唐木机が欲しい

ブログ風のフィクション。

【5000字小説】少年と海

 少年と海

 たとえば、こんな絵画を想像してみよう。墨のような黒色の背景に、中央にはたった一隻の木組みの小舟、右上にはまんまるのほんのり輝く黄金色の月。小舟には、お姉さんが一人座って読書をしている。足元にはちいさな麻で編まれた布袋が置いてあって、中にぎっしりと文庫本がつめこまれている。そのほとんどが、カバーを取って茶色の厚紙をむき出しにしてある。よく読みこまれたからだろうか、丹念に使いこまれた革製品みたいにしわしわで柔らかくなっている。
 お姉さんが本を読んでいると、月から少年が落ちてくる。少年が小舟に着地すると、船は小さく一度だけ揺れてもとの平行にもどった。お姉さんは手に持った文庫本をちょっと閉じて膝の上において少年を見る。少年は目をつむったまま横たわっている。少年は眠っていた。お姉さんは少年の肩を軽く揺すって、「ねえ、大丈夫?」と優しく声をかける。少年は、目をゆっくりと開く。赤子が気分良く目覚めるみたいに、ゆっくりと静かに目を開いた。少年はむくりと起き上がって、あたりを見回した。眼に入るのは、すこしくたびれて柔らかくなったベージュ色のセータに紺色のジーパンを履いた女性の姿。髪は肩にすこしだけ触るくらいのショートヘア。ちょっとだけ茶髪がかっている。小舟の外を見てみるけれど、黒色の闇の他に景色はない。小舟から顔をすこし乗り出して、下を眺めても魚も見えなければ水の中も見えない、匂いさえしない。鈍く輝く黒曜石みたいに外から受ける光を反射するけれど、その内部をいっさいのぞかせてくれない。そんな意地悪な輝きと美しさを少年は感じた。
「この海はやけに黒くて不透明だ。水面の下がぜんぜん見えなくて、ほんとうに海か確かめようがない。この船はどこに向かってるの?」と少年は言葉を一言ずつ確かめるように慎重に尋ねた。
「さあ、どうだろうね。どこかの島に流れ着くかもしれないし、どこにもたどり着かないでずっとこの広くて巨大な水の塊の上をさまよい続けるだけかもしれない。どこに向かってるのか、少年、きみは目的地がそんなに重要かい?」とお姉さんは軽く微笑みながら言った。
「それはもちろん重要だ。いちばん大事な問題かもしれない。どこに向かっているのか、どこに向かうべきか。目的が曖昧な航海はだいじな時間をドブに捨てるようなものだ」と少年は顔をしかめて言う。
 お姉さんは手元の文庫本のページを一ページ、ひどく丁寧に繰った。紙をめくる音が月明かりだけが優しく照らす暗闇のなかに吸いこまれていく。
「少年。じゃあきみは、紙の上にふたつの点を描いて、点から点に線を引いてその上を規則正しく航行すべきだ、というのかな?」とお姉さんは本のページと少年の顔を比較するみたいにこまめに見比べながら言った。
「もちろんそうすべきだ」と少年は言う。

 あまりおもしろくない本だったのだろうか、お姉さんは小さくため息をつくと手に持った文庫本をぱたんと閉じて、足元の袋のなかに詰め込んだ。そして、袋を漁って新しい文庫本をうれしそうに取り出した。ひどく黒ずんでよれよれになった本だった。プラトーン『国家』と書かれてある。『国家』をお姉さんは膝の上に載せた。
「少年。一番短く線を引くなら直線に限るね。最短距離を引くだけなら誰にでもできるし誰がやっても同じだよ。きみがやっても、わたしがやっても、機械がやってもね。それに、その2つの点をはじめから用意しておくのってあんまりにも淡白じゃないかな。今いる場所こそがわかれば、それで一向にかまわないし、これからどこに行くべきかを詳細に決められていたのではなによりも面白くないよ」とお姉さんは月と少年を見比べながら話した。優しい微笑は絶やされていない。
 少年は眉間にシワを寄せてバツの悪そうな顔をした。正直に言えば、少年はお姉さんの言っていることがぜんぜん理解できないのだった。たとえば、小包を届けるとか、お客さんを運ぶだとか、そういう仕事がすでにあって、仕事の遂行のために目的地がある。で、その目的地にむけてきちんと最短距離で航行する。それがほんとうの航海じゃないのか。それに、目的もなくぶらぶらと小舟で海に漕ぎ出すなんて、時間とエネルギーの無駄遣いだ。なにせひとの寿命なんて百年くらいしかないんだ、効率よく有効に使わないといけない。とても無駄に時間を潰してなんていられない。少年は目の前にいるお姉さんは本を読む割にあたまがわるいんだ、と思った。
「そうかもしれないけど、うん。お姉さんの言ってることも一理あるかもしれないけど、」と少年はすこし不満そうに言った。
「しれないけど?」とお姉さんは目を落としていた文庫本から顔を少年に向けかえて尋ねた。
「でもぼくは、この不気味なくらいに黒々としている海面の下になにがあるのか、知りたい。実際に目で見て確かめてみたい。とても気になるから、潜って観察がしたい。お姉さんがたくさん持っている本の一つか二つが、小さな防水カメラやモニターやラジコン潜水艦だったらば、どんなに良かったろう」と少年はすこし残念そうに言った。
「少年。きみはこの下に何があると思う?」
「お姉さんは知ってるの?」
「いや、知らないな」とお姉さんはひどく可笑そうに笑って言った。
「ぼくは知らないから、下手くそな想像をするんじゃなくて確かめてみたいんだ。実際にこの目で見たいと、とんでもない想像をしてしまうから。昔の人は、世界は一枚のおおきな板だと想像したし、まるい半円だとも言った。亀の上に世界が乗ってるのだとも想像した。ひどいものだ」と少年は静かな声で感情を込めないで言った。
お姉さんは少年の目をじっと見つめて、前髪をいじくりながら言う。
「この黒くてぜんぜん下が見えない海がわたしはとっても好きなんだ。この世界はどういうわけかずっと月の位置もこのままで、日が昇って光がさすこともないんだ。だからこの黒い海の下はずっと見えないまま。少年、きみはそれをじっさいに目で見て確かめたいと言うんだね。わたしは、目で見て確かめるんじゃなくって、この下に一体どんな物があるのかなってたくさん想像していたいな。じっさいに下になにがあるか、なんてことはどうだってかまわない。下に何があって欲しいか、何があったら面白くて愉快か、ってわたしは考えてるよ。白くてピカピカ光る大理石の神殿、ちいさな小屋があってなかに入るとたくさんの本が所狭しと並んでる、じつは一つの街があって魚たちが楽しく暮らしてる。そんなふうだったら、どんなに楽しいだろう。わたしにとってこの下はね、見えないからおもしろいんだ。見えないから、いろいろなものを想像することができるんだよ」とお姉さんはぐいっと少年の方に身を乗りだしてめずらしく愉快そうに話した。
「じゃあ、もしもぼくが、」と少年はすこしだけ身を後ろにそらして言う。「ぼくが下の世界をじっさいに目で見てきて、そうだな、写真でも撮ってきて、お姉さんに見せたらどうするの? じっさいの下の世界はただ岩がごつごつと顔を出して、水草一つ生えてはいないし、魚一匹すらいない。そんな無機質な世界なんだとお姉さんに突きつけたら、どうするの? それでも、どうあって欲しいか、どうあったら面白いか、想像しつづけるの?」と少年は意地の悪そうな笑顔を、無表情の下に包み隠して尋ねた。
お姉さんは笑ったまま、「かまわないよ。それはそれ、これはこれなんだ。べつに、どちらのほうが偉いってわけじゃないからね。どちらも一つの世界だよ」とお姉さんは言う。

 少年はお姉さんに軽く挨拶をして、これからぼくは下の世界をじっさいに潜って確かめてくる、と言った。
「ひょっとするともう、ここへはもどってこられないかもしれないよ。このまま、わたしと二人でどことなくのんびり船に揺られているのは嫌なのかな?」とお姉さんは閉じた本を右手で大事そうにつかんだまま尋ねた。少年は静かに首を振った。だめ、ぼくはやっぱり確かめてみたい、お姉さんの足元の袋のなかに教科書があればよかったのに、と少年はいかにも残念そうに言った。
「教科書ってあの、学校で先生が読み上げてくれる、あれのこと?」とお姉さんは首をかしげて尋ねた。
「そう、その教科書。そこには、これまで人類が調べ上げてきた知識の体系が事細かく記されてるんだ。そしてぼくらは、教科書を頭の中に叩き込みさえすれば、世界の法則とあり方をきちんと正しく知ることができる。それは、とても生きていく上で大切なことだし、役に立つことだ。ぼくたちは、そうすることで世界とうまくやっていける。ひとともうまくやっていける。教科書はいわば一枚の大きな世界の地図だ。目的地がわからないと上手に航海ができない。小包を届けることも、お客さんを運ぶこともできない。それは、仕事ができないことを意味する」と少年は言った。
「知る、世界、小包、お客さん、仕事。ところで少年、きみはどこにいるの? きみの話を聞いていると、きみっていう人間がいったいどこにいるのか見えてこないよ。船を規則正しく運行する船頭の別名がきみなのかな。それとも、地図を作る職人がきみなのかな。教科書を頭に詰め込むひとがきみなのかな。わたしは、べつに世界の真実がどうだってかまわないんだ。きみがいったい誰なのかが知りたいな。ねえ、きみはいったいどういう人間なの? 教科書を覚えた歩く地図帳がきみなのかな」
 少年はお姉さんのわけがわからない禅問答にこれ以上付きあってはいられないと思った。少年は首を傾げて、ため息をついた。
「お姉さん、ぼくはもう出発するよ。兎にも角にも、この下に本当に何があるのか真実を確かめないことには、気がすまないんだ。またどこかで」と少年は言う。
 お姉さんは小さくうなずいて、微笑んでみせた。頑張ってね、と少年に温かいエールを送った。少年は勢いよく船から飛び出して、真っ暗で冷たい巨大な闇の塊の中に身を投げた。少年はとにかく下へ下へと泳ぎ続けて、かならずほんとうを知る決意をしていた。そうやって、両の手を必死にかいて水流をつくってじぶんの身体を下へ下へと降ろしていく。水面があるということは必ず、地底があるということだ。底のない入れ物に水をどれだけ注いでも水面はできないのだから。少年はひたすらに水をかき続け、もう息が持たぬと思ったところで一筋の黄色い閃光が目に入った。少年はわけも分からず喜んで、肺のなかにありもしない酸素を体のどこからから引き出してきて、血液に渡す。とにかくほんとうを確かめなければならない、少年のその決意が身体にありもしないはずの酸素を供給したのだ。少年は懸命に泳ぐ。下へ、下へ、降りる。閃光がだんだん強くなる、大きくなる。そうしてついに、少年は閃光の正体を見た。それは、まん丸で黄金色に輝く月だった。少年はもはや水面まで泳いでいくだけの力と意思がなくて(その月は少年をひどく驚かせたしがっかりもさせたから)そのまま月にぶつかろうと思った。だがそう思うまでもなく、月が口をあけて飲みこもうとしているみたいに、少年の身体が月に吸い込まれていくのを感じた。少年は月に吸引力に身体を任せて、目をつむった。

