唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

全集を読むこと

昨日、ニーチェの全集をさらりと読んでみよう、そんな軽い気持ちで、白水社ニーチェ全集第一巻の頁をめくって、読んでみたのですが、さっぱり分かりません。

一つ一つの言葉に持たせられた意味が重たく、その上、言葉と言葉のつながりが極めて繊細であるため、小説を読み流すようには、いかないようです。

 

もちろん、「読め」はします。

ただし、血肉となるような理解には及ばず、浅く一時的な理解にとどまるでしょう。

実例があるのです。

 

ちょっと前に僕は、ツァラツゥストラはこう言った、を文庫で読んだことがあります。

2日くらいで読んだと思います。

 

読み終わると、ニーチェを読んでやったぜ、どうだ、という極めて幼稚な満足感とオレツエー的な自己陶酔に浸ることはできたものの、さて酔いが覚めると、ナンノコッチャわからないのですから驚きです。

なんと空虚なものでしょうか。

 

どんな話?と問われれば、

「なんか、蛇と鷲がツァラツゥストラと仲が良くて、人間は堕落していて、冒険してついに永劫回帰したらしい。」

と阿呆丸出しの答えしかできません。

 

こんなわけの分からない感想と満足感を得るために、二日間もじっと椅子に座って神妙な顔つきで書物に向かっていたかと思うと、時間の喪失とはつまりこのことなのだなと思わずにいられません。

空虚の極みです。

 

とどのつまり、事実を列挙した書物は速読だの多読だので十分かもしれませんが、思想を言葉に変換して詰め込んだ哲学書に関しては、ちょうど数学の証明を読み解くように、ゆっくりと咀嚼しながら読むしかない、とこういうわけだろうと思います。

 

 

ツァラツゥストラの教訓を活かすべく、今回はニーチェ全集を、重要な箇所をノートに引きながら、自分の考えを書き込みながら、読んでいくことにしました。

この発想は、下のブログにあるレーニンの哲学ノートを真似たものです。

readingmonkey.blog.fc2.com

 

4ページ読むのに、だいたい一時間くらいかかります。

レーニン全集は、約500頁が24巻ですから、年が年中一時間毎日読んだとして、20年の計算になります。

 

ここ2日でおおよそ24頁読めているので、頑張れば大学卒業するまでには全部読めるのではないでしょうか。

 

 

 

僕はこれまで哲学書を読むだの、ニーチェについての本を読むだの、講義を受けるだのの経験はありません。

強いて言えば、高校の倫理で学んだことに、神は死んだぞこれからは超人だ、などと喚き散らしたらしいぞくらいしか知りません。

しかも僕は極めて飽き性です。

 

どうせ続きません、続かないとわかっているのなら、卵を一つの籠にあえて盛ることをせず、リスクヘッジをするものです。

だから、ニーチェの他にあと二人ほど、全集を並行させて読むことにしました。

アランと三木清です。

 

平々凡々たる大学生二回生の知性の腕力で、全集に戦いを挑むとどうなるのか。

どういうノートをとっているのか、アナログをデジタルに変換しておくと、卒論やレポートなど様々な恩恵が在るので、作業がてら、ここにもあげていきます。

のんびりやります、がんばります、宣言効果。