだ感がある本。
考えるとは何か、思索するとはどういうことか、その他哲学的な問題をシンプルな道筋で示す。読むのに、かなりの時間がかかるけれどいい本です。

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2.思想のドラマツゥルギー

絶版になってるけど、ぜひ復刊してほしい。けど、復刊しても売れないだろうと確信できる本。というのも、中には書いてあることはさっぱりわからない。ヨーロッパ精神について林達夫久野収が雑談してる本なんだけど、全然話が読めない。でも、すごく引き込まれる。次から次に、知識や考えが飛び出してきて、知性とはこういうものだ、と語りかけられてる気分になる。

ちなみに、この林達夫はえげつなく恐ろしい思想家です。
岩波文庫の誤訳を指摘した事件は有名。
文章も中身もとても面白くて、全集を買った。これから読む予定。

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 3.重力と恩寵

万人向けではない、少し「思想臭」の強い本。
キリスト教的な、善を追求した本。
シモーヌヴェイユの人生は、なかなかドラマ性の溢れる壮絶なもの。
あんまこんなこと言ったら世間から怒られそうだけど、この考え方というか哲学てプロセスはヴェイユが女性だからできたことかなと思った。
相手に寄り添ったとても優しくて心配りが行き届いた思想だなと思う。
哲学者ってか哲学って結構冷たくて自己中心的なきらいがあるように僕には思えるんだけど、この本は相手に寄り添った暖かい哲学と思う。

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欲望、都市、趣味、オフライン。

知識や興味はもつ本人が自由に選んで、たとえば俺はmol-74が好きなんだ、とかシューベルトをコーヒー飲みながら聞くのが趣味だとか、編み物を最近始めたんだ、みたいにみんな個性があって趣味を持ってると思いがちで、個人を個人としてアイデンティファイするものはその人の性格と意志なんだって思ってたけれど、どうも最近そうじゃないらしいぞと思い始めてきた。

趣味は何ですか?と大学入学と同時にサークルや授業やバイトの自己紹介で耳にタコができるくらい尋ねられたし、たくさんの新入生が尋ねられているのを見聞きした。たいてい、「読書です」とか「ファッションです」とか「テニスです」みたいなこれまたお決まりの単語を並べて、返事としても「ぼくもわたしも好きです、楽しいですよね、テレビでこの間やってました」みたいな問答を繰り広げるさまを見て、体験したりした。趣味、そんな言葉を高校卒業まで使ってこなかったし使う必要もなかったと思う。ただ、学校に行って勉強して部活をして家に帰って飯を食べて風呂に入って予習復習をこなして眠る、かんたんな生活の繰り返しで十分な満足感を伴う生活を送っていたとおもう。ところが、大学に入って、というか社会に出て、趣味はなにかと一種の持たなければならないぞという強迫が裏に潜んでいるかとさえ思われる質問のやり取りが行われているのを知る。で、さあ趣味を作らないとと思って、なにやらわけのわからないサークルに入ったり、へんてこなタイトルの本を買ってみたり、ゲームソフトを買って遊んでみたり、街に繰り出してかっふぇめぐりやファッションショップめぐりを始めたりする。

大学も街も人間の総体も集団もすべからく都市である。趣味という二文字を目の前にくりかえし提示されてどことなく怯え、アイデンティティーを確固たるものにすべく興味と欲望を「こしらえて」自らを仮設した欲望を満たすために都市に身を投げ込む。ほんとうに興味があるのかよくわからない人やモノで自分の身体と精神のまわりを取り囲んで、服を着るように自分の個性とやらを主張してみる。ファッションといえばいいだろうか、結局、趣味というファッションで身を包んだところでどことなく虚無感が残ってしまう。無機質的な記号としての欲望と興味をこしらえて満たしたところで、本質的な解決に至らないことを頭のどこかでわかってはいるけれど、本当の自由に身を投げ込んで時間的にも空間的にもカオスにドロドロとした液状化するくらいならと、都市的な秩序の中にとどまることを選ぶ。