欲望のため息

大きなため息をつくと、やっぱり大量の息が外に吐き出されるわけで、そのあとは大きく吸い込むことになる、だからため息はある意味では絶望を希望に変える身体的な行為と言える。

そんなことを考えながら、まあ日々を過ごしてみるわけだけどだんだん息苦しくなってくるよね。まあ、実存的危機とかそんなたいぎなことは言わないけどさ、よくもまあ今まで何にも考えないでのほほんと日常を謳歌できてきたものだなと昔の自分を笑顔で褒めつつぶん殴ってるんだけど。

朝目を覚ますね、で、むくりと布団から起きて立ち上がる。で、何するよ? っていう問題が終始僕の頭の中でぐるぐる回ってるんだな。何がしたい? 何をすべきか? そういう自分の欲望を問いただしてみては回答を提示するんだね。まあ、顔でも洗おうか、飯でもたいて卵かけご飯にしようか、みたいにね。こういうまあ呼吸するっていう意味での行為の価値は割と無自覚的に受け入れられるんだけど、それ以外の行為の価値がさ、すべてゼロになりつつあるんだよね。三大欲求ね、つまりそういう欲求はさ生きていく上でいわばヒトっていう生物に組み込まれた機能だから何にも考えないでも作動するんだよね。けど、それ以外の欲求はどうかってこと。つまりはさ、まあ世に言う所の生き甲斐だの趣味だの義務だの権利だのって問題ね。生きる価値って言えばいいかな、僕ら人間はさ、別に呼吸が目的で生きてるわけじゃないよね。さっきの三大欲求に加えてどんな欲望を持つか満たしていくかに人間の個性だの生き甲斐だのが生じるよね。

さあ、何するよ? 買い物、読書、大学、テスト勉強、音楽、アニメ、お菓子、運動、そんなとこかな。まあ、一番多く欲望を満たしてるのは買い物、つまり消費なんだろうけどさ、結局消費って分解してみれば、記号を消費してるに過ぎなくて、要するに他者との差異を得るために金を注いでるわけですね。ボードリヤールとかいうまでもなく、その差異を得るために欲望はさ、自分の内側から泉からこんこんと清水が湧き出てるんじゃなくて、コマーシャルとかメディアとかマーケティングとかからくすぐられるみたいにしてもっと言えば価値観刷り込まれて欲してるんだよね。イメージね。物質の裏側に観念的な神秘的な何かを想起するようにプログラムするみたいな。イケメンのなんとかくんがシーエムでかっこよく使ってるからとか、ブランドでみんな価値を認めてるからとか、そういう理由で欲望するんだよね。

そんなこと考えたらさ、極めて消費っていう行為は、もっと言えば都市に出るってことは不快でしかないんだよね。他者依存の欲求を満たすために行くわけだし、行ったら行ったでさ、差異を見せつけられるわけで。ファッションとかね。足をむき出しにした女の人、すれ違った時に嗅がせられる香水の香り、金髪とピアス、それから派手なコートね。どうもこうもなくて、そういう消費物で身にまとった、記号で武装した人間はさ、欲望をクラウド化しちゃってるわけなんだよね。しかもそれに気がついていない。欲望を自分でつくったわけじゃないのに、自分でつくったと思い込んで、それが個性だと思うんだからね。

とは言えさ、まあファッションは仕方なくやってるっていうか、欲望としてやってないっていう人もたくさんいるんだけどね。でもなんていうか、ファッションって基本的に見せびらかしじゃないかなって思っちゃって、つまり異性とかまあ同性でもいいんだけど、自分ってこんなにもかっこよくて可愛いんですっていうブランド化してる気がね。足を見せるとか、胸を強調するとか、筋肉を盛り上げるとか、香水つけるとか、アクセつけるとか、基本的には身体のナルシズムなわけで。しかもその愛っていうのは自分に向けてるというよりかは、他者を引き付けるっていう目的を提示するよね。だからっていうか、ファッションって自分を提示するんだよね。私はこういう人間ですってね。更に言えばさ、私はこういう人間を求めていますっていうことをも提示しているよね。だって、まあなんていうか偏見八割だけど、いかにも色気色気してる人たちつまり性を強調する人たちはさ、明らかにそういうものを与えてくれる人間をすいよせるっていう意思があるんじゃないかなんて考えるわけでね。そうするとそういう服装をしてる人間を見ると、その先を想像しちゃんだよね。あー、この後あーしてこーすんだろなっていう。特に大学なんかは、そうだよね。オークション会場かっていうね笑

脱線しちゃったけど、つまり欲望のベクトルが自分に向いていないってことが言いたかったわけで、他人のための他人依存の欲望が色々なものに働いてるなってことで。自分を高めると称する様々な時間とエネルギーの消費は実は、社会的地位の向上と他者の中での自己の記号的差異化でしかない、ってこと。すべての消費はね。これは、まずい。何がまずいかって、記号体系の中でいくら差異化したところで一向に向上しないよね、つまり自分の本質的な価値はいつまでたっても他者の中でしか決まらないっていう恐ろしいことになる。私は、あなたよりも上です、みたいな言説でしか自己の個性を提示できないって、怖い、もちろん個人的にだけれど。

 

受験勉強もそうだけど僕らが日頃意味あることだ価値あることだって言ってやってることってさ、結局社会のより良い奴隷になることなんじゃないかって思うんだよね。いい大学に入る、単位を取る、卒業する、就活に有利なように資格を取る、自己啓発本を読む、インターンシップに行く、バイトで経験を得る、こうした巷で意味あるぜって言われる行為って結局のところ、いかに自己を社会の中での市場価値を高めるかってことしか範疇にない価値基準だよね。ぶっちゃけ、大学の単位なんて、一切の価値はないと思うし、むしろ学歴それ自体に価値はないんだよね、就職っていうものを減算すればね。就職のために大学で授業を受けてるっていうのが、多分、今の大学生の実情だろうね。そこで何かを学ぶんだ!って意気込む人は僕の体感ほとんどいないし、いたとしてもそれはさっき書いたように自己の市場価値を高めるためにってことね。

一番酷いと僕が思うのはさ、単位を取ることテストで点を取ることGPAをよくすることが価値として無思考に承認されて、身体に染み付いてる人たちね。これ、実際に素晴らしい隷属だと思う。無思考の真面目ほど恐ろしいことはなくて、先生の言うことがひいては社会の言うことが正しくて美徳なんだって言う風に無思考に受け入れるその先には愚かな民主主義しかないんだよね。そう言う人たちこそがさ、無自覚のうちにって言うか正しいと思い込んだままに、最大の悪をしでかすからね、この世で一番怖いんだよね。

つまりね何が言いたいかと言うと、社会っていう枠の中の一つの単位として自分を認識してその単位の上についた価値まあ金だね、それを大きくすることが良いことだっていう風に考えることってどーなんだろって僕は思う。いや、これが間違いだとは言わない。ただ、僕はなんかいやだって思うだけ。ほーれんそー好きな人もいれば嫌いな人もいるよね、そんな感じで僕は嫌いんだなってこと。

人間になりたいんだよね、基本的に。人材って言葉があるじゃん、絶対俺は人材になんかなるもんかって意気込んじゃったりしてるからさ、反社会的なんだよね。社会が価値あるってみなす金の追求にとって有意義な人間の育成っていうのがそもそもの教育なわけで、実際のところ優れた人間にするっていうものは範疇の外にあるんだろーなーって最近さ、これまで受けてきた教育考えて思うんだよね。脱学校かとか、システムとしての学校とか、ほんとそのトーリだわって思うんだよね。価値観の植え付けが学校では行われてる気がする。

