唐木机が欲しい

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アラン著作集1 無意識について

 

ノート 無意識について p168

 

無意識とは何か。二つの意味があろう。第一。何かについてこれは意識を有していない、と判断する場合。すなわちこれは、物活論的な考え方の反対である。物活論は古代ギリシアミレトス学派にみられるものに対する考え方であり、例えばタレスの万物の元のものは水であり水が自己自身において様々なものへと生きているかのように動くのだ、と考えたところのものである。他にも、何か無機的なものに対してまるで生きているかのように考えることもこれにあたる。シャーマニズムも一種の物活論のように見える。

 

この物活論と対をなすものが機械論である。デモクリトスの原子論に代表される、ものを生命的に考えず、それを何かしらの原因があって動くものとする考え方は、無意識的であるといえよう。こういう意味において、無意識という言葉は機械論の要約されたものなのである。

 

第二。無意識は、人間に対して、人間の認識や思考を包括する意識がないと考えること、という意味のものである。この無意識について、アランは第一の意味における無意識という言葉を拡張した結果生じた誤りである、かつ道徳的に誤りである、とする。これ以下、無意識はこの意味において用いる。

 

無意識は、「意識の中での対照的な効果」である。例えば、人から「君は恐れている」と言われたが自身ではそう感じていない場合、ここに「はて、私は恐れているのだろうか?」という疑念が浮かぶ。いわば、自身が意識している自分の範囲の外に、恐れている自分が在るのだろうか、とこう考えてしまう。こう考えた時点で、自身の認識の外に存在する自己の存在が、思考し意識する自己の中に生じることとなる。否定するか、肯定するか、は留保した上で。すなわち、自己というものは意識と無意識とで構成されているのだから、アランは「正確とは無意識的なものだ」と述べる。

 

また、自らが意識できている自分と対照的なるものとして、身体と本能を挙げている。自らのいに反して足がガタガタ震えだしたり、声が震えたり、また熱いやかんからとっさに指を引っ込めたり、驚きのあまりアッと声を上げたり、さらには性的なものにいたるまで、どうしても自身の意識の範囲外のものを我々は持っているのだ、と言わざるを得まい。

「実際、人間は身体と本能をもっていることに狎れっこになっている。」

 

これに結びつけて、アランは夢について、フロイディズムを引き合いに出して、このように言う。夢でみたものや空想したものを徴(なにごとかが起こる前触れ)として、人々は容易に妄想やら象徴やらをつくりだし、さらにそれに支配されてしまう。黒猫を満月の夜に見たとか、カラスが家の周りをぐるぐる飛び回っていたとか、悪夢を見た、とかの、どうとでもない事実を徴として、そこから意識(予期、行動規則)をつくってしまう。これは無意識の然らしむるところである。

 

これらのような無意識を「自我」だと考えるのは、最も重大な誤謬であると同時に、自我に対する侮辱である。人間には自分がどういうものなのか、その全てを理解することはできない。これは知っておくべきことなれども、だからといって、ああこれは自分にはよくわからないし理解の範囲を超えるものだけれどもきっと無意識的つまり思考することなくして受け入れてしまって良いだろう、とはしてはなるまい。強靭な精神を必要とするのは、こういう無意識に対して、否と宣言するためなのである。

 

「唯一主体である「われ」によるものでなければわれわれのうちには思想などは皆無であることを理解する必要がある。この注意は道徳的なものだ。無双することで、考えはじめているなどとは思ってはいけない。思考とは意識的なものであることを知ることが必要だ(中略)幻影を追い払うには、ただこう考えさえすればいい。すべて思考でないものは機械である。あるいは、もっと適切には、すべて思考でないものは物体、つまり自分の意志のままになる物である、とこう考えさえすればいい。」

 

自分の意識を超えるものが、眼前に現れたとき、我々はそいつに屈服してはならない。ならないし、屈服したのに、これは意識であり思考である、などと考えてもいけない。私の意識を超える、という事実が大きくなるのなら、それに対する否の意志をも大きくしてこれに抗い、自分の意志のままになると確信し続けることが寛容であろう。

 

そういうわけで、「無意識は「自我」に対する侮辱であり、身体の偶像崇拝である。人は自分の無意識をおそれる。最大のまちがいはここにある。」