唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

読書縮小宣言〜知性の肥満と学生の愚かな知性〜

目次

どんな本を読んだか?

今年に入ってからというもの、これまで読書(なお、以後この読書という言葉は、教養的な書物を指すのであって、ビジネス書や自己啓発書や娯楽小説*1を指すものではない)をあまりしてこなかった未成熟な知性を嘆いて、本をたくさん読むようにしてきました。
その甲斐あってか、下宿には二つの大きな書棚が鎮座し、中には岩波文庫や筑摩学術文庫が収められています。
基本的に、僕は本を買う際には出版社で選んでいます。

岩波出版か、筑摩出版、白水社といった限られた出版社からしか本を買わないようにしています。
それは、例えば、角川出版や新潮社、文春出版がダメだというわけではなくて、いわゆる大衆向けの書物は知性を磨くという観点にはそぐわないという理由によるものなのです。
僕が買うようにしている出版社は、どちらかといえば教養主義的な(岩波文庫はかつて一種の教養としての権威を持っていた。)側面が強いものなのです。
学術的と言い換えればわかりやすいでしょうか。

特に僕が読むようにしたのは、岩波文庫になります。
岩波文庫は、基本的に古典をセレクトしたランナップとなっています。
プラトンとかソクラテス夏目漱石古事記といった少し硬い印象を抱きがちな古典的な書物を、利益的な観点ではなくて学術的な観点から多数出版している文庫になります。
よく言われる言葉として、教養をつけたくば岩波文庫を読みたまえ、というものがあります。

岩波文庫には、色が割り振られていて、白は法律や政治関係の古典、青は思想や哲学ん関係、緑は日本文学、赤は外国文学となっていますから、大学生は自分が身に付けたい知識に合わせて岩波文庫を徹底的に読み込めば、大学教授が偉そうにのたまふ所の教養というものをつけることができるというわけです。
そういうわけですから、僕は今年に入って、主に青を中心として、そこに緑と赤を適度に混ぜつつ読書を進めてきたのです。
割合としては、青が5割、緑が3割、赤が2割といった所でしょうか。

 本を読む効能と副作用

本を読む、このことはしばしばとてつもなく大きな美徳のように喧伝され、読書によって人間性が高められたり、世界が広がると言われます。
今年に入り、僕はこの半年間の間に200冊くらいの本を購入して、読みました。
その経験から、さて、読書の効能とやらを述べてみたいと思います。

結論から述べると、僕は、生活を彩るための読書ならば、月に2冊くらい、書店で気になった本を読むくらいがちょうどいいかと思います。
毎月何十冊もの本を、多読だの速読だの教養だのと、妙ちきりんなキャッチフレーズを唱えつつ、真剣に読む必要性は全くないと、思います。

読書は、知識の量を増やすことにはとても有用で効率的な手段です。
何か目的があって(例えば、新しいプログラミング言語を学ばなければならない、ビジネスマナーを学ばなければならない、投資について勉強したいなど。)読書をする場合は、たくさんの本を読む必要が出てきましょうが、生活を豊かにするために読書をすることは、果たしてどうなのか、と僕は懐疑的になります。
根拠は? と問われてしまうと弱いのですが、それは、僕の主観的な実感に基づきます。

哲学書や小説をたくさん読んだのですが、その中で新しい世界の解釈の仕方、人間の感情のフレームワーク、いわゆる「愛」だの「友情」だの「嫉妬」だの「厭世観」だのといった、一つの言葉では言い表せないものの認識ができるようになったと感じます。
それは、最初のうち、つまり3ヶ月くらいまではとても大きな快感でした。
人が知らないもの、人が感じ取れないものを、認識することができる一種の優越感のようなものを感じ取ることができるからです。

けれど、その優越感は所詮、虚構の華にすぎません。
見せかけだけの華なのです。
そして今度は逆に、人にはない新しい認識のフレームワークが、逆襲に転じます。
お化けが見えるようになると考えるとわかりやすいかもしれません。
つまり、目の前の人間や現象が、人とは違うように認識されてしまう。
深く考えるようになってしまう、一種の懐疑主義に陥ってしまう危険性を、読書による知性の研鑽が秘めていることに気がつきませんでした。

小学生や中学生の頃、偉大な作家である太宰治だの芥川龍之介だのが自殺していることを知って、一生懸命勉強してきたのにもかかわらず死ぬなんて、バカだなと思ったのを思い出しました。
勉強ができないから不幸なのだ、と思っていたのでした。
ものを知らない無知が人を不幸にするのだと思っていました。
けれども、その実、そうではないのだと、たった200冊ばかりですけれども、本を読んでみて、知性の危うさの片鱗を除いた気がします。
だからかどうか知りませんが、僕は、芥川龍之介の『歯車』を読むと、ひどく感動してしまいます。

労働。
アルバイト、一生懸命にやる美しさ、僕はもはや感じ得ないようになった気がします。
バカをやること、無邪気にハシャグこと、そこには、一種の思考停止、感情依存のモチベートがある気がするけれども、知性を肥大化させてしまったのならば、もはや知性を感情が支配することはできないのではないか。
つまり、マジメ君が根暗であるとしばしば言われるのは、肥大化した知性を的確に指摘しているのではないか、というわけです。

読書を控えること、肉じゃが的読書

そういうわけですから、僕はこれまでの生活習慣を改める必要が出てきたようなのです。
これまで僕は、一日4時間から多いときは8時間くらい読書をしていて、その他の時間はドイツ語や英語の勉強をする、また小説を書くなどしていたのですけれども、こうした似非知識人的な生活から生み出されるものは、知性の肥満なのではないかと思うに至りました。

