唐木机が欲しい

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アラン著作集1 機械論

第十六章 機械論

「機械論とはあらゆる変化は運動であるとする宇宙理論である」

「いかなる証明もそれだけですむものではなく、必ずなにかに攻撃が加えられる(中略)証明の背後に隠れているようでは強靭な精神とはいえない。ひたすら証明の中に身を挺し、たえず証明を推しすすめるのが強靭な精神だ。」(p.165)

 

 

我々の目の前で起こる物事の変化に何らかの説明をつける行為は、学問と呼ばれ、昔から様々に行われてきた。その起源であるタレスは、万物のもとのものとして水を提示し、アナクシマンドロスはトアペインを、アナクシメネスは空気を提示し、それぞれ、万物の変化を神話的説明に頼ることなく説明しようとした。エンペドクレス、アナクサゴラスを経て、デモクリトスの多元論すなわち原子論へとたどり着き、一応の解決を見る。

 

この学説上の変化を見るに、ミレトス派の物活論的な考え方に対して、原因を元のものに宿すことへの批判からその対抗論として、機械論や多元論が示されてきた。できるだけ論理的で矛盾の内容に、議論を進めてきたのである。

 

このように、いかなる証明も必ずその矛盾に対して攻撃が加えられ、証明に身を挺してさらに証明を推し進めようとする意志こそ、強靭な精神の現れなのである。この精神の働きを機械論を具体例として述べる。

 

例えば、たまの転がる運動について、玉が次の瞬間に、別の場所へ移動している現象に対して、機械論は運動の仮説を用いる。この仮説が用いられるのは、そうするほうが容易であるからではなく(例えば、これは夢想なのだとか、たまに霊が宿っているのだ、などと考えるほうが楽である)より納得しやすきもの、精神を魔法だの悪魔だのから開放してくれるがゆえに好んで選択されているのである。

 

こうして、我々の精神の働きというのは、自然の力(現象)から自由のあらゆる外観を取り去り、その本質・内部を可視化すると同時に、かつそれを目的として精神を開放する。理性の光でもって、環境を照らす。

 

ところが、ここに情念が介入しようとする。情念の介入を防ぐために、強い忍耐が要される。できるだけ容易に済ませたいと思うのは、人の性であろうか。オッカムの剃刀を誤用してはならない。

 

2018.05.05