人間ってさ、金に先立つと思う。金のために人間が二度生まれ直さないといけないって、噴飯ものだよね。いかに金をたくさん稼ぐかっていう価値観に合わせた人間が大量に生産される恐ろしさね。経済発展こそが、我々の目標だーっていうあのスローガン、むちゃくちゃ怖い。基本的に、金がある人間が強い世の中だから仕方ないんだけどさ。でも、冷静に考えればさ、金は人間にとっての手段でしかなかったはずなんだ、それがいつの間にか目的にすり替わったから恐ろしさ。教育とか、もう、金を得るためにいかなる思考をすべきかーって感じになってて怖い。そういう教育を全部否定する気は無いんだけど、それとは別に、人間として何かしらの金以外の価値を求めるための営為がないと、一体金を追いかける自動機械と何が違うのかしら、っていう疑問が出る。

だからかな、一年前はどうやって金持ちになろうか考えてたけど、最近はどうやって人間になろうかって考えてる。そういうわけで、今までずっと受験勉強とかもそうだったけど金っていうか社会における地位向上っていう価値基準をすべて一度捨てて、人間になるっていう価値基準を置いてるんだけど、わかんないんだよね。だから一番初めに書いたように、一種のニヒリズムに陥ってるっていう。

三大欲求を追い求めようかなあ、って思ったんだけどまてよそれは動物とどう違うんだって話。うまいものたくさん食う、ってあれ? それ動物とどう違うんだっていう忌避感が出てきてさ。美味しいものをたくさん食べたら、優れた人間になるのかっていうね。ならないよね笑 とにかくうまいものたくさん食うことが人生の目標だーってはならない。睡眠はいいよね。昼寝とか心地いいし。僕もよく昼寝する。けど、寝てる間って死んでるのとどう違うんだろって考えちゃう。何も考えてないし、考えていても忘れちゃうよね。これもまた同じことなんだけど、寝れば寝るだけ優れた人間になるかーって聴くといやそんなことないぞってなる。残るは性欲なんだけど、行為自体には価値はないと思ってて、そこに行くまでの過程ね。恋愛は人を成長させるぞーっていう言葉あるけどそれは過程が成長させるのであって、ヤればヤるほど成長していくってわけじゃない。風俗は怖いよね、何が怖いって、顔が。

で、何に向けるか何だよね。基本的に三大欲求っていうのはエネルギーの生産しかしないわけで、性欲しかりエネルギーを供給する役割しかない。どこに向けるかが大事なんだよね。要は対象ね。これが難しい。人間に向けるのが一番なんだし、手っ取り早いんだろうな。

身体に向けたら動物だろうから精神に向けるべきだっていうのがまあ、常道っぽいんだけど、やっぱそうなるかな。読書とか音楽とか絵画とか映像とかをとにかく頭んに中に打ち込むことね。大量に摂取する。これしかないんじゃないかって思う。知識知識知識。これしかない。

だいたい、優れた人間とそうでない人間の違いなんて、所詮は知識量の差でしかない。苦しんでいる人間の存在を知らないから暴力ができる、知ってたらしない、優しいかそうでないかなんてこの差異でしかない気がする。悪っていうのはさ、知識の欠如に由来するんだろうなーって思う。誰もさ、それが悪だって知ってたらやんないよ。知らないからやるんだね、盲目的に。

まあ、優れた人間になるっていうのは少し宗教じみてるっていうか解脱するんだーっぽいんだけど、そうじゃなくて僕はさ、悪をなさないことが優れてるってことかなって思うわけで。例えばさ、これが善だーっていう言説っていうのはやっぱりどこかしらの立脚点から見た時の公理でしかなくて、その立脚点自体が正しいかどうかは人間を超越する存在から持ってくるしかないんだけど、つまり神だね、神って人間には認識できない。だから、善っていうものは成立しない。たといあるとしてもそれは認識できないんだろうなって思う。ニーチェじゃないけどさ、これぞ正しいのだっていう人には警戒しないといけない。

だから知識をインプットしまくって悪をなさないようにすることかなって思う。あとは、最近僕が可能性として感じてるのは美なんだよね。善と正義っていうのは対立するものでさ、戦争すら起こすんだけど、美で対立ってことはないだろうし(その美が正しいと主張したら別だけど)美で人が死ぬことはないから、美かなーって思う。物語テラーかなあってね。文学するにしても、哲学とか思想関連は知っとかないといけないからやっぱり知識のインプットは何するにしても必須だね。

まあ、このブログに書いてることは頭の中で即興で考えたことだから、一切の正しさと善を主張するものじゃないってことは断っとくべきと思う。僕の主観に満ち溢れた感想文くらいのものでしかないから、間違った情報も含むと思うからその辺は読む時に峻別してもらえればと思う。本当は、ていうか、物語ではこうした感情の波をメタ化するんだけどそれがまた難しい。だからっていうか、メタ化するための出力としてブログっていうものを使ってる。ぐちゃぐちゃしてると自覚してるんだけど、このぐちゃぐちゃの思考を綺麗に秩序立てて提示するのが美だし、優れた物語なんだよね。

まあ、最近はとにかく知識を精神的に食うことに価値をいわば強迫的に見出してる。吐きながら食べてるんだけどね。どーも読書を長々とするってことが僕にはできないみたいで、でもそれ以外には価値あると思うものなくて苦しみながらやってる感はある。読まねばならぬっていう義務感というか読まないと生きる価値ないぜっていう強迫が、読む時の苦しみよりもでかいっていうね。知識の欠如っていうものに最近はほとほと嫌気がさしてる。哲学も文学も社会学も数学も何にも知らない、そんな人間がいかに正しさとか美しさとかよさを考え出したところでしようがないかなっていう。知識がないんだよね、そんな人間、どんな悪をしでかすかわからないからむちゃくちゃ恐怖してる。自分の存在と行為が悪ではないっていうことを何としても証明くらいはしておかないといけないなあって思う最近です。

 

PS

まあ、割と綺麗に観念をメタ化できたかなっていう小説がこれです。

snobmen.hatenablog.com

 

浅い小説、狂気とアヘン

まず、すこし僕の文章を上げてみます。小説形式だからすこし読みにくいです。あれだったら飛ばしてください。

 ひとがなにかに不満を抱くとき、実際には八つ当たりであることが多い。自分の不甲斐なさをそのもののせいにする。で、自分は悪くないのだ、本当はすごいやつなのだ、ということにしておいて自分を擁護するのだ。これはべつに悪いことではない。世間では、問題から目を背けるな、困難に立ち向かえ、そして当たって砕けよ、という格言が大いに流布し、物語としてもどうしようもない必然的な苦行に立ち向かってめでたく自己成長を遂げて(ときに敗れつつも)ついには大勝利を上げてハッピーエンドというものがたくさんある。勇気をもらった、明日からも頑張ろうと思う、そのような感想を物語を受け取ったひとは笑顔で漏らす。そうだ、感動。この言葉がぴったりだ。ひとは凡人の英雄譚を好んで摂取し、明日の自分を励ますのだ。どうしようもなく難しい世界、たくさんの不条理が反乱する世界、それでも我々は行き続けなければならぬ、たとえ一生に渡って不具なものであろうとも。これは、一種の常識になっているように私には思える。簡単な敗退は認められないし、かつては困難に背を向けてトンズラするなど万死に値すると思われていた。武士道のなにおいて。けれども近ごろは、一時的な敗走は全く恥ではない、むしろ本当に追いつめられたとき、形成を立て直すために敗退すべきだ、そして再び自分の土俵を見つけてそこで戦うのだ、という寛容な意見が世の趨勢となっているようだ。一時的敗退、なんと素晴らしい響きであろうか! そうだ、一時的に負けてもいい。勝てぬ戦はせぬに限る。自分にとって不利な場所から立ち退いて、有利な場所でのみ戦えばいい。


 しかし、ほんとうの意味での敗走はこの世の中において(現代において、あるいは過去においても、どの世界でも)認められてはいない。かといって、厳しく禁止されているわけでもない。真の敗退、それはいうまでもなく、自殺である。この世界じたいが、そもそも自分の土俵ではないと確信したとき、あるいは生命よりも尊いものが汚されていると確信したとき、先の論理にしたがえば自殺は許されるべき、むしろ歓迎されるべきものではないか。そもそものこの世界の物理法則と社会的な法則性が如何ともしがたく一人の人間をどうしようもなく抑圧し続ける、そんなことは起こりうる。さらには、そういう不幸な人間はしばしばいっさいの慰めや安らぎを奪われているものである。世界から圧力を加えられ、世界から慰めを減じられる(あるいは、じつはマイナスの慰めを加えられていて、マイナス符号付き慰めをプラスのものだと思い込み続ける。減じられているにもかかわらず、加えられていると勘違いし続け、はっと気がついたときすでに根こぎにされているという恐怖)。そんなとき、ひとは世界を変えようと思う。半径五センチメートルの世界から、半径一キロメートル、さらには国家にいたるまで、さまざなな範囲の世界を変える営み。それは、ひとつの革命である。革命。なんという古臭くて、顔をしかめさせる言葉だろう! もう、我々は革命などという言葉を反射的に嫌悪する。かつての革命思想がなるほど間違っていたわけではないかもしれぬ。しかし、革命が引き起こす暴力と、革命思想にとりつかれた人間のキチガイじみた目つきと言説を我々は、社会の不条理以上に嫌悪するのだ。安定志向、保守主義だと彼らは我々を非難するだろう。どんと来い、と我々は思うし、そうした非難をあるいみで冷たく黙殺する特権を、平和主義者たる我々は保有しているのだ。人類は過去二千年にわたる歴史の積み重ねの中で、暴力ほどに愚かなものはないと学んできた。どれほどまでに暴力が人間の尊厳と権利と自由を踏みにじり、海にも匹敵する量の涙を人間に流させたのだ。もはや、暴力はいかなる理由があれども許されない。そう、我々は考える。どれほどに革命思想が正しかろうとも、それが暴力に訴えるのならばそれは無条件に間違いだ。 これが、一般的な世界標準であるように私には思えるのだ。