だから、読書を控えようと決意しました。
読書をして得られる知識が人間性を高めるとは、到底思えない。
思えない、といっているのであって、考えない、といっているのではないことに留意されたい。
それは、一種の反知性主義に思えるかもしれません。
知識に基づく科学的な推論によって、正しさを導き出すことが、必要だと思われています。
僕にとって、そうした知性主義は一種のイデオロギーに過ぎないのではないか、と思わせしめるのは、偉大な思想家が偉大な生活者ではなかったという矛盾にあります。
立派な知識人の中には、確かに素晴らしい生き方をした人も多くいますけれども、どこかその生涯には孤独さや暗い影が潜んでいるように思えてならないのです。
どうも、えらい哲学者の生涯を見てみると、素晴らしい文句を垂れるくせして、ロクな生き方をしていない(なるほど、そうした「僕」のような未熟な知性には不幸に思われる、高尚な幸福があるかもしれませんけれども、少なくとも、知性を発達させることで人間の根源的な幸福感が正しい方向へと矯正されるとは思えない)ように思われます。
ニーチェは頭狂って精神病になるし、漱石は一生厭世主義者で胃病が悪化して死んだし、川端康成はガス自殺するし、太宰はいうまでもないし、ヴェイユは餓死するし、ソクラテスは処刑されるし、プラトンは結局政治を動かすことはできなかった。

そういうわけで、僕は読書は、たまに作って食べる料理の一品くらいのポジションに置こうと思います。
たまに僕は、肉じゃがを自炊するのですが(味は、食える程度)本当にたまにです。それも、食べたいな、と思った時に作って食べるくらいなもの。
そのくらいのポジションに読書を置くのが良かろうと思うのです。
読書を人生を生きる糧にする、とか、一生涯の趣味、とかいうのは少し、僕にはできないかなと思いました。

大学生のリテラシーとしての読書技術

ただし、読書の技術は大学時代に身につけて置くべきだ、と僕は思います。
一冊の本を一週間もかけてようやく読み終わり、しかもその内容を読み終えた頃に忘れているとか、本を読むと十分で眠くなるとかいうのは、まずいと思います。
料理が作れるとか、自転車に乗れるとか、キャッチボールができるとか、泳げるとか、こうした人間の運動の嗜みとして、できなくてはならない技術の一つだろうと思います。
尚更に言えば、大学生、特に文系であるのなら、尚更のことだと思います。

僕は、本も読めないのにもかかわらず(すぐ眠くなる、学術的単語の意味が取れない、一冊の本を読み切る集中力がない)「文系」を名乗るのは、「文系」に失礼なことだと思っています。
そうした「文」を自在に操ることができない人は、文系ではありません、理系でもありません、高校生と同程度の知的水準、いうなれば真高校生くらいなものです。大学生ではありません。
などと、反体制的なことを考えたりしてしまう自分もいます。

まとまりのない議論になってきましたけれども、知性の肥満は大変な異常ですけれども、知性が痩せすぎている大学生があまりに多いような気がしてならない、という不満もあります。
そうした痩せた知性を持つ学生は、目先の利益を提示され、うまいこと「自分を変える」だの「未来の可能性」だの「これからの時代」だのの、甘い謳い文句にひょっこり釣られてしまう。

こうした、釣られる学生がいかに多いことか、と嘆く不満が募ります。
釣られる学生が、こういう言い方も変ですけれども、中堅以下の学生ならば、構わない、むしろ有益だとすら考えます。
けれど、トップレベルの学生が、いわゆる旧帝大といった有名国立大学に通うような学生が釣られることは、一種の責任の放棄だと思います。
そうした社会や利益集団の意図を読み取り、自ら考え判断し、自分の価値観に照らし合わせて社会のためになるように行動する責任があると考えるからです。
ホイホイ、偉い人のいいなりになって、またお金につられて動かされるような人間は、「エリート」として不適である、そしてまた大衆を牽引する「エリート」としても不適である、更に言えば、こうした「エリート」の機能不全こそが国を世界を大きな危機へと導くものだと考えるからです。

こうした、エリートとしてのまた、市民としての一定の基準の知性を持ちつつ、知性を過度に太らせない程度に保つことこそが、「幸福」の条件なのだろうと考えた、という、かなり長い話でした。

ポスト読書生活

読書をやめて何をするか? クラシック音楽・エレクトロミュージック聴破計画を考えています。また、絵画観破計画もいいかと思っています。
それは、文字と数式を使えば世界の全てを記述できると考えがちな一種の言語絶対主義的なイデオロギーに対する反抗の精神なのです。
世界は書物だけでなく、音楽や絵画にも収めることができるのではないか、と考えています。

*1:例えば、森見登美彦など。

虚無主義と価値の加減、その対策

懐疑、という言葉がある。
「我思うゆえに我あり」と言えばわかりやすいだろうか、18世紀、デカルトが行なった方法的懐疑が特に有名だ。
彼は、この世界のあらゆる物事を疑い尽くして、絶対的な真理を探究した。
目に見えるもの、これは幻覚かもしれぬ。
幾何学、正しいと思われる定理がひっくり返されることがしばしばある、ゆえに、今自明とされている公理体系が正しいとは言い切れぬ。
こうして、あらゆる物事を疑い尽くして、疑いの余地がある物事を偽と置いて行った。
けれども、たった一つだけ、疑っても疑えぬものがあった。
それは、疑う私の理性の存在である。
疑うということは、疑っている行為主体者である、私の理性がある。
「我思うゆえに我あり」なのである。
この私の「理性」を中心に添えて、疑いの逆の操作、つまり、演繹的に世界を再構築した。

ここまでが、方法的懐疑のあらましである。
「我、信ぜんがために疑う。
疑うために疑うにあらず。」
デカルトは、世界の存在を信じていた、そして、信じていたからこそ疑ったのである。
しばしば、懐疑論者は、世界を疑うために疑う、これはけしからんことである。
目的のない懐疑は、疑心しかうまぬ、と思う。

で、この懐疑という操作は、テクノロジーが発展した現代社会を生きる私たちはしばしば乱用しがちである。
もはや、神も何もかも信じることができなくなった。
特に、日本に住む僕などは、神を信じることは難しい。
聖書を読んで見たけれど、確かに面白かったけれど、神を信じる気にはなれない。
それは別に、キリスト教に限った話ではなくて、仏典を読んでも同じことではある。
無宗教的に育ったバックグラウンドは、神を信じるにはあまりに強大な作用を発揮する。
信じる、ということができないのである。