何が言いたいかというと、消費社会論からの脱却はというか現代社会的な諸矛盾からの解放、まあこれは資本主義の矛盾とか労働の搾取とかいうマルクス主義イデオロギーの正当性をも含むものだけれど、それは不可能だっていう結論にじつはいたってるってこと。完全なユートピアを哲学とか思想的に実践することで実現することは、ぼくはもはや絶対に不可能だと思ってる。むろん社会の問題を解決しようと懸命に頑張る人たちをたしかにぼくは尊敬するけれど、その努力の源泉にあるのが都市的なそれこそファッションとしての社会運動つまり空いた時間を埋めるための活動になってるような人たちの内部の空虚感の大きさをこそ忌避したい。不可能だって自覚していながら、自分の力と可能性のちっぽけさに絶望していながらもそれでも実践せざるを得ないという絶望のうちの活動にこそ正しさが宿ると思ってて、可能性!とか明るい未来!みたいな耳あたりの良い文句を喧伝するような社会変革運動ってやっぱりどーだろーと思ったり。

でも、ものすごく孤立化した都市化した無機質的な暮らしというか、まあ最近でいえば21年卒から就活ルール変更みたいなある種の労働ありき金儲け第一主義的な社会と、労働のための人材育成になってる明らかにオカシイ社会の状態に絶望しないわけにはいかないよね。卒業してから金銭的な幸福の中に身を投げ込むようにプログラムされた資本主義的な社会の線路を一生懸命進んでいて、その路線からべつの路線へ移ることも広い荒野の中に身を置くことも実質的には不可能な、絶望的な状態ではあるけれど、だからといってその線路を悪だと断じて変革だ社会主義共産主義だ阿部政権打倒っていうのもだいぶんずれていると思うわけで。

なんやかや社会の文句たらたらな社会だけど、じっさい生命の危機かって言われるとそんなことなくて明日の衣食住に困窮して餓死してしまうようなひどい状況にもない。身を犠牲にした革命っていうのは、命の危機に瀕した社会で起こることだから、ある意味恵まれた恩恵的自由を与えられた現代日本ではまず起こりえないし意味も意義も持たないような気がする。

けれど、やっぱりこのままじゃつまらないって思う、だって都市の中に欲望と好奇心の源泉を見出して稼いだ金をそこへつぎ込んで快感を得ろと言ってるようなところに、のこのこと身を投げ出す気にはなれないです。都市を太らせるために金を稼いでるともみえるわけで、とんでもなく非人間的だとおもう。

 

欲望を脱構築すること、ここにあるとすればある希望の光が見えるとおもう。好奇心もその中に入れてもいい。欲望して満たすという日常生活の営みが都市中心のものならば、そして都市の変革が不可能であるならば、都市の公理化をなげくのではなく、こちらがわにある欲望を解体して子細に観察してあたらしくつくりかえればいい。
「なにか」を欲望するという現象の根源に都市が置かれている、ならば根源を都市からほかのなにか人間的なものへと置き換えればいい。

「なにか」を欲望させる都市のひとつの機関として、メディアがあることは周知のとおりで、ぼくらがスマートホンやテレビを通して触れるコンテンツの中に欲望を作り出す装置があるとメディア論はいってるらしい。広告はいうまでもなく、映画の中で使用される小道具や暮らしそのもの、ユーチューブで見る動画の内容、ウェブサーフィンつまりグーグルが掘り出してくる情報そのものが、欲望の源泉として、いわば易怒的な役割を果たしていることはまちがいない。
テレビを捨ててスマートホンとパソコンを手放して、オフラインになること、そうすれば否応なく押し寄せる「暇」を埋めようとする内的な作用が生じて、本当の欲望が顔を出すと思う。

 

なんてことを最近考えて家じゅうにあるオンラインデバイス段ボール箱に詰めて押し入れにしまってみたり、はては工業製品の無機質な見た目と音にまで嫌気がさしてコンセントを抜いて目につかない場所へ移動させたりしてる。アナログ至上主義と言おうか、自然に帰れ的なフルイ考え方だけれど、意外と的を射てるんじゃないかなんて思う。だって、よく考えてみればインターネットでたしかに山のような娯楽と「役に立つ」情報を瞬時にゲットできるけれど、それほんとに役に立ったか?つまり人間として成長させてくれたかと自問自答した時に、あの情報はとてつもなく精神的な糧になったのような感動も温かみもないことに気が付く。つまり、一時的な冷たいインスタント食品と変わり映えしない。早い・安い・手軽、ではあるけれどただそれだけで、なにかを深く感じることもなければ、巨大な構造を俯瞰することもできない。その場しのぎの文字通りの「暇つぶし」の役割しか、インターネットが提供しているコンテンツははたしていないのではないかとすら思う。

