唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

アニメについて 2

Hくんを、僕はある意味で蔑んでみていたわけですが、その理由は彼の性格だの容姿だのだけではなかったのだと思います。

彼がアニメオタクだから、そして、自分がアニメオタクだと括られることが嫌だったがゆえに、そう見ていたのだと思います。 

 

僕は、それからずっと、オタクはダサい、阿呆である、いわゆる普通の人がかっこいいのだと思いつつ、過ごしてきました。

サブカルチャー的な趣味、たとえばアニメだとかライトノベルだとかゲームだとか、こういうものにのめり込み、そこに住みそこに生きる人はダサいのだ、というステレオタイプです。

 

過去を懐古し評価した、現在に安住する自分の単なる論説になるやもしれませんが、おおよそ学校社会の大勢は、オタク派でしめられているのでなく、部活に励み勉学に励む普通派によって占められているのだから、少数派であるオタク派が軽んじられた結果生じたステレオタイプなのだろう、と思います。

 

仮に人間関係にピラミッドを当てはめてみたとすれば、僕は中くらいにいたのだと思います。

下である人たちを、どこか蔑んだり否定することで、上からの目を避け、中たろうとしたのだろう、とこう考えると、なんとまあつまらない狐だったことかと思います。

そういうわけで、僕の中でアニメオタクというのは、蔑むべき存在であって、自動的にアニメに関しても、下等なものであると考えてきました。

高校卒業まで、どこかそういう考え方がありました。

 

けれども、もう、大学に入ってしまえば、もうクラスの地位もピラミッドも差別もいじめもくそもありません。

なにをしても、もはや問題にはなりません。

それは、人