そうした人間が、懐疑という強力な剣を世界に振りかざすとどうなるか。
いうまでもない、虚無主義への転落である。

 

懐疑とは、価値の減算である。
理性は、物事の価値を査定する。
こいつの価値は、多分、30くらいだろう、と。
そして、懐疑である。
-1を加える操作を、繰り返す。
30回繰り返して、価値が0になったのならば、その物事の価値は30だったということだ。

で、信じる、ということは、ある存在に無限の価値を認めることである。
神で例示しよう。
理性は、神の価値を、無限だと査定する。
懐疑を加える。
-1を加える操作を繰り返すけれども、どれだけ繰り返そうとも、価値が0にならない。
永遠に繰り返す、けれど、0にならない。
そこで、懐疑を諦める。
この存在の価値を減じることで、0にすることはできないと、諦める。
この諦めこそが、信じる、ということだ。
こうした無限の価値を持つ存在を持つことは、とてつもなく人間の価値を高める。

そもそも、懐疑とは、無限の価値を証明する行為であるべきなのだ。
決して、あらゆる物事の価値を査定して、0にまで貶めて喜ぶためにやることではない。
けれども、信じるという概念が欠けた現代人は、懐疑をどこにでも振りかざそうとする。
「それ、やる価値ある?」
そもそも、価値という言葉、この乱用がどれだけの、精神的混乱を生み出すことか。

無限の価値を持たぬのにもかかわらず、懐疑を乱用する癖がついた人間の病が虚無主義である。
この哀れな患者は、あらゆる物事に対して価値を査定し、懐疑を加える。
存在への自虐である。哀れ極まりない。

治療方法。
信じることができないのならば、どうするのか。
第一の策、価値の加算をやればいい。
価値の加算、それは何か。
一種の楽観主義。Optimistic.
理性を騙すことはできない、理性が理性を騙すなど、それ自体で矛盾している。
精神を身体側から規定してやること、身体的な行為によって精神を騙すことならば可能だ。
そうした、身体的行為は、祈りと呼ばれる。
神社に行ったりお寺に行くと、なんだか神秘的な気分になる、あの感覚。
正座をして座禅を組むと、なんだか、リフレッシュした気分になるあの感覚。
これは、ある種の価値の加算である。
精神を精神によって楽しませるのではなくて、精神を身体によって楽しませること。

第二の策、物量戦法。
減じるスピードにも増す量の価値を投げ込むこと。
どのみち懐疑され0にまで貶められる価値ではあるけれど、0になるまでには多少の時間を要する。
ならば、価値が0にされる前に、新しい価値を投げ込むこと。
夢中を継続させるために、エネルギーを注ぎ込む対象物を、絶え間なく与え続けること。
多趣味。ただし、金がいる。
要は、価値の関数への入力と出力を大きくすること。
莫大な価値を投げ込み、莫大な価値を懐疑にかける。
ある種の大量生産・大量消費。気持ちはわかりけれど、環境には悪かった、それは物質的な製品だったから、ならば、情報化社会ではコンテンツを大量に消費すればよくて、それはゲームオタクやアニメオタクにあたる。
僕は、彼らと物量戦法の類似点と差異とに、ニヤリとほくそ笑まざるを得ない。

秋葉原の活気、コミケの行列。
それは、神への信仰と、虚無主義を克服するための必死の物量戦法の戦場とが共存する場でもある。
どちらにせよ、官能を刺激することで気をまぎらすようなかつての非人道的な物量戦法でないだけ、素晴らしいと思う。

神と絶望と虚無主義と、恋と愛について

恋せぬものに待つものは、虚無主義の渦から顔を出す、死神だ。 

スーパーマーケットに行くと、りんごや豆腐、マグロや菓子パンが綺麗に並んでいる。
そして、品物一つ一つに、丁寧に数字が振られている。
毎日のバナナオレ 162円
玉ねぎ一玉 40円
大根一本 187円

こうして、世の中の品物には価値という名の数字が丁寧に振られている。
品物につく数字は、便宜上、貨幣的な価値だ。日本では、円という単位でつけられている。
アメリカではドルだし、中国では人民元、韓国ではウォン。
こうした、通貨的な価値について分析する学問が、経済学なのだ。
ものの価値について、通貨的に分析し、疑問を解消してくれるのだけれど、僕はお店に並ぶようなものの人為的な価値について、不思議に思うことは少ないし、生きる上で必要なことだとは思わない。

そもそも、生きる、という行為に対して、いかなる価値があるのか。
生きる、ではあまりに幅が広すぎるから、分解してみて、生きる上での行動一つ一つにどんな価値があるのか、という疑問が、近頃僕の頭の中で、ものすごいスピードでぐるぐる回転している。
寝ている。
目を覚ます。
さて、布団をめくって起き上がろうと、思う。
けれど、起きる、という行為に一体いかなる価値があるのか、数値化するとどのくらいの価値なのか、そうだな、多分、20くらいか。
朝食を食べる。
目玉焼きを作る、さて、その行為にどんな価値があるのか、作らなくてもいいんじゃないか、そもそも、食べなくてもいいんじゃないか。
食べるという行為、一体、価値があるのか、数値化すると、、、

こんな風に、生活する上でなすことやること一つ一つに対して、価値があるのか、あるのならばどれくらいか、と考えてしまう。
そうして、生きる価値というのは、一生かけてなしてきた行動の価値の総和にあるのではないか、と考えてしまうのである。
多分、こうした行動に対して、価値を懐疑的に考えてしまうのは、僕に特別な現象ではなく、世の中の若者みんなに共通する問いだと思う、共通でなくて僕普遍の問いだとしたらあまりに虚しい。

お店に並ぶ品物に、値段のラベルを貼り付けて行くかのように、僕は、身体的活動と精神的活動にすべからく、ラベルを貼り付けて行く。
大学に行く、トイレに行く、お茶を飲む、本を書棚から取り出す、ゴミを拾う。
明日の予定を考える、みたいアニメについて考える、ベンヤミンについて考える、課題について考える。
こうした身体を使う行動と、精神を占める思考内容、あらゆる、エネルギーを使う行動の価値を問い直す。
行動する前に、価値を有すか否かを判断し、有すのならばどれくらいか数量化する。
その上で、やるかやらぬかを判断する。