とかなんとかいうと、「便利」そのものがはたして本当に価値のあるものかと問わなければならなくなりそうだ。科学はなるほど確かに人間を大きく飛躍的に進歩させたけれど、そして生活を便利にしたと称賛されるけれど、「便利」が持つ要素を分解してみるとどうだろうか。
便利とはつまり時短である、とぼくはおもう。*1生活に消費される時間を短くすることが人間にとっての進歩だ幸福だといえるだろうか。ほんとうは、科学が短くしてくれた非人間的な時間を、なにか人間的なそれこそ趣味で満たすところに科学のというか便利のありがたさがあるはずだと思う。むろん、労働時間は科学が発達していなかった時代と比べて現在なおも大した変化はないしむしろ増えてるんじゃないかと思うくらいだ。そこを資本主義の矛盾だといって非難した反資本主義すなわちマルクス主義は、この点においては真なることを言っていると思うし、いまなおその意見は力を持つ。

とにもかくにも、科学というかテクノロジーはそれそのものを商品としたり欲望の対象としたり、また欲望を伝播する物体となってしまってはもともこもないというか、もっと便利になりましたー時短できますみたいな新スマートホン発売イベントが欲望を巻き起こす現状は、それこそ倒錯としか言いようはない。怒りの意味を帯びたおかしいぞ!ではなくて、ほんとに可笑しい。

 

 

道はたくさんあるし、多様性は進化論的に見ても明らかに重要だからこちらが正しいというつもりはさらさらなくて、ただぼくの偏狭で頭のおかしい思考の回路を通してみればこんな風に欲望は捉えられかくあるべしと思うっていうとんでもなく個人的な偏見にすぎないことを断っておきたい。

ぼく個人としては、欲望は電子デバイスやマスメディアや都市や芸能人から与えられるべきではなくて、人間的なたとえば美しさや正しさや善さみたいな芸術的なものに惹かれて内側から生じるべきで、その欲望をかなえていくプラトンよろしく観想的生活こそが欲望と幸福個人的にあるべき姿だと思ってる。

とはいえ、右は正しい、左は間違い、おれは右しか向きません左を見るのは犯罪です、みたいな閉鎖的な系をわざわざ構築して固執する必要はないと思ってて、たまには左に行って遊んでみるのもいいじゃんと思う。このまえも、都市都市批判しておきながら、その当の都市に足を運び6時間くらいだらだら店を回ってあれを買おうかこれを買おうかなどと都市的欲望を楽しんできたりする。
つまり、ホームとアウェイ、どっちも大事だけど、ホームもアウェイもないんじゃそれが一番危ない。

*1:鉄道も飛行機もインターネットも、ある物事をなす際の時間を短くした点において便利だとして称賛され生活の中に受け入れられている。なにかできないことをできるようにした、という不可能性を可能へと変換したわけではないと思うもちろんロケットばして月に行ったのは不可能を可能に変換したわけだけれど、こと一般市民の日常性においてはたしてこのような根本的に不可能だった機能を可能にしただろうか。昔の人が不可能だったことを可能にしただろうか。ぼくらが便利だ科学の恩恵だとして称賛するのは、あくまでも時短とその集積が生んだ手間暇の省略にすぎないとすら思う。

書籍と欲望、肥大化するバーチャル

ここ数ヶ月のあいだに書籍を二百冊以上購入したと言えばきこえはいいものの、ただ単純に購入してでっかい書棚に几帳面に並べてじろじろ眺めてあたかも知性的人間にでも変貌したかのようにご満悦の笑みを浮かべているだけだから、そのじつみじんたりとも進歩していない。
読まないと言えば嘘になるけれど、読むよりも本を購入することにばかり精神的なエネルギーを注ぎ、あれも読みたいこれも読みたい、あるいはあれも読まねばこれも読まねばと、ウォントとマストを連呼しているだけの不毛な頭の運動を、夏休みのラジオ体操のように繰り返しているだけなのかも知れない。

そういうわけで、ぼくの部屋には5つほどの書棚が置かれていて、なかにはぎっしりと読んでもいない本が並んでいる。本というものは、手段さえ知っていればあるていど安価に購入できるものだとおもう。古本屋にこそこそ通ってみたり、インターネットの古本専門サイトのような場所で安く出品されている本をひっそり購入したりすれば、新刊書を十冊買うだけのお金でその何倍もの活字を我が物としてストックできる。
とくにインターネットは非常に便利な代物だと思う。このように安価にしかも大量に活字を購入できるだけでなく、むしろ無料で活字を垂れ流してくれるときているから、現代人が読書をしないとエライ学者連中がたいへん困惑しているようだけれど、それもそのはず、もはや活字を金を出して買う必要すら無く、ネットニュースやTwitterFacebookで大量のしかもわりかし有益な文字情報をゲットできるのだから、合理的なホモエコノミクスとしては、リンゴが木から落下するニュートン法則などよりも自明な必然ですらある。