 そして、私自身もその意見を全面的に受け入れる。正直に告白すれば私の生の格率は、ガンジーにならって、非暴力不服順である。生活上、私はさまざまな困難を感じるし、不条理に頬を何度も殴られる。見るもの聞くもの触れるもの、私はそのほとんどすべてに不満を感じ、怒りを覚える。街。都市。メディア。私はまったくそうしたものを快いとは思えないし、不快だと思っている。されども、暴力をつかった変革はそれ以上に不愉快だ。ひとを殴る、ものを叩く、それは事故に対する最大の侮辱であるとともに、他者を冒涜する行為だと思う。だから、やらないしやりたいとも思わない。同時に、私はこんなことを思うのだ。その不満は、実際は自分の不甲斐なさを覆い隠すための自己防衛的なやつあたりではないのか、と。つまり、自分の無能さを人や物のせいにして、自己を正当化しようとする試みではないか、というわけだ。何かを肯定するためには、それを肯定する方法と、それでないものを否定する方法の二種類があるのだが、私の不満は後者ではないのか。ひどく情けないものだ。他者を否定することでエネルギーを得て、そうして生きていくのだ。惨めだ、とさえ思う。無論、否定によって生きることが悪だと言うわけではない。心理的な安定を保つための、人間に兼ね備わったあるいみ生得的な機能だともいえるからだ。生きるために人間が編み出し創り出した機能なのだ、とも言える。たとえ、哲学だの宗教だのが、真の人間は否定によっていくるにあらず力強い肯定によって生きよ、と教えるとしても実際問題、生きるための必死の努力が馬鹿だとは言い切れまい。されど、できれば肯定によって生きたいものだ。自分を、世界を、肯定しながら生きていく。なんだか、こちらのほうが健全な気がするし楽しそうだと思う。眉間にシワを寄せ得て、何につけてもグチャグチャと否定する文句を口にして、いつも顔をしかめて生きていくよりも。


 さて、長々とくだらない言葉を紡いできて、世間を非難しているのか、自分の意見を開陳しているのか、読者は困惑していることと思う。いったいあなたは何が言いたいのですか、そんな問いかけがちょっとした怒りとともに湧き出ていそうだ。つまるところ私はこれから、長くてすこし冗長な物語を語ろうと思うのだけれど、その物語は空想上の、想像上のものであると断りたいのである。なるほどたしかに、本当の現実の世界では、私は非暴力不服順だし、世間というものに対してうまく折り合いをつけながら生きていかねばと考えている。そして、これからも私は一般的であるし常識的であるつもりである。が、これから語る物語は、その範疇にない。いったいどんな人間が登場し、どんな事件を起こして退場していくのか、私にはまだ分からないのであるが、はじめにこうして断っておくことで、できるだけ自由に物語を展開させたいと思うのだ。これから語る物語は、想像上の体系である。思考の対象としてのあるいは思索の結果としての、嘘である。形を持った嘘。形をなぞることで、精神の運動を読み取ることのできるすこしだけ特殊な嘘である。すべては精神の内側で生起し、そして消滅する。精神の工房に私はひとりこもって、こつこつと印鑑を彫って、それを文字として紙に判を押そう。印鑑はいずれ忘却の彼方へと消えるだろうが、押された印は残り続ける。そしてその印は、見た人間の精神に印鑑を想起させるのだ。読者が再び創り出した印鑑が、私の考えていたものと違っていたとしても一向に構わないし、むしろ歓迎すべきだとさえ言える。優れた芸術作品は、その幅が広いのだ。

これは、今朝ってか今、長い長い長編小説の序文として書いた(書き始めた)ものでした。で、書いていてというか、書き終えてあまりの浅さに衝撃を受けたのでした。

なんていうか、毎朝四千字くらいの小説をかいてさ、一人悦に浸ってたんだけど、やっぱり僕くらいの年齢の人間は人生経験も読書量もあまりに浅すぎて、書いても仕方ないなって思えもするよね。

これまでさ、とにかく一人独房的な書斎にこもって(世間とのつながりをすこし減らして)本読んだりもの書いてたりしたんだけどさ、それじゃやっぱだめだなって思ったわけで。かといって、バイトだーとか遊びだーとかなんとか言って、くだらない単純作業で小銭稼いで苦労と言うなの自己満足に浸ったり、サークルの遊び会みたいなものに参加して愚にもつかない会話に時間を潰すっていうのもちがうんだけどさ。結局の所でもね、世界というか人と関わるってきわめて重要だと思う。それは、馴れ合いだとか身体が渇望する欲情的な欲望っていうんじゃなくて、(かといってストア派的に抑圧せよってわけでもないんだけど)もっと上昇志向的なそれも金銭や社会変革みたいなアヘン的上昇じゃなくて(「革命は民衆のアヘンである」ってそのとーりだよね。僕はそこに金銭を加えたい。学生団体とかさ、意識高い系って一種の薬物依存といえるひとがたまにというかしばしばいるから怖いんだよね)芸術的な上昇志向がほしいななんて思う。純粋に良いものをっていう唯一の向上な気がするな。あの怪物的な狂気ね。芸術家の狂気は個人的にむちゃくちゃスキだな。ゴッホが自分の耳切り落としてさ、愛人に送りつけたみたいな話。あれは、個人的にはシャチョーの成功談より格段に面白いな。

そんなわけで、とにかく読書量を増やして、経験量を増やす方向にシフトしようと思いました。

想像力のはなし

またサークル紙に出すための小説を書いた。で、昨日かな、一週間くらいかけて四万字くらいのものを書いて見た。三つの短編小説を一つの主題の上で連結させて、色々な角度と色々な道筋を描いてやって、テーマを描き出すっていうまあ、よくある短編小説集的な手法を使って書いたわけで。村上春樹の『神の子どもたちはみな踊る』的な感じ。この本はよかった。特に、『かえるくん、世界を救う』はなんども笑ったし、それでも単なる喜劇ではなくてやはり一つの主題が詰め込まれていて、すごいなあと思った。なんていうかな、この短編小説集に限らなくてもいいんだけど、人間の意識の下あるいは意識と対象との間に透明化されている、怒りや悲しみや苦しみといった負の感情をさ、寓話的に描き出すって感じなんだよね。シュルレアリスムというか、ピカソの絵みたいな。「悲しいなあ」って言葉で感情を綴っても何にも面白くないというか、何もそこに奥行きはないけどさ、その感情を膨らませたいから長い物語を書いたり神様を登場させたり空想を挟んだりするんだよね。小説なんて読んでも仕方がないよだって所詮虚構で日常生活に何にも役に立たないからねならばむしろビジネス書の方がいいぜ、っていう意見が多分世の中の趨勢なんだろうけどさ、そうじゃないんだよね、そもそもの目の向けどころが違うっていうか。小説は嘘でフィクションで長いことは確かだよ、けどそれはそれそのものが目的で書いてるんじゃない。わざわざ長々と嘘を拵えるのはさ、化学みたいな簡単な命題や数式で提示できない感情や思想を、伝える手段だからなんだよね。そりゃ、「言葉は短い程よい。それだけで信じさせることができるのならば」だよ。でもなんで、そうだな、例えばドストエフスキーカラマーゾフとか罪と罰があんな暴力的長さかっっていうとさ、それくらい長くしないと伝えきれないものだからなんだよね。いや、別に伝えるだけならひょっとするとできるかもしれない。結局、あの小説を一文にまとめればさ、「神いないけど人間は善くないといけないぜ、人殺しちゃダメよ」ってことに帰着するんだろうけどね。で、まあなんていうかさ、まんがで読破みたいなお手軽インスタントコンテンツあるじゃん。あれって、いわば氷山の一角だけを切り取って提示してるだけなんだと思うんだよね。その下にはさ、偉大な作品であればあるほど巨大な建築物があってそれを伝えるために氷山の一角があるのに、一角だけを切り取るって倒錯だよ。

人間と動物を隔てるものはさ、っていうか人間の優劣をつけるものはさ、どれだけ利益を産むかっていう資本主義や市場主義みたいなものじゃないと思うんだよね。結局さ、想像力がどれだけあるかってことだと思う。道徳っていうさ、なんか国か宗教が社会の安定化のために広めた固定観念だってよく常套句的に言われるものあるじゃん? そういう言説は間違ってはないんだよ、間違ってはないんだけど、履き違えてるなって思うわけで。つまり、道徳っていうま人間を善なる存在たらしめる命題の体系はさ、やっぱり想像力の型なんだよね。あれは別に公理ってわけじゃないんだ、想像力に秩序を与えて作った産物的な感じ。だから、想像力がない人間もある人間も等しく善を享受できるっていう優れものなんだけど、それと同時に、想像力を欠いてさしかも理解力を欠いた人間はそれを勘違いして解釈しちゃって、原理主義みたいな暴力が生まれてくるんだよね。だからその意味では、すべての悪は想像力と理解力の欠如に由来する。
話戻すとさ、人間って想像力膨らませないとダメだよねって最近思う。例えばさ、まあ簿記でもプログラミングでもなんでもいいよ、金を生む技術を手につけるってあくまでも生計を立てるための手段なんだよね。目的じゃないんだ。目的は別の場所にある、いやないとダメなんだよね。ないと、そりゃ、金稼ぐ自動機械になっちゃう。ま、その目的とは何かっていう問いは宗教でも哲学でも問い続けら今尚答えは出ないんだけど、だから「神に仕えることである」とか「父と子供に奉仕することである」みたいな容易な問いを誰かから与えてもらうっていう選択と、悩み続けて煩悶とするっていう選択があるんだよね。前者はさ、社会から目的をインストールする感覚。そこには別になんら想像力は働いてないよね。で、後者は目的を自分で想像して考えるっていう過程を踏んでるよね。で、導き出した答えがたとえ社会からインストールされたものであるとしても、そこには想像力が介在してるから自我があるわけだ。