いわば、日常の行動は、プログラムコードに規定されたソフトウエアの処理過程のごとく機械的で無機的なものになる。
有機的で、意思を持つものは、行動をなす行為者ではなくて、行動を規定するプログラマたる理性なのではないか。
理性、こいつがとてつもなく大切だ。
理性が誰かに規定されているとすれば、例えば、超人間的な神的な存在によって規定されていたとすれば、それはどこまでも宿命論であり続け、自由は消滅する。
理性の力を、いかに維持し続けるか、が課題なのである。

 

ニヒリズムの理性。
虚無主義に規定される理性の恐ろしさ。
それは、引き算を強制される理性。
行動の数値的価値に対して、-1を加え続けるという、永久的ループ処理を繰り返すこと。
コード。
while 1
value -= 1
end

例えば、歩くことの価値が20だと判断された、純粋たる理性であれば、歩けと命じる。
けれど、虚無主義的理性は、引き算を永久に繰り返す。
つまり、20の歩く価値は、0に帰する。
たとえ、どれだけ大きな価値を持つ行為であったとしても、必ず0になる。
正義の価値、これがたとえ、999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999949999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999であったとしても、0になるのである。

さらに言おう。
繰り返し処理は、0になると終了するとは限らぬ。
つまり、無限に-1が足されていく。
絶望への転落、無限の奈落、深さ無限の穴。
永遠に落下し続ける恐怖。
今か今かと、地面に肉体を叩きつけられ、意識が消滅する瞬間を恐れ続ける、極限の恐れ。
これこそが、絶望なのだろうか。

つまり、あらゆる行為の否定。
人生の価値は、なした行為の価値の総和であるのだから、生きる価値は0になるもっと言えば、無限にマイナスの数になる、ゆえに、自殺が正当される。
苦しみから逃れることができる唯一の解決策としての自殺である。
価値の否定。
消極的ニヒリズムである。
積極的ニヒリズムと超人思想を唱えた、ニーチェとかいう男の最後は、精神病棟で終えた、彼は、唱えるだけ唱えて、超人にはなりゃしなかったのだ。
『なぜ私はこんなにもいい本を書くのか』とかいうエッセイを綴っていたけれど僕は、『なぜ私はこれほどまでに現実と理想が乖離した人間なのか』というエッセイを書いて欲しかった。
超人は、幻想だ。

じゃあ、どうするか。
無限ループに争い売るのは、無限だけである。
無限の価値を有するものの存在。
これが、神である。
ニーチェは神を否定したけれど、結局超人なる神的な存在をもちだす必要があった、それは、人間の絶望の正体たる虚無主義に対して争う唯一の手段が、無限の価値を有する神だったからだ。
神と聞くと、僕を含めた現代人、特に日本人は、怪しい宗教を思い浮かべることだろうけれど、ここでいう神は、宗教的な神を必ずしも意味しない。
人間の精神活動にとって神の存在は、どうしても必要不可欠だと僕は思う、ちなみに僕は無宗教である。

先に僕は、無限の価値を有するものが神だと言ったけれど、正確に言えば、無限の価値を有するものを、「神」という名前で呼んでいるのだ、と僕は見ている。
それは、キリスト教的な神や仏教の仏さんを直接的に意味するような神ではなくて、無限の価値を生み出す源泉を、便宜上、神という言葉で呼んでいるというだけの話だ。
胡散臭い話ではない。
コップと言っても色々な形はあるが、みればコップだとわかる。
神もそんなもの。
コップがないと、水を飲みにくい、神がないと、人は考えにくい、それだけの話だ。

だから、虚無主義に対する、そしてそれはしばしば絶望と呼ばれ、人類にとって普遍的な状態異常を意味するのだが、一番の解決策は、神的なものを持つことだろう。
それは、教典に書かれた神でなくてもいいし、目に見えるものであってもいい。
神に対する感情は、多分、恋、という言葉で言い表せると思う。
人は恋する、人に、ものに、ことに。

そうした恋愛対象をなんでもいいから一つ持つこと。
必ず異性の人間である必要なんてこれっぽっちもないのである。ただし、人に対しての方がより愛や恋を感じやすい。*1
音楽を演奏すること、スポーツをすること、アイドル、アニメ、漫画、ゲーム、異性、なんだって構わないのだ。

恋せぬものに待つものは、虚無主義の渦から顔を出す、死神だ。 

*1:それは、古代ギリシアの思想とキリスト教との大きな差異、すなわち、前者がどちらかと言えば不可視的で無機質な「神」を規定したのに対して、後者は無機質な「神」と人々をつなぐ存在としてキリストという「神」であり「人間」であり「精霊」である存在を置いたことに見られる。今尚神秘的な力を持つキリスト教と、哲学者御用達的存在となった古代ギリシア思想との差異がこれである。もっと言えば、キリスト教の中には、新プラトン主義のような古代ギリシア思想の論理的なものが流れているのだろうけれども。

語る権利と信じること

「死ぬものは全てを語る権利が有る。」
—ヴィヨン

 その通りだとは思います。
生きている間に受けた喜びや苦しみ、感じ取った不条理を語る権利を、人間は普遍的に持っているのでしょう。
だから人は、ものを書きたいと言う欲望を、根源的に持っている。
四千年以上前の書き物が、現在においても書店で販売されている神秘さに密かに感動したりしています。

現代文章宝鑑、と言う本が僕の書棚に並んでいます。
広辞苑並みに分厚くて大きな本の中には、美しい文章が数多く収められています。
書名にある通り、その本は、文章の宝箱なのですが、僕は眠る前の睡眠導入剤として読むことにしています。
昨日の晩、こんな文章を見つけました。

時偶(ときたま)小生の痼疾(こしつ)咽喉カタル非常に悪化し流動物すら嚥下し能はざるやうに相成やがてこの世を去らねばならぬ危機に到達致居候故小生は寧ろ喜んでこの畜生道に堕落しつゝある地球の表面より消え失せることを歓迎致居候も唯小生が理想したる戦後の一大軍粛を見ることなくして早くもこの世を去ることは如何にも残念至極に御座候。