ことは活字だけに限らない。音楽、映像、ゲーム、ありとあらゆる精神的な糧が無料で手に入る。手のひらサイズの超薄型のすこし電気的な温かみを帯びたアルミニウムの箱さえあれば、いつでもどこでもおもいのままに糧を食せる。わざわざ、書店やCDショップなどに買い出しにいく必要なく、持ちきれないだけのレジ袋いっぱいにおいしい糧をぎっしり詰め込める。オンライン、バーチャルは人間の可能性を無限に拡張するメディアである。



ところで、ぼくの部屋で開かれることを今か今かと待ち望んでいる書物をいかにすべきか、すこしばかり真面目に考える必要がある。このまま一切読まれずに、背表紙とその存在自体がインテリアと化すことを果たして書物はよしとするだろうか。否、肯んぜず、とおもう。背表紙に書かれた書物のなまえは一種の強迫観念をもって迫ってくる。書棚の前に立って、じっくりと右から左へ、上から下へと書物の規則正しい並びを観閲したときに感じるのは、所有欲のみにあらず一種の義務だったりもする。ヨメヨメと、背表紙が大声で叫ぶ。

大量生産大量消費の資本主義やフォーディズムは、環境にたいしてあるいは人間の本当の幸福にたいして熟慮するように人びとを促した、というのは歴史的事実である。結局、物質的に大量に消費することがほんとうに幸福な行為かどうか、美しい行為かどうか、よく考えてみれば「消費」それじたいを欲しているのではなくて、欲望をあるいは空白を何かで満たすことを求めているに過ぎない。だとすれば、いたずらに物質を空費しても欲望がほんとうに満たされる日は訪れるはずはない。重要なことは、欲望に対して向き合う姿勢の変革と、欲望それ自体への十分な理解であるはずだ。欲望しているとうの対象を包むベールを丁寧に一枚ずつ剥いでいって、核心部分をしかと観察しなければ、時間的にも存在的にも欲望は満たされることなく、それどころかますます肥大化して欲望のカタマリと化してしまうかも知れない。

物質的なものに限らず、精神的なものに対してもまったく同じことがいえるし、むしろ物質的な欲望は精神的な欲望のほんの一部分にしかすぎなくて、その本質はまったくの精神的なものなのかも知れない。所詮、資本主義は記号を生み出し人びとは記号をその差異のなかで認識し消費しているに過ぎないのだ、という現代思想的な考え方をもちだすまでもなく、いま欲望に入り込もうとするバーチャル上の飽和化したコンテンツに対する姿勢が問われているとおもう。たしかに、インターネットを使えば無料で大量の音楽や映像や活字を消費できる。だが、その消費は欲望を満たすためのエネルギーを十分に含んだものなのか、ぼくは疑問に思う。バーチャル上の消費つまり、インターネットで音楽を買ったり動画を見たりするのは、身体を介さない非物質的な消費に思える。場所をとりませんよ、というふうにデジタルコンテンツのよさをさえ主張されてはいるけれど、液晶画面上に記号だけが表示される消費を、はたして消費としてあるいは所有として欲望を満たしたり、精神的な糧として摂取され血となり肉となりうるのかどうか、ぼくには疑問に思う。

なにも質が低いといいたいのではなくて、ものとしてそこに存在するという感覚、手に触れることができる安心感みたいなものが、だんだん僕ら人間の精神的な糧から奪われつつあって、だんだんと記号的ないわば霊魂的な部分だけがぬきとられて液晶画面上に無機質な黒の活字の順列だけで身体を仮像される環境的な変化に、どうも喉の渇きにも似た欠乏と、ぼくという人間の身体と精神からの距離がひらいていく糧に恐れと寂しさが混じった不安を投げる。

そこにあるけれど、そこにはない。ぼくの部屋の書棚に並んだ書物と、スマートホン上に表示される音楽や活字。疎外、といえばいいだろうか。こちらがわへと引き戻す必要があるように、さいきん感じ始める。丁寧に一枚ずつページを繰って本を一冊一冊読み込んで、そこに存在せしめる一種の努力が必要だと思う。音楽を聴くために、音楽が身体化したCDやレコードを丁寧にオーディオにセットしてそこにあるようにしてあげること。バーチャル上で完結する現代だからこそ、リアルを大切にしないといけないとおもう。