前者はさ、もう、動物的だよね。もちろん、生きやすくはあるんだけどつまり種の保存的にはグッドなんだけど、やっぱり人間っていうよりもディー・エヌ・エーを後世に伝える遺伝子コンテナー生物人間みたいなとこある気がするw それじゃあなんだろね、肉体と精神にさ快楽を与え続けて、まあ快楽物質を貪り食うって感じかな。楽ではあるけど、どーなんだろね。
後者はさ、ある意味でさ種の保存的にバッドつまり身体と精神にストレスをかけて寿命を縮めながら想像し続けるわけでしょ。快楽っていうかさ、苦行だよね。苦行の先に、実は何にもありませんでしたーみたいな、全く面白くないバッドエンド、つまりニヒリズムとかペンシミズムにいたって自殺しましたよっていうやつね。こりゃ、もはや喜劇だよね。悪は振りまかないよ、けど内部に悪を溜め込んでる感あるよね。「たとえ好みが泥の塊に成り果てようとも、何一つ穢さずにいたい」っていうのはある女性哲学者の言葉なんだけどさ、想像して悪を回避するっていうのは、想像上で悪を犯してシミュレーションして悪を自己の内部に溜め込むっていう操作でもあるんだよね。そうすることで、自己を汚してさ、外に悪を振りまかないようにするっていうね。極めて善であることっていうのは、ある意味ではそれだけ悪であることを意味するんだね。ソクラテスとかあの辺りも、多分だいぶんさ、悪を想像上で犯してそれこそ山のような悪のシミュレーションの結果としてあれだけの善を提示できたんだろうね。

ま、シミュレーションの計算能力とその結果を保存しておくハードディスク的なものを足し合わせたものが想像力なんだろうけど、人がみんなそんな能力を持ってるわけじゃない。計算遅い人もいれば、記憶力ない人もいるよね。だから、人間ってみんながみんな善でいられるわけじゃないんだろうね。悪人も放っておけば出てくる。そこで、宗教と道徳の出番なんだな。こういう想像力が不足した人たちに、ある意味ではインストールさせることで社会の秩序を保つしその個人の安全を保つっていうね。ほんとは、自分で想像した方がいいんだよ、でもできない人のためにそれがある。あるいは、想像の型や見本として提示することで、想像力がある人がより高いところに行けるよにするっていう役割も果たすかな。プログラミングのライブラリ的な。

 

そんなわけで、想像力を使う仕事、まあ芸術家とか哲学者とかね、彼らがたくさん自殺してるのは内側に溜め込んだ悪に耐えきれなくなったからだろうね。想像力高めるってことは、それだけたくさんの悪をストックするってことだからね。鬱が小説家の職業病って言われるのも納得だろうね。言語ってあまりに概念と距離が近いから、そんな危なっかしい劇物を調合してたら死にたくもなるわな。
なんていうか、僕もまだ読書初めて一年とかでさ、全然小説も読めてないんだけど、やっぱりそれでも小説家っていうか文豪は、鬱の人自殺する人多いよね。

そんなこんなで、アマチュアですらないぺいぺい大学生の僕みたいな人間がちょこっとした小説を、それこそ人生のおつまみ感覚で小説を書いてみたんだけど、それでもやっぱり独特の憂鬱さを感じるよね。で、しかも案外病みつきになるっていう。化膿した傷口みたいな。むちゃくちゃ痒いんだ、痒いからかくんだけど、すごい痛いし悪化するっていうあれ。想像するっていうのは精神のリストカットだよね。結局は自己満でしかないし、とか言って国家のためだーとか人類のためだーっていうのもなんか純粋性を失うからどーだろーねって思う。

似非でもさやっぱりすごい頭には刺激が強すぎるみたい。ここ何日か、睡眠時間3時間とかでさ、しかも寝てるって感覚がない。寝てる時にも頭の中で言葉がレースしてる感じ。ぐるぐるね。一昨日は、なんか知らないけど、外国人が出てきて英語で、真の芸術はーみたいな長談義聞かされた夢見たし、内容忘れたんだけどその長談義の内容が自分でもびっくりするほど斬新だと思ったんだよね。なんて言ってたかな、思い出せないんだけど、とにかくさ、夢と現実の区別が曖昧になってきてるんじゃないかなんてシャレにもならないことを思うんだよね。

 

昨日やっと書き終わってね、ようやくゆっくり眠れるなあと思ってたんだけど、今度はさ、もっとたくさん小説読まねばっていう強迫観念に駆られて活字中毒になるっていうねw 書いてるとさ、語彙の貧困さとか哲学的思考の欠如を思い知らされるんだよね。例えば、社会に抑圧された人間のイライラを描くシーンとかではさ、あーフーコーが学校化とか言ってたっけ制度だよね、っていう曖昧な知識しか頭の中になくてすごいイライラしたりね。いや、そういう知識をさ小説に直接ぶち込むってことはしないよ、しないけどね書く時に頭の中にそういう知識があった上で書くのと、何にもなしに書くのはやっぱ違うね。読んでてもそうなんだけど、やっぱりあー多分ここはなんとか主義の考えが頭にあってこれ言わせてるなーとか思うわけ。やっぱすげーなみたいに思うんだけど、そういうものが全然ないしょーもない作家とかはそんなこと思わせてくれない。よくさ、純文学と大衆文学の違いはなんだ?って言われるけど多分ここじゃないかな。作家の知識量の差。どっちもどっちでさ、純文学もさ芸術性とやらの孤高の殻に閉じこもってちゃダメだし面白くなきゃダメだと思うし、大衆文学もさ道徳性を欠いたいわば官能に訴えかける大衆をそれこそ制度としてまとめ上げる役割やっちゃったら最悪だよね。単なる快楽物質を提供するしょーもないコンテンツになったらさ。その意味では、さっきも書いたかな書いたけど、村上春樹っていう存在はその境界を問うなって思う。ま、それはまた書くとして、とりあえず、やっぱ知識ないと書いてもしょーもない作物できちゃうっていう恐れね。

とにかく知識をメタ化してストックしとかなきゃいけないわけよね。受験勉強みたいにさ、徳川家康将軍かくのたまふっていうのはどーでもよくて、そののたまった内容を一種のさ液体っていうか気体っていうかメタ化しておくんだね。で、調合可能な状態にいつでもしとくこと、できれば知識という個体に戻せればなおいいね。
才能才能言うけどさ、やっぱ才能ってここに出てくるんだと思うな。どれだけのストックがあるか、でどれだけ鮮やか自由自在に状態変化ができるかね。僕はつくづく自分の知性のアサさを思い知らされてはっきり言って涙すら出ないレベルなんだけど、文豪って言われる人たちはここがとにかく人間の比じゃなかったんだろうね。創造って言うのは、頭ん中の化学物質の調合だからさ、あー天から湧き出たように小説が浮かんでクルーっていうのは溢れちゃってるんだろうね。

 

とにかくインプットだよね。ひたすらにね。インプット、まあ精神的な捕食。一番効率いいの、文字だね、やっぱ。映像と音声は遅いし浅くなりがち。思考が言語で展開されてるから、その言語と最も近い場所にある、ほんとは脳のシナプスの電気信号とかなんだろうけどそれはまだ人類には扱えないから、多分一番近いのは文字だろうってね。だから、読書ってことになるのかな。

でさ、問題は、何語でやるかだよね。大学でもとにかくこれからの時代は英語だから試験いっぱい受けなさい、みたいな風潮なんだけどそれって、じゃあ日本語は会話の手段だけであって思考の道具としては英語使いなさい、そっちの方がいいよーってことかな? 確かにさ、文献の量は英語の方が多いし、使う人間も多いぶんさ英語の方が思考の深さも深いんだと思う。だったら英語で読んで書くべきか、っていうどうしようもない、まあ西洋と東洋の退治と受容っていう明治以来からの問題がまた出てくるわけなんだよね。漱石とかね。
これはさ、多分、永遠に出ないね。東洋人は、永遠に対決し続け悩み続ける問題だろうな。西洋の方がすごいじゃないか、いや東洋の伝統を見よ、っていう一種のナショナリズムね。

難しいけど、やっぱ一つ言えるのはさ、閉じた系って弱いよ。対応しきれないから。

その意味では、西洋にちょっとした根を持ちつつ、日本語で思考するっていうのがテンプレ王道スタイルかなって思う。英語で本を読めて、でも太い根は日本語に貼るっていうやつ。何ヶ国語もできなくていいんだよ、けど英語はやっぱり読めないと閉じた軟弱な系になると思う。

というわけで、閉めますけれど、最近はとにかく世界文学を日本語で読みつつ、寝る前に少し英語を読むようにしてる。楽器の練習する感覚で英語はやってる。引ければ儲けもんって感じで。思い出したけど、最近買ったギター、弦きれちゃって放置してるのが少し心が痛む。