この文章は戦時下において、ジャーナリストである桐生悠々が発行していた雑誌『他山の石』の廃刊の言葉。
反戦的な態度をとる桐生に対して戦時体制の強化を図る大日本帝国の圧力をかけた。
また、桐生自身の病気の悪化と相まって、廃刊を決意した。
とてつもなく、力強い言葉だと思います。
実際この文章を読むのは3度目で、歴史の教科書かどこかで何度か目にしたことがありました。
何度読んでも、心に響く言葉だと思います。

力強さがあるのだけれど、その中に、クスリと小さく笑ってしまうようなユーモアさを含んでいる。
これは、一種の皮肉です。
ストレートに語ったとしても、人の心を打つことは難しい。
けれど、一種のひねりを言葉に加えてやると、皮肉になる。

僕は皮肉がとても好きなのです。
皮肉は、その存在自体が、反体制的・反構造的で、メインストリームを嘲笑する愉快さがある。
世の中の体制や常識に対する、一種の懐疑がそこに、美しく息づいている。

「当たり前だとされている事柄が、必ずしも正しいとは言えませんなあ。
あなた、ひょっとすると…
間違っているかもしれませんよ?」
などと不敵な微笑を浮かべつつ、人を小馬鹿にしたような話し方で語りかけてくるように感じるかもしれない。
メインストリームからあえてそれることで自己を主張しようとする、一種のスノッブさを感じて、不快な気分になるかもしれない。

無論、否定することでアイデンティティを必死に維持しようとする人たちもいるでしょうが、それでも僕は、肯定することでアイデンティティを維持する人たちをどうしても毛嫌いしてしまう悪徳が強く根底に根付いていると自覚しているのです。
実際に僕はかなり多くの人から、「ひねくれているな」と言われます。
どこの都道府県に行こうとも、どれだけ年を重ねようとも、付き合う人がすべからく同じ言葉を口にするので、どこか空恐ろしい気分にさせられます。

ひねくれているのだから、意見や性格を、世の中の常識に合わせなくてはいかんよ、と言った人もいました。
彼の意見はもっともなものに聞こえますけれど、「死ぬものには全てを語る権利がある」のですから、語るぶんには自由かと思います。
そしてまた、語る内容を外側から規定されるとすれば、それは「私」という国家の内政に対して大きな国から干渉を受けることになってしまいます。
なるほど、この国ではそれはある種当然のことだから、国民性的にそうなるのかもしれませんけれども。

けれど、安心してください。
語る権利はあるけれども、「聴く義務」はありません。
打ち捨てておけばいいのだと思います。
個人のアイロニカルで反社会的な主張を聴かなければならぬ、と言うわけではないのです。
同様にして、世の中で正しいとされている意見を聴く義務はないのです。
聞か猿になってもいいのです。

信じなければならない言葉などありません。
個人の言葉と行動は、どこまでも無力である。
無力でなければならぬ、と僕は思います。
個人の言葉と行動と人格とに、力を持たせようとすれば、必ず他人を犯すことになる。
ある種の正しさの主張は、人を信じさせる宣教的な行為だと思うのです。
語る権利はあるけれど、信じるように働きかける権利はないのではないか、と思うのです。

課題。
理解する、信じる、この二つの動詞をいかに使用すべきか。

ちょっと、この記事は微妙だと書き終えて思った。

多分四月、日記のような似非小説

毎週二記事、更新することにしているのだけれど、近頃はひどく不愉快な心持ちなので、書く気にならない。
それでも我慢して、無理やり書こうと、キーボードを乱暴に叩いてはみるけれど、恐ろしく反社会的な作物ばかりが成ってしまって仕方がない。
そこで、僕のパソコンのマイドキュメントファイルを漁ってみると、日記のような小説が発掘された。
これを、記事として載せることにした。

 

泳いで逃げる夢から覚めると、うんと背伸びをした。時計を見るととうに十時を回っていた。三日前、よし俺は今日から健康的で節度ある生活を送るのだと決意を新たにしたばかりであったのにもかかわらず、遅寝遅起きご飯抜きをやってのけるのだから大したものだと自身を皮肉る。
近頃の若者には厳しさ、この言葉が足りないのだと「学生の生き方」なる本で読んだのである。気がつけば、あまりに長いものだと予想した春休みももう後半に差し掛かっていた。あと二週間もすれば大学が始まる。始まる時分はあまりに長すぎやしないかとやや不満を抱いたものの、いざ終わりの足音がカツリカツリ聞こえてくると、名残惜しいものである。
第一、せっかく長い休みをもらえるのだ、来年再来年は就活があるのだから、ゆっくりと過ごせるのは今年くらいだろうと考えて、いろいろな計画を練っていたことをも忘れ、なんの制約を受けないやわらかい日々の上に寝っ転がって、だらりだらりと過ごしていたのである。先に述べた通り、節度ある生活をしようと決断するも二日間しか続かなかったところを見ると、三日坊主の名にふさわしい心がけである。
だから、ううんと背を伸ばして、布団をばさりとたたみ、顔を洗って鏡を見ると、鼻や口、頰は怠惰の色がしっかりと認められた。
けれども、目を見てみると怒りの色で満ち満ちていた。
今日はなにか一つ面白いことをしよう、と決心してさあ何をしようかと、小さな正方形のダイニングテーブルに載ったパソコンをいじくり始めた。やはり映画に限るな。おやアカデミー賞受賞作品が栄の映画館で公開中だ。こうして、the shape of waterを見ることが決まった。上映開始が十五時十五分、時計を見ると十三時だったから、ちょうどいい少しばかり書見をしてから家を出れば、いい頃合いに栄に着くだろう。彼は、『彼岸過迄』を読み始めた。三十分ほど書中に没入した。彼は手早く準備を済ませて、栄に向かった。