意味、価値、食欲。

死ぬものにはすべてを語る権利があるって誰か歌ってたけど、果たして語ったその「すべて」は価値があるのかってことを考えるとある人間の口から発射される波と肉体の営みの有意味性っていうのはすべて失効するんじゃないか。
これは多分僕の精神的な「異常」、なぜ括弧付きかといえば医学的なとか精神医学的なって話じゃなくて単に常と異なるって意味でつまり普通の範囲外っていう意味でつけたんだけど、そう、異常なわけだったことは認識してるんだけど、本でも映画でもアニメでも人間の会話でさえも、「好き勝手言いやがってるな」っていうある種の意味の打ち消し作用が働いてしまう最近である。
ものの見方は一義的なものではないから、どの面から見るかで世界というか事物というかあらゆる認識は変わってくるわけで、誤りとか間違いっていうのはその認識を空間という論理性へ移転せしめる作業を行なった場合にその範囲内でのみ規定されるわけだから、まあ何いってもいいんだと思う。完全な自由、けれど、正しさとか絶対性とかからは自ずと離れる。

つまり絶対に正しいとか美しいとか素晴らしいっていうものは存在しないんじゃないかっていう一種の脅迫的な疑いでもって自分の首をじわじわ締め付けて、日が昇る頃にふっくらと膨らみ血色の良かった首が、日が沈む頃には細く懐疑の紐で締め付けられて青白くなってる始末。0をかける、いやもっと大きな負の数をかけるっていう操作を目の前に広がるすべての知覚に施してやって、逐一あらゆる価値というか意味を否定するのを義務としたのだって勝手に閣議決定されたらしい。

時間を飲み込む作業は、絶え間ない否定との葛藤なわけで、否定が肯定を打ち滅ぼした瞬間、時間の価値は地に落ち、意識は別の有意味性の検索を開始する。

 

結局、現代思想とか社会学とか認知心理学とか哲学とか文学って、言いたい放題どうだ面白いだろっていうなんら正しさっていうものの担保なき精神の運動なわけで、その根拠を辿っていった先には無という恐ろしい深淵が口を開けて待ってるんじゃないか。面白さっていうのは、確かにある。ソシュールやパースの記号論だの、フーコーの権力論だの、メディアはメッセージであるっていうマクルーハン、ボードリアールの消費社会の考え方っていうのはなるほど激しくうなづけるし面白いと思うんだけど、果たしてその営みって有意味なのかっていう根本的な問いがあって、世界の味方に一種の記号のフレームを提供する作業って正しさの担保がないんじゃないか。経験を束にして、事実を束にして、もって実証的に正しいとみなす行為を学問と呼んでいいのか。

真に価値を持つ学問、っていうか真に価値を持つものってなんだろうっていう問い。金にならない思想、しかも正しさを十分に担保できない一種のフィクションをしたり顔で説き続ける人間を知的だのアカデミックっていっていいのか。実際に、労働して社会を動かす人間の方が、何十倍の偉いんじゃないかなんて思ったりもする。

文化的に生きよとか、文化水準をあげて人格的に成長せよみたいなことをよく言われるし、大学っていう一種の「エリート」育成機関の構成員たる以上そうした価値観というかそれゆえに保持しているハビトゥスの重力に従ってそういう方向に引っ張られてるんだろうけど、そもそも文化が価値を持つのはなぜかっていう問い。だって、文化は金を生まないでしょう、しかもそもそもかつての教養主義的なつまり偉大な哲学や思想の本と修練を積むことで人格を養うのだっていう考えってそれこそ現代思想が構造だーっていって破壊した価値観じゃないか。制度じゃないの?みたいな考えから、人間が依拠してきたっていうか素晴らしいって信じてきた価値とその基準を構造と断じて破壊した結果生じた無価値性みたいなものを、文化が持ってるんじゃないか。いわば、自己の営みによって凸凹穴だらけになった空洞の文化を有意味だって認めることができない今、もはやその文化が生んだ現代思想が断罪する資本主義社会に身を投じて金を価値だってするしかないような気さえするんであって、ならば文化的に生きるみたいな人文科学的な素養は否定されるよね。

 

だとしたら、唯一の正しさって数学とそれを原子として成立する自然科学にしか存在しないってことになる。

あるいは、正しさじゃない場所に事物の価値が存在するとしたら。
そうだったら人文科学は復権する。

結局、どんなものが価値を持つのかっていう問いはプラトンあたりからずっと考えられてきた問題なんだろうけど、答えでないですね。

 