不眠症、心因性発熱、難聴と死と芸術。

あー、最近また不眠症ぶり返してきていよいよ片耳も聞こえなくなってきた。あと発熱もでてきたし、もうこりゃいわば心因性なんちゃらってやつだ、ちゃんちゃらおかしいや。

で、美しさっていうのはさ苦しみだとか憎しみや鬱や悔しさみたいなドロドロと無秩序に存在する情念をきれいに秩序立てて眼の前に提示するからこそ成立する概念なんだよね。だから、もうさっき僕が書いたみたいな体が苦しい頭が痛いみたいな酒屋の陰口的な言葉の連鎖は所詮、くだらない駄文に過ぎないってね。
だからこそ、文学だとか音楽だとか絵画っていうのは一つの芸術として世間一般に認められてありがたがられて、芸術家っていう人種は尊敬されつつその一方でどこかしら軽蔑されてる部分もある。それは、人間の汚い部分を秩序立てて見えるにせよ見えぬにせよ提示するから。そこに人は恐怖を感じつつも感動する。そこには、持ってるんだが持ってると認めて開放した時すべてがおしまいになる深淵的な秩序があるからね。

なんてか、芸術ってリベラルアーツのうちのひとつで教養のために芸術やりましょーって世間の人たち言ってるけどさ、で、文学の造形があります夏目漱石ドストエフスキー僕私読んでます素晴らしいですみたいな言葉がかっこよさの記号として流通するんだね。で、その記号に対してああかっこいいな知的だなっていう憧れみたいなものがにょこにょこ出てきて、俺もなにか芸術の一つや二つ勉強しようじゃん!っていうイキった人たちが誕生するという。芸術に対するあこがれ、ね。専門学校行って俺は芸術を極めるんだー的なね。

けどさ、芸術ってその奥底の根底の部分には見るに耐えないほどの聞くに耐えないほどの、嗅いだら鼻がもげちゃうくらいの闇があるとおもうんだよね。闇ってぼかしたけど、つまるところ、死ね。それと、精神分析学よろしくリビドーね。それと、リビドーに付随して孤独ね。この3つのうちのひとつは絶対に芸術に含まれてると思うんだね。

楽しい芸術ってなによ、って思うんだよね。笑顔で芸術やってます、美しさをみんなで一緒に探求しましょうって冗談言うにしてもちゃんちゃら可笑しいや。あまりに聴くに耐えなくて、たとえばさ、幸せになるための芸術活動ってことば。これ、ひどいや。もちろん、幸せっていう目的に付随して芸術をうまいこと加工してやれば楽しい芸術鑑賞ってのは成り立つよ。でもさ、それはあくまでも芸術を鑑賞するって話。いやしくも、芸術と一体化しようってんならつまり制作しようってんなら明らかに、それは不可能だ。

 

まあ別に芸術じゃなくてもいいんだけどさ、本当に真剣にある一つの対象にエネルギーを注ぎ込む作業ってさ、孤独じゃなきゃできないよね。みんなで一緒に楽しく道を極めましょうって、噴飯ものだよ。そりゃ楽しむんなら協力してみんなで一緒に楽しもうぜって思うよ、でもさ、真剣なら楽しめはしないよね。もし楽しめたとしても、みんなで一緒にやるときに目指す楽しさとは次元が大分違うと思う。

そんなこといいながらも、なんとかして孤独とか死みたいなものから逃れたいって思う、とうぜん僕がそんなものの知覚に確かに在るってはいわないよ。もしかしたら僕が感じるような死とか孤独の恐怖ってのはたんなる自意識過剰の幻想かもうそうかもしれない。でも、在ると感じてるって事実はゆるがないんだな。ないじゃないかってことを必死に、それこそ文字通り死ぬ気で証明しようといろいろやったけど結局逃れられない必然としてそこにあったんだよね。
ま、どうするか? そんなこと簡単で、話のわかる生身の人間(って言い方自体がもうすでになんか独善的独我論的なんだけど)と議論戦わせるしかないんだね。生身の人間ってのは、つまり書物の中にいる想像上の人間じゃなくてっていう意味ね。あ、ちなみに想像上のそうした孤独や死から逃れるための人間ってのは、神ね。イエス・キリストとかお釈迦様とかがそれにあたるね。哲学の神が人間の肉体を持たないできわめて概念的だったのに比べて宗教の神は受肉してるぶんとても救われやすいんだね。だからさ、僕もまあ神様信じてみようかなっては思ったさ。中世あたりだったらそうしてたね。
でもさ、現代にはやまのように神って存在を否定した思想があふれてるし、科学や文明っていう物を目にしないで生きることができない以上、神を信じるなんてえらく神様に愛着ないとできなんだな。ぼくの家は普通の日本人家庭だから、神様なんて単語小さいときからずっと馴染みなく育ったからさ、不可能なんだよね。神に救われるのって。

ホントはさ、カルト宗教に騙されて救われた気になるのが一番なんだな。ああ、カルト宗教ってのはそのままの意味だけじゃなくて、資本主義におけるボードリヤールよろしく消費される記号シニフィアンの体系だとかも含めてね。お金を稼ぐためのコミュニティが大学内にいっぱい発生してるけどそれも含めてね。ある一つの合目的性をなんら深い論証なしに盲目的に信じさせるものね。目ん玉(もちろん、理性や良識っってことが言いたいんだけど)つぶせば、そういうものを信じれるようになるけどさ、やっぱり目ん玉潰してまでみっともなく生きていたくはないよね、目ん玉つぶして見にくい生き恥晒すくらいならば死んだほうがある意味マシだよ。その意味では、てかべつに蔑むとかいうわけじゃないけど、羨ましくて仕方ないんだよねじつのとこ。栄とかギラギラしたファッションで女と男と大所帯で都市をぶらついてる同じ年くらいの人たちがさ。あれぼくにやれって言われても度胸ないから不可能だし、心情的にもやりたいとも思わないんだよね、けどやりたいって思える状態になりたい。

 

じゃ、どうするねって。自己変革とかさ自己啓発的には言うよ。このままじゃ俺はだめだだから変わらなきゃだめだっていう決心ね。でそこから必死に勉強して苦労してお金持ちになりましたーっていうサクセスストーリー。
で、お金欲しいか、友達たくさん欲しいか、いっぱいたくさんの可愛い女の子とわちゃわちゃしてたいかっていうとそんなことない。むしろ、そんなのいらない。ただ欲しいのはさ、安らぎってか慰めなんだよね。絶え間なくホメオスタシスを破り続ける自己否定の連鎖から開放されたいんだよね。これってあまりに残酷なディストラクションだと思うよ。努力を根こぎにするって最強の技だよ。いるよねどのアニメにもさ、能力無効化できるやつ。黒ひげとかね。あれチートだと思うんだけど、やっぱり最強は無効化根こぎなんだろうね。

理解するってさ、とてつもなく難しいんだよね。人はよくさ、あれは変だっていうよ。けどその変っていう言説の提示は、理解じゃない。ただ知らぬって事実の表明だと思うんだよね。あああの宗教変だね、あの人変だよって言うのは簡単だよ。俺が知ってる知識の範囲内は常識でその外は変ってラベリングしてるだけなんだから。けどね、本当は変って言う前に理解って過程がなきゃいけない思うんよね。理解はさ、相手の精神とか言葉の意味が頭んなかに入ってて底と照らし合わせて了解するっていうことでね。つまり、理解するためには相手の人間の頭の中に入ってる知識と同じくらいの知識がなきゃだめなんだね。二人の間でおおきくさ、知識の量の差がありすぎると、理解はほとんどできないんだね。だから、芸術家っていうのはどこまでも理解されなくて自分を高めれば高めるほど孤独さはまして行って最後死ぬんだよ、彼らは馬鹿だから死ぬんじゃない自分を高めてその究極の先にある孤独ってものに耐えられなくなって死ぬんだね。眼の前にさ、えらーい芸術家先生、まあ文豪でも哲学者でもいいんだけどさ、その人をはたして僕らは理解できますかっていう問題。無理だよね。あまりに知識の量の差がありすぎる。それはさ、理解出来ない側の問題なんだね。理解されない側はただ自分を高めるっていう営みを必死にやってさ、最後にたどり着いた先に「変」ってレッテルはられるんだ。それってあまりに理不尽なんだけど、しょうがないことだろうね。

まあ、だからってわけじゃないんだけど、頑張って努力すればするほどにだんだん独りぼっちになるし見える世界も常識とかけ離れてく。そんな人間がさ、理解してほしいなんて希望を持ったところでちゃんちゃらおかしいもんになる。

もちろん、僕がすごく偉くて頭良くて知識豊富で高みの見物してるって言ってるわけじゃなくて、このまま僕がやってる努力を続けた先に待ってる絶望の話をしてるんだよ。決して、自己賛美がしたいんじゃない。

当然、環境ってのも大事だよね。同じようにさ、自分を高めようって純粋に考えてるような人たちがたくさんいる場所にいればさ、こんなへんてこりんな考えには至らないよ。でもね、そんな考え方をする人間は世の中にごくごく少数なんだと思うんだよね。ほとんどのひとたちはさ、社会のなかでそこそこのお金と地位を得てさ、いろんなものを買って暮らすことが幸せなんだし目的なんだ、その枠組から出たいとは思わないしひょっとするとそんな枠組みにすら気が付かないで、大衆やってるかもしれない。