彼が栄に着いたのは映画上映時間の一時間ほど前であった。余裕、彼はこの言葉を頭の中で繰り返し繰り返し唱える。こいつを失っては人間ではない。ブーブーうるさいクラクションを鳴らす車の運転席に目をやれば、そこには必ず眉間にしわを寄せた不機嫌そうな顔がある。余裕がないのだ。時間に支配されているのである。
人間を人間たらしめているのは余裕であり、余裕は人ならざる存在と人との間にある緩衝材なのである。こいつを失えば、怒りや憎しみ、時間や他人、我ならざる存在に我が乗っ取られてしまう。こういう信条をもつ彼は、常にゆっくりと歩くし、点滅した信号を認めれば足を必ず止める。講義開始のチャイムがなっても、彼は走る同会生を横目に歩いて講義室へ向かう。
余裕の信条を胸に彼は、やはりのんびり歩いていた。歩きながらこう考えた。果たして、優れた作品は喜劇なのだろうか悲劇なのだろうか。映画だの小説だのドラマだの物語が今この瞬間にも生まれ、味わわれている。愉快な人物やキャラクターを展開して人を楽しませる、ドキュメンタリーチックに仕上げなんらかのメッセージを伝える、男と女が色気全開に交わり官能を刺激する、こんな風になんらかの目的があって作られる物語は明快で、マトがきちんとあるからよほどおかしなことにならない限り、期待を外されることはない。
だが、物語を「美しい」ものにしよう、つまり芸術にしようとすれば、話は別である。美しいとはなんぞや、この問いがいかに多くの人間を呪ってきたことか。美しいとはイデアである、いや美しいとは経験の束である、いやいや。とても俺には答えを導くことのできない高尚な問いであるな、彼は考えるのをやめようとした。
ここまで考えた褒美であろうか、彼に一つのひらめきが舞い降りた。物語は喜劇と悲劇に分類でき、俺の知る限り悲劇の方が時間の淘汰をくぐり抜けやすい、と。考えてみたまえ、ギリシャ悲劇その内容は知らずともその存在は多くの人が知っているし、シェイクスピアを知らない人などいない。だが、世界三大喜劇を存じる人はいるだろうか、ギリシャ喜劇を知る人はいるだっろうか。俺は知らない。ちょっと立ち止まり、スマホをポッケから出し、世界三大悲劇を検索して見ると三大悲劇詩人アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスと出た。続けて世界三大喜劇作家を検索して見ると、世界三大喜劇王としてチャップリン、ロイド、キートンがでた。悲劇は古代、喜劇は近代、もはや疑う余地なく人間の知性の発達上、悲劇が先に出ていることがわかる。人間の核に近い物語は、悲劇なのだな、つまり悲劇こそ美しい物語なのだな、こう勝手に推論した彼はエウレカエウレカ心のうちに叫びながら、それでも余裕を持ちながら、栄のきらびやかな街を悠々と闊歩した。

三越、パルコ南館、ちょっと曲がってヨドバシカメラ、信号渡ってやっとこさパルコ東館に着いた。パルコ八階センチェリシネマは大小二つのホールをもつ比較的小規模な映画館である。平日ということもあり、客もそう多くはない。バラバラとまばらに散って、お客さん方は、ひどく長い脚のついた椅子に腰を掛け、映画館併設のカフェで買ったコーヒーやらマフィンやらをのんびりいじりながら味わっていた。
彼は手早にチケットを買って、そのうち一つの椅子に腰掛けて、そこいらを見渡してみた。あたりの壁には映画予告のポスターが貼ってある。一つ席を隔てて横に座っている女は同じ大学生であろうか、スマホを弄りながら、開場を待っているようだ。薄くも暖かい黄色い光に照らされてテカテカ光った黒い髪、後ろ手に一つ結んだ束の先端、黒くて長いトレンチコートにあたっている。一人でしっぽり映画を観に来るような女性には好感が持てるな、などと考えていると会場を告げる声がした。

整理券を渡し、劇場に入る。スクリーン全体がよく見える程度に後ろへ、そして中央あたりの席に腰をかけると、その斜め横にさっきの女が座った。女はコートを脱いで、隣の席にたたんで置くと、その上にトートバッグを静かに置いた。ちょっと腰掛けて、バッグの中を探ってスマホをとって、再びいじり始めた。画面が見える。(斜め前しかも劇場は薄暗いから見えるのは仕方がないのである。)スクリーンと赤い椅子の腰掛け部分がちょっとだけ映るようにして、ぱしゃりと音はしなかったが、撮ったようである。見ると、インスタグラムであった。なるほど、「一人映画なう」などと投稿する算段だろう、そしてこう思ってもらいたいのだ。彼女は一人で映画を見る孤高な女性なのだ、こんな女性になら好感を持てる、と。

ブザーがなって例のごとく予告編と商業広告が流れる。予告はまだいい、映画の雰囲気を醸成してくれるから。けれど、商業広告はぜひやめていただきたい、せっかく非日常のハレの雰囲気をじっくり味わおうとしているのに、いやらしい音と光で日常を叩きつけられてしまう。こんな場所にまで広告を出そうと考える企業も、こんな場所にまで広告を入れようとしている劇場もすべからず余裕がないものだ、余裕さえあればきっと美しくなろうに。果たして、映画は始まった。みおわった感想を一言で言えば、悲劇であった。性やら肉体やら差別やら醜いものをぐるりぐるりとかき混ぜて、我々にこう問うてきた。人間とはなんぞや?