まあなんにせよ、食欲と同じように精神的に摂取されるコンテンツというか経験にだって個人の趣向はあるんだろうし、それは年齢によって変わってくるんだろうから、今価値があるものっていうのは明日価値を失うかもしれない。逆もまた然り、これはほんとう?
一番恐ろしいのは、食欲がないってことと食べたいと思って口に入れて飲み込んでも吐いてしまうっていうこと。嘔吐下痢症なんてものに数年前にかかったことあるけど、あれはきつかった。それはまあ身体の下痢症なんだけど、それが精神的なものになってしまったら、もっときついだろうな。
食べたいと思って口に入れ必死に飲み込んでも吐いてしまう、吐いてしまうからもう食べないでいいかって思う、やせ衰えてしまう、死ぬ。
問題は、身体の病気と違って精神の病は、原因の確定が難しいこと、いやできないっていってもいいのかもしれない。お前に何がわかるんだって結構使い古された常套句だけど、精神って理解してもらいたいくせに理解を拒むっていうアンビバレントな性質を持ってると思う。

 

何が書きたかったんだろ。
まとめると、すべてを語る権利があるっていう言論の自由を振りかざしてくだらない駄文を書き連ねているこのブログの価値っていうのは、極めて小さくてかといってマイナスで消えるべきだっていうものじゃなくて、やっぱり存在していていいもの、存在していても大した影響がないものってこと。
そして、最近、この文章を書いている筆者は、食べては吐き、吐いては別のものを食べるっていう生活を送りながらも、きちんと消化されて地肉になるかつ体と健康にいい価値あるものの模索のために価値とは何かなんて問題を、考えてはやめ、やめては考えしてるってこと。で、極め付けは価値とは何かっていう問題を考える行為そのものに価値があるのかなんてことを考え出して、さらにその問題を考える行為に価値はあるのかっていう風に、永遠のメタ認知の穴に落ちつつあるんじゃないかっていう問題を提起して締めます。

 

 

追記;
そう考えたらさ、消費されるために製造された想像力をパッケージしたコンテンツって価値があるゆえに価値ないよね。テレビとか週刊誌とか自己啓発本とかってさ、いやそれに限らず全てのコンテンツってその本質において無価値なわけじゃん。それ自体何にも悪いことじゃないんだけど、無価値なものに、価値ありますよっていう虚構の衣を着せてさ頑張って売るわけでしょう? ゲームとかでも何でもかんでもそうなんだけど、価値があるなって錯覚させる構造をそこに有しているんだから、価値ってそれを看破してしまうっていうか逆に勘が良すぎて気がついてしまう人間にとってはもはや苦痛でしかないなって。勘のいい奴は嫌いだよって、ほんとうだよ、勘良すぎると早々に消されるからね。

価値がないにもかかわらず、価値があるよっていう詐欺師みたいな宣伝ボイスは苦痛なんだけど、価値がないものを価値がないよっていっている正直者ってたとえ本質において価値がなくてもその正直さゆえに価値が生じてくるんじゃないかって思う。
つまり、やれ正義!善!充実!快楽!有用!みたいな価値っていうモヤモヤした概念にアクセスする記号の大合唱を繰り広げる人やもとたちって嫌悪の対象にすらなりうる無価値性どころかマイナスの価値なんだけど、虚無!空!つまらない!くだらない!役立たない!ってもういっちゃってる人やものってすごい価値があると思うんだよね、個人的には。

だからってわけじゃないんだけど、っていうかこれはもはや個人の趣向の話になるんだけど、外見と内面を飾らないそれでいて普通より下に見えさえする人間にびっくりするほどの優秀さとかっこよさと美しさと価値を感じることや、なんじゃこれなんの役に立つんだしかも全然かっこよくないっていうものにびっくりするほど惹かれたりする。でも、俺価値ないぜっていう宣言とか、俺私着飾らないでありのままの私を見たいなものって無を装った有なわけでもっとたち悪かったりもするから難しいところだと思う。自己嫌悪や卑屈さっていうのは当然マイナスの価値だと思う。

価値あるものを探すっていうのは、それ自体矛盾してるんじゃないかって思う。見つかるはずないなって。だったら開き直って逆説的に、無価値なものを探すっていう方向に転換したほうがいいと思う。マイナスでもプラス(に見える)でもなくて、本当に完全に無価値なもの。これこそが、本物の有意味性であり無価値性であるなんて思ったりする。