どっちがいい悪いって話じゃなくて、ただたんに僕が枠組みから好き好んで出て、人間として高みを目指したいって頭おかしい考え方してるんだって話ではある。で、同じようなことを考える人がいないからって、駄々こねるだけなんだけどね。
でも、その駄々はけっこう頭を苦しめてひとりの人間を不眠症にして難聴にするくらいの力を持ってるっていう恐ろしい代物。

 

 

小説や哲学書を読んで、小説を書いてるからこんなことになるんだけどさ、やめられないんだよね。コレ以外に本質的に意味のあることが見つからない。どっかの詩人が書いてたけどヴァレリーかな、「芸術と学問だけだ、二日酔いのような不快さを伴わない快楽を与えてくれるのは」ってね。ほんと、そのとおりだと思う。なにしてもさ、そりゃやってる最中楽しいんだよ、ゲームも遊びってやつもさ。でも終わったあとの虚無感と来たらこりゃないね。恐ろしすぎる。

特に小説書くのは妙に病みつきなんだよね。カネになるわけでもなく、誰かが読むわけでもないのにさ、こっそりとカチャカチャ毎日書いてんだからある意味虚しいよね。でも、意識を飛ばせるのって小説を書いてる瞬間だけなんだよね。他のことやってるときはさ、すごい苦しい物事を考えて自己否定しちゃう。あ、自己否定って行っても俺頭わりーとかだせーとかいわば自虐じゃないよ。いちいちありとあらゆる認識にさ、ゼロをかけていくんだよね、マイナスを掛けることもあるけど。そんな意識って苦しみでしかないよね、あーなるほど自殺した人たちはこんな事を考えて苦しんで死を選んだんだなっていうちょっとしたためしてガッテン的な納得したりしてるんだけど、笑えるよね。ほんとに。ま、もちろん自殺なんてしないけど。右手でナイフ掴んでるのは事実だよ、けど左手がその右手を必死に抑えてるからとうぶんは安心かな。ドストエフスキーの二重人格って小説みたいに、へんてこな幻想が出てきたらそんときは終わるけどねw

 

どーせ今日も寝れないな。豆電球に薄暗くした部屋にひいた冷たくて硬い布団にくるまって、ビートルズでも聴きながらせめてもの否定を緩和するかな。小説家書けばいいじゃんって思うかも知んないけどさ、そうだな例えば自伝小説太宰治みたいな。あれやったら絶対ダメだと思うんだよね個人的に、死への階段を降りてく感じする。どっかの批評家が書いてたけどあれやるとさ、ほんとに舞台から退場できなくなる。やるならせめて神の目線から書かなきゃだめなんだけど、その境界線が破られるのが怖くて書けてないや。あー。トマス・マンとかドストエフスキーみたいに馬鹿みたいに長ったらしい小説をさ、十年近くかけて書きたいな。延長って唯一の救いだからね。  

【生活1】部屋紹介と個人的よかった本ベスト3

今の書斎

太宰治の『葉』のなかに、「生活。」という文章があるけど、この文章を始めてみたときどこか感慨深い気持ちになった。たった二文字に丸をつけて文章にしている。美的にも哲学的にも深遠な文章だという印象が残ってる。

で、生活っていうのはたとえば正しさとか美しさや効率や将来みたいな単語よりも僕ら人間にとっては遥かに重大な意味を帯びていると思う。というのも、例えば「人生」とか「未来」や「現在」みたいなあらゆる人間に関わる単語は結局のところ「生活」を言い換えたものに過ぎないから。命や生命だってつまり、「生活」のことだとおもう。

そんなわけで、生活について何個か記事を書いてみようと思って、第一回目が生活の空間である部屋について書く。で、僕にとっての部屋はゲームする場所や食事する場所という意味合いもあるのだけれど、やはり何かを読んだり書いたりする意味合いが強い。今年に入ってから、部屋を書斎にしようという書斎計画のようなものを一人でちゃくちゃくと進めてきて、最近ようやく部屋が書斎っぽくなってきて喜んでるところだったりする。

これが僕の部屋すなわち書斎。

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まだまだ発展途上で未熟なエセ書斎ではあるけれど僕なりに結構気に入ってる。
右側には、一つ腰くらいまでの高さの書棚と、背の高さよりも高いでかい書棚の2つをおいている。これは、椅子に座ったときに右側の洋服ケースが目に入らないようにするためのもの。

で、正面には背の高さほどの書棚が2つおいてある。集英社の世界文学全集全80巻ほどとがぎっしり詰めてある。その右側の書棚には、世界の大思想全60巻が入ってる。

左側の書棚には、日本文学全集全70巻が詰めてある。

デスクは、広々とスペースを取るためにディスプレイを斜めにおいてある。ちなみに、このパソコンは液晶が割れてぶっ壊れたMacBook Proを繋いでデスクトップ化している。画面は、stoneというきわめてシンプルで使い勝手のいいエディタを開いてる。大学の文芸サークルのサークル誌に載せるための小説を書いてる。画面の前に置いてある紙はディスプレイの文章を印刷したものを置いてる。
小説でもレポートでも文章はできるだけ、デジタルで文字を書き込んでからアナログに印刷して手を加えて推敲するようにしてる。

 

過去の書斎

1代目書斎

 

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春頃の書斎。本棚の数も圧倒的に少ない。
机もこのときは小さな60cmほどのものしかなくて、パソコンもまだ壊れてなかったからディスプレイもない。持ってた本の数も少なかった。
このころは、なんか英語の勉強してた気がする。
とーいく、みたいなものの勉強してた。
アマゾンアレクサで音楽かけてた。

2代目書斎

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いつかな、たしか夏休みの部屋はこんな感じだったと思う。
暑かったから扇風機かけてた、右端に見える。
ちょうどコの字に本棚と机を配置して、その真ん中に椅子を置いていたから、椅子を後ろに引くと本棚にあたって窮屈だったから、今のスタイルに変えた。
さっき紹介した背よりも高い本棚がこのときにはなかった。

 

本について

だいたいこんなにたくさん本置いてあるけど読んだのか、と聞かれたらごめんなさい全然読んでませんと答えるしかない。世界文学全集も日本文学全集も哲学全集も、一切合切ほとんど読んでない。
だいたい毎月読む量以上の本を買ってしまうから、理論上部屋にある本を全部読むなんてことはできない。

けれど、全集をバカみたいに購入して部屋に置いておくことはとても意味のあることだと思ってる。本を読んでたりネットサーフィンしてたりして、読んだことはないけれど部屋に置いてあった本の題名を見つけることがある。そういうときすぐに手にとって、本を開いて中の活字を眺めることができる喜びはかなりのものだと思う。

けっきょく、書斎は考える空間で、考えるとは言葉のハイパーリンクを構築することだと思う。で、深く広く考えるためには必然的に言葉を数多く所有しないといけない。できるだけ言葉を精神の近くに置いておく必要があって、その一番接近させる手段は暗記。頭の中に言葉をぶち込んどく。で、とはいえ世界中には無限の言葉と観念が存在しているし、人間の記憶力には限界がある。だからこそ、書斎という空間に数多くの言葉を所有して、使いたいときにアクセスできるようにしておくといいと思う。 

 

一番気に入ってる本。この一年(読書を始めたのは今年の一月だから)読んだ本の中でよかったものベスト3でも書いて、書斎の紹介を終えようと思う。

1.アラン著作集1 思索と行動のために

読むのに半年かかった。
難しいテクニカルタームは使わないけれど、それでもえげつなく深い思索を書物に詰め込んだ感がある本。
考えるとは何か、思索するとはどういうことか、その他哲学的な問題をシンプルな道筋で示す。読むのに、かなりの時間がかかるけれどいい本です。

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2.思想のドラマツゥルギー

絶版になってるけど、ぜひ復刊してほしい。けど、復刊しても売れないだろうと確信できる本。というのも、中には書いてあることはさっぱりわからない。ヨーロッパ精神について林達夫久野収が雑談してる本なんだけど、全然話が読めない。でも、すごく引き込まれる。次から次に、知識や考えが飛び出してきて、知性とはこういうものだ、と語りかけられてる気分になる。

ちなみに、この林達夫はえげつなく恐ろしい思想家です。
岩波文庫の誤訳を指摘した事件は有名。
文章も中身もとても面白くて、全集を買った。これから読む予定。

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 3.重力と恩寵

万人向けではない、少し「思想臭」の強い本。
キリスト教的な、善を追求した本。
シモーヌヴェイユの人生は、なかなかドラマ性の溢れる壮絶なもの。
あんまこんなこと言ったら世間から怒られそうだけど、この考え方というか哲学てプロセスはヴェイユが女性だからできたことかなと思った。
相手に寄り添ったとても優しくて心配りが行き届いた思想だなと思う。
哲学者ってか哲学って結構冷たくて自己中心的なきらいがあるように僕には思えるんだけど、この本は相手に寄り添った暖かい哲学と思う。

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欲望、都市、趣味、オフライン。

知識や興味はもつ本人が自由に選んで、たとえば俺はmol-74が好きなんだ、とかシューベルトをコーヒー飲みながら聞くのが趣味だとか、編み物を最近始めたんだ、みたいにみんな個性があって趣味を持ってると思いがちで、個人を個人としてアイデンティファイするものはその人の性格と意志なんだって思ってたけれど、どうも最近そうじゃないらしいぞと思い始めてきた。

趣味は何ですか?と大学入学と同時にサークルや授業やバイトの自己紹介で耳にタコができるくらい尋ねられたし、たくさんの新入生が尋ねられているのを見聞きした。たいてい、「読書です」とか「ファッションです」とか「テニスです」みたいなこれまたお決まりの単語を並べて、返事としても「ぼくもわたしも好きです、楽しいですよね、テレビでこの間やってました」みたいな問答を繰り広げるさまを見て、体験したりした。趣味、そんな言葉を高校卒業まで使ってこなかったし使う必要もなかったと思う。ただ、学校に行って勉強して部活をして家に帰って飯を食べて風呂に入って予習復習をこなして眠る、かんたんな生活の繰り返しで十分な満足感を伴う生活を送っていたとおもう。ところが、大学に入って、というか社会に出て、趣味はなにかと一種の持たなければならないぞという強迫が裏に潜んでいるかとさえ思われる質問のやり取りが行われているのを知る。で、さあ趣味を作らないとと思って、なにやらわけのわからないサークルに入ったり、へんてこなタイトルの本を買ってみたり、ゲームソフトを買って遊んでみたり、街に繰り出してかっふぇめぐりやファッションショップめぐりを始めたりする。

大学も街も人間の総体も集団もすべからく都市である。趣味という二文字を目の前にくりかえし提示されてどことなく怯え、アイデンティティーを確固たるものにすべく興味と欲望を「こしらえて」自らを仮設した欲望を満たすために都市に身を投げ込む。ほんとうに興味があるのかよくわからない人やモノで自分の身体と精神のまわりを取り囲んで、服を着るように自分の個性とやらを主張してみる。ファッションといえばいいだろうか、結局、趣味というファッションで身を包んだところでどことなく虚無感が残ってしまう。無機質的な記号としての欲望と興味をこしらえて満たしたところで、本質的な解決に至らないことを頭のどこかでわかってはいるけれど、本当の自由に身を投げ込んで時間的にも空間的にもカオスにドロドロとした液状化するくらいならと、都市的な秩序の中にとどまることを選ぶ。

何が言いたいかというと、消費社会論からの脱却はというか現代社会的な諸矛盾からの解放、まあこれは資本主義の矛盾とか労働の搾取とかいうマルクス主義イデオロギーの正当性をも含むものだけれど、それは不可能だっていう結論にじつはいたってるってこと。完全なユートピアを哲学とか思想的に実践することで実現することは、ぼくはもはや絶対に不可能だと思ってる。むろん社会の問題を解決しようと懸命に頑張る人たちをたしかにぼくは尊敬するけれど、その努力の源泉にあるのが都市的なそれこそファッションとしての社会運動つまり空いた時間を埋めるための活動になってるような人たちの内部の空虚感の大きさをこそ忌避したい。不可能だって自覚していながら、自分の力と可能性のちっぽけさに絶望していながらもそれでも実践せざるを得ないという絶望のうちの活動にこそ正しさが宿ると思ってて、可能性!とか明るい未来!みたいな耳あたりの良い文句を喧伝するような社会変革運動ってやっぱりどーだろーと思ったり。

でも、ものすごく孤立化した都市化した無機質的な暮らしというか、まあ最近でいえば21年卒から就活ルール変更みたいなある種の労働ありき金儲け第一主義的な社会と、労働のための人材育成になってる明らかにオカシイ社会の状態に絶望しないわけにはいかないよね。卒業してから金銭的な幸福の中に身を投げ込むようにプログラムされた資本主義的な社会の線路を一生懸命進んでいて、その路線からべつの路線へ移ることも広い荒野の中に身を置くことも実質的には不可能な、絶望的な状態ではあるけれど、だからといってその線路を悪だと断じて変革だ社会主義共産主義だ阿部政権打倒っていうのもだいぶんずれていると思うわけで。

なんやかや社会の文句たらたらな社会だけど、じっさい生命の危機かって言われるとそんなことなくて明日の衣食住に困窮して餓死してしまうようなひどい状況にもない。身を犠牲にした革命っていうのは、命の危機に瀕した社会で起こることだから、ある意味恵まれた恩恵的自由を与えられた現代日本ではまず起こりえないし意味も意義も持たないような気がする。

けれど、やっぱりこのままじゃつまらないって思う、だって都市の中に欲望と好奇心の源泉を見出して稼いだ金をそこへつぎ込んで快感を得ろと言ってるようなところに、のこのこと身を投げ出す気にはなれないです。都市を太らせるために金を稼いでるともみえるわけで、とんでもなく非人間的だとおもう。

 

欲望を脱構築すること、ここにあるとすればある希望の光が見えるとおもう。好奇心もその中に入れてもいい。欲望して満たすという日常生活の営みが都市中心のものならば、そして都市の変革が不可能であるならば、都市の公理化をなげくのではなく、こちらがわにある欲望を解体して子細に観察してあたらしくつくりかえればいい。
「なにか」を欲望するという現象の根源に都市が置かれている、ならば根源を都市からほかのなにか人間的なものへと置き換えればいい。

「なにか」を欲望させる都市のひとつの機関として、メディアがあることは周知のとおりで、ぼくらがスマートホンやテレビを通して触れるコンテンツの中に欲望を作り出す装置があるとメディア論はいってるらしい。広告はいうまでもなく、映画の中で使用される小道具や暮らしそのもの、ユーチューブで見る動画の内容、ウェブサーフィンつまりグーグルが掘り出してくる情報そのものが、欲望の源泉として、いわば易怒的な役割を果たしていることはまちがいない。
テレビを捨ててスマートホンとパソコンを手放して、オフラインになること、そうすれば否応なく押し寄せる「暇」を埋めようとする内的な作用が生じて、本当の欲望が顔を出すと思う。

 

なんてことを最近考えて家じゅうにあるオンラインデバイス段ボール箱に詰めて押し入れにしまってみたり、はては工業製品の無機質な見た目と音にまで嫌気がさしてコンセントを抜いて目につかない場所へ移動させたりしてる。アナログ至上主義と言おうか、自然に帰れ的なフルイ考え方だけれど、意外と的を射てるんじゃないかなんて思う。だって、よく考えてみればインターネットでたしかに山のような娯楽と「役に立つ」情報を瞬時にゲットできるけれど、それほんとに役に立ったか?つまり人間として成長させてくれたかと自問自答した時に、あの情報はとてつもなく精神的な糧になったのような感動も温かみもないことに気が付く。つまり、一時的な冷たいインスタント食品と変わり映えしない。早い・安い・手軽、ではあるけれどただそれだけで、なにかを深く感じることもなければ、巨大な構造を俯瞰することもできない。その場しのぎの文字通りの「暇つぶし」の役割しか、インターネットが提供しているコンテンツははたしていないのではないかとすら思う。

とかなんとかいうと、「便利」そのものがはたして本当に価値のあるものかと問わなければならなくなりそうだ。科学はなるほど確かに人間を大きく飛躍的に進歩させたけれど、そして生活を便利にしたと称賛されるけれど、「便利」が持つ要素を分解してみるとどうだろうか。
便利とはつまり時短である、とぼくはおもう。*1生活に消費される時間を短くすることが人間にとっての進歩だ幸福だといえるだろうか。ほんとうは、科学が短くしてくれた非人間的な時間を、なにか人間的なそれこそ趣味で満たすところに科学のというか便利のありがたさがあるはずだと思う。むろん、労働時間は科学が発達していなかった時代と比べて現在なおも大した変化はないしむしろ増えてるんじゃないかと思うくらいだ。そこを資本主義の矛盾だといって非難した反資本主義すなわちマルクス主義は、この点においては真なることを言っていると思うし、いまなおその意見は力を持つ。

とにもかくにも、科学というかテクノロジーはそれそのものを商品としたり欲望の対象としたり、また欲望を伝播する物体となってしまってはもともこもないというか、もっと便利になりましたー時短できますみたいな新スマートホン発売イベントが欲望を巻き起こす現状は、それこそ倒錯としか言いようはない。怒りの意味を帯びたおかしいぞ!ではなくて、ほんとに可笑しい。

 

 

道はたくさんあるし、多様性は進化論的に見ても明らかに重要だからこちらが正しいというつもりはさらさらなくて、ただぼくの偏狭で頭のおかしい思考の回路を通してみればこんな風に欲望は捉えられかくあるべしと思うっていうとんでもなく個人的な偏見にすぎないことを断っておきたい。

ぼく個人としては、欲望は電子デバイスやマスメディアや都市や芸能人から与えられるべきではなくて、人間的なたとえば美しさや正しさや善さみたいな芸術的なものに惹かれて内側から生じるべきで、その欲望をかなえていくプラトンよろしく観想的生活こそが欲望と幸福個人的にあるべき姿だと思ってる。

とはいえ、右は正しい、左は間違い、おれは右しか向きません左を見るのは犯罪です、みたいな閉鎖的な系をわざわざ構築して固執する必要はないと思ってて、たまには左に行って遊んでみるのもいいじゃんと思う。このまえも、都市都市批判しておきながら、その当の都市に足を運び6時間くらいだらだら店を回ってあれを買おうかこれを買おうかなどと都市的欲望を楽しんできたりする。
つまり、ホームとアウェイ、どっちも大事だけど、ホームもアウェイもないんじゃそれが一番危ない。

*1:鉄道も飛行機もインターネットも、ある物事をなす際の時間を短くした点において便利だとして称賛され生活の中に受け入れられている。なにかできないことをできるようにした、という不可能性を可能へと変換したわけではないと思うもちろんロケットばして月に行ったのは不可能を可能に変換したわけだけれど、こと一般市民の日常性においてはたしてこのような根本的に不可能だった機能を可能にしただろうか。昔の人が不可能だったことを可能にしただろうか。ぼくらが便利だ科学の恩恵だとして称賛するのは、あくまでも時短とその集積が生んだ手間暇の省略にすぎないとすら思う。