映画館を出たのは六時十分前であった。悲劇、この言葉が離れなかった。彼は無性に劇、特に悲劇を見たくなった。すかさず検索して見ると、運の良いことに栄の愛知県芸術文化センターにて、ソポクレスの『オイディプス王』が七時からやることになっているという。六時から当日チケットと整理券を配布するらしいが、急がなければならないが、彼は余裕という言葉を忘れはしなかった。やはり、暮れからる太陽の方を向かって、人が逆光で美しく映える、背の高い女のトレンチコートがふわりふわりと待って綺麗な影を醸し出す。悠々と闊歩し、さて劇場に着いた。すでに大勢の先客がいる。赤い絨毯が敷き詰められた会場前の広いホールでガヤガヤ大勢さんがたがしゃべっていた。チケットを買い、整理券とパンフレットを受け取り、ホールの大勢さんの一員となった。やがて会場し、劇場の中へ入る。白いミストが薄く会場を覆っていた。すくなくとも白いミストは喜劇には合わないな、と思いつつ、やはり映画館と同じ中央後方あたりに腰を下ろした。座席は前に七列ほど、後ろに五列ほどある。人が入るやいなや、前方部分の席を取り合った。ガランとした雰囲気が、人がぎゅうぎゅうわいわい言いながら入るにつれて、窮屈な格好になっていく。そちら空いていますか?そちら一つ詰めていただけます?おお、こっちだ早く来い。いろいろな声が会場を包む。彼はその会場全体の様子を後方から俯瞰しながら、ふうとため息とも深呼吸ともつかぬ中途半端な吐息を漏らした。


しばらくしてオイディプス王が始まった。民衆、災難の神、家来、老人、女、王、あれやこれやうろうろしながら劇は進む。オイディプス王の衣装のした、肩のあたりに白いシャツのような服がのぞいていた。シャツではなかろうが、シャツだったら面白い、彼は自分のセーターのしたから少し飛び出して顔を出す白いシャツを、そっとセーターの下にたたみ隠した。それにしてもよくもあんな声が出せるものだ、よくもまあ表情を変えることができるものだ、俺だったら演じている自分を演じながら想像してしまいぷぷと吹き出してしまうこと、請け合いだろう。わざわざ劇に出なくとも、生きているだけでぷぷと噴き出してしまうくらいのものだ。俺は俺、ではない。俺は誰かの仮面を被って誰かのふりをしている俺なんだから。「この世は一つの劇場、人は皆役者に過ぎぬ。入場し退場する。」とシェイクスピアは言ったけれども、役者が役者を演じたなら劇場の中に劇場があることになってしまいはしないか。こんなことを考えながら、劇を鑑賞した。終わった感想は一言、悲劇だ。


劇場を出て、夜の栄、名高きタワーと宇宙船を見る。そこいらを見て見ると、女女、男女、仲良く芝生に座って談笑している。女も男も、ほおに綺麗な紅色を落としている。楽しさは何も考えさせない、考えなくとも楽しさは味わえるのだ。むしろむやみやたらに考えてしまうと、楽しさは目減りしてしまう。楽しいジェットコースターに乗りながら、このコースターの構造はこうで速さは何キロメートルでなどと考えれば、どうなるか考えて見てほしい。笑っている人を見て、こいつはここのこの部分をこういう理由で笑っていやがるな、なら俺はここの部分をああゆう理由で笑うのだろうか、などと考えてしまうのなら、その人は不幸だ。喜劇には向かない。喜劇は何も考えずに、笑うのがよい。だが、反対に悲劇は何も考えないでは見ていられない。こいつはこういう気持ちなんだな、俺がこいつならこう感じてしまう、いや現に感じているな、など悲劇は考えることで悲劇たりうる。なるほど、悲劇は芸術たりうるわけだ、妙に彼は納得して帰路についた。

 

読み返してみると、とてつもなく酷い文章だとは思うけれど、まだ幾分か愉快そうで結構だと思う。
読んだのですね。ありがとうございます。あなた、すごいです。

ノイズの洗浄について

受信したい情報、シグナルがあるとしましょう。
受信機を使って、シグナルを受け取るわけです。
自分が欲しい情報をつまりはシグナルをできるだけ純粋な形で受信できるのなら、これに越したことはありません。

けれど、シグナルには必ず、ノイズが生じます。
単純なシグナルならば特段気になりはしませんけれど、複雑で大きなシグナルを受信する際には大きなノイズが生じます。
受信したシグナルから、自分の欲しい情報を取り出すためには、混在したノイズを取り除く一種の作業をする必要が出てきます。

ノイズを取り出す作業にはある種のエネルギーが必要になってくる。
それは人間でいうところの身体的なカロリーかもしれませんし、もしくは精神的なエネルギーなのかもしれませんし、電力やスキルといった非物質的なものかもしれません。

ノイズと聞くと、割合的に小さなものだろうという印象を抱くかもしれませんが、往往にして、いえ、ほとんどの場合、実はノイズの方が得たい情報よりも大きくて複雑で、むしろ霧に包まれた早朝の濁った景色のように、ノイズが情報を覆い隠しているのです。
だから、情報を得たいのならばノイズを、多大なエネルギーを消費して取り除かなければならない。

そして最も大切なことなのですが、ノイズを受信すること、ノイズを除去するときには、とてつもなく大きな苦痛を生じる。
聞きたくもないもの、見たくもないもの、知りたくもないことを強制的に、脳みその中に直接にぶち込むのですから、もはや入れられたくないものを強制的に入れられる苦痛が生じるわけです。
当然ではあります、それがノイズです。
そして、ノイズを当然取り除こうというわけですが、ノイズを取り除くのはデジタル機器が器用にやるようにはうまくいきません。
辛い思い出や悲しい過去を忘れることができず、思いがけないタイミングで想起されるのと同じように、べっとりと脳内のフィルターにこべりついてしまう。

冷房や扇風機を洗うようには汚れはうまく流れてはくれません。
そうしたノイズに脳内、いえもっと言えば心の中に、べちょべちょの汚れが散乱しカビが生えて異臭を放つ状態こそが、巷でいうところの精神衰弱であったり、うつ病であったりするわけです。

だからこそ、ウィーナーよろしくサイバネティクス的な情報処理機構の洗浄のために、休息が必要になるというわけです。
さて、どのようにして、ノイズという汚れにまみれた脳みそ、あるいは心を洗浄するのか。

古来より、そうした方法は多くの人々の手により探られ、そして実践されてきました。
芸術であります。
芸術とは、情念を整えて形にしたものだとしばしば言われますけれど、それはある種の心の中の汚れを綺麗な形にして、具現化したものであるとも言えましょう。
汚れを綺麗な形にするからこそ、そこに美が認められるというわけです。

芸術家は芸術という行為によって心の洗浄をしてきた。
芸術作品を心の中に取り込むことで、まるで洗剤をつかって汚れた布切れをもみ洗いするかのように、心の汚れが綺麗に流れ落ちていくという。
それは、アイステレスに言わせると、カタルシスなのでしょう。

芸術を名乗るのならばそこには心のノイズが存在しなければならぬ、つまり、芸術とは心の汚れた人間がやる必死の生命活動が結晶化したものである、というのでしょうか。
ニコニコ笑顔、年が年中、幸福な人間にとても芸術なのできるはずがないのではないか。
つまり、生命活動においてノイズを溜め込んでしまうような繊細なフィルターを持ってしまった人間の必死な叫びこそが、芸術というのでしょうか。

魔法少女まどかマギカというアニメがあります。
そこでは、魔法少女の精神を一つの宝石にして具現化します。
その宝石が真っ黒に汚れてしまったとき、魔法少女は死んでしまう。
だからこそ彼女たちは、宝石を浄化し続けなければならない。
ただしその浄化には、他の人間を犠牲にしなければならないという一種の悲しみの構造を有している。

いないはずの鑑賞者

舞台にしろ教壇にしろ、どちらでも構わないけれど、人前に立って発表したり技を披露することが、たまにあると思います。
最近、僕は授業でプレゼンをする機会がありました。

人前に立つと自分の表情や体の動きや姿勢や言葉遣いなのに、注意が向けられ、緊張したり、あるいは慣れている人であれば洗練されたものになるかと思います。
慣れた人、慣れぬ人に共通することは、人前に立つことはある種の緊張状態を精神に生じせしめる、ということかと思います。

人前で何かすることは基本的には楽しいことだと思います。
「自分」を人前で表現することはある種の自己肯定感や承認欲求を満たすことになるからです。
社会的動物として、人間は人から見られることで自らの存在を、自らに対して証明しているのではないか、などと考えてしまいます。
だから、人は友達を作りたいと思うし、どこかの組織に属したいと思うのではないか、と。

だから、自分の前にいる人間の数がだんだんと少なくなっていくことはとても悲しいことなのではないでしょうか。
一人、また一人と消えていくことに、人は多分耐えることができないのではないか。
そして誰もいなくなった暁に待つものは、孤独の二文字に着地する。
孤独の場所には全くの緊張感がない、ある種の安心感があるかもしれないけれど、その安心感を通り越した先に待つものは、とてつもなく大きな虚無感ではないか、と。
家にずうっと引きこもると最初のうちは苦しみから逃れるという安心感に浸って、一時的な幸福感が生じるけれど、一日、二日と一人でいると、どことなく荒んだ気持ちになって、最終的には虚無感の渦に吸い込まれて行ってしまうのではないでしょうか。

そうして、人はまた、人前で自己表現することを望む。
その自己表現は、単なる行為ではなく、人生全体を指すのかもしれない。
すなわち、どこぞの悲劇作者が言ったように、人生は舞台であって、それぞれが入場し、演技し、退場していく、と。
演技とは、すなわち、社会的に生きることである、ということではないか。

演技をするには当然、鑑賞者がいなくては成り立ちません。
そしてその鑑賞者は、ある一定の数と質が担保されている必要があります。
数というのは、個人差があるかもしれませんが、できるだけたくさんの鑑賞者に自分の演技を見てもらいたい、という欲求が反映されたものでしょう。
ですから、この数というのは、実際に鑑賞をしているというか否かの客観的な事実というよりも、演技者が見てくれていると感じる数、すなわち主観的な事実のことになりそうです。

また、質というものが、いちばんの問題なのではないでしょうか。
例えば、猿が100匹見ている中でどんなに素晴らしい演技をしたとしても、そこに満足感もやりがいも生じ得ないでしょう。
それと同じように、演技をするものが、鑑賞者はどれくらいのレベルを保証すべきか、という基準を規定している。
そしてその基準は、演技のレベルに関わらずに設定されてしまう。
どれだけ稚拙なまずい演技をする役者であっても、できるだけレベルの高い人に鑑賞を要求するという、ある種のギャップが生じてしまう。
この時、その役者の演技はとてつもなく苦しいものになる。

自分の演技が稚拙なのにも関わらずに、レベルの高い鑑賞者を求めて、現在の鑑賞者に対して不満を垂れ流すことになってしまう。
不満を垂れ流された鑑賞者は、当然、たまったものじゃありませんから、彼の元を去っていくでしょう。
稚拙な演技を、誰もいなくなった劇場で続けざるを得なくなった役者の虚しさは、形容できるものではないと思います。

最も問題なのは、演技を測る基準が一定ではないということ。
簡単に点数化することができない。
つまり客観的な指標を欠いているから、主観的な指標が通用してしまう。
いくら人が君の演技は下手くそだと指摘されたとしても、当の役者は、いや俺の演技は最高だ、といくらでも弁明ができてしまうし、指摘する側としても数量的な批判ができないから、説得が非常に困難だときている。

そうやって自分の鑑賞者がだんだんと減っていく問題に対して、なんら対抗策を考えないで、いやもはや自らを正当化してしまう。
その時、役者は自分の殻に閉じこもってしまい、さらに自己正当化の過程の中で、殻を厚くしていく。

最後。
役者は気がつく。
とてつもなく強固な殻に閉じこもっている自分の演技は、稚拙か上手か以前に、誰も見ていないのだという根本的な事実に。
すなわち、演技を成立させるのは鑑賞者の存在である、と。

葛藤。
自分の演技が正しいか、鑑賞者の判断が正しいか。
前者の固執した時、存在の正当化と否定という相反する力の作用と反作用とが、存在の消滅をもたらす。
後者を取った時、存在の否定と肯定という相反する作用と反作用とが、存在を否定することによって延命させ続け得る残酷な結末。

救済。
いないはずの鑑賞者を見出すこと。
それはある種の信仰であって、なんとか教という特定の宗教に固執しない、普遍的なものに対する憧れの強化。

信仰は人を救う、などとよく言われますけれど、それはどういうことだろう、と考えてみました、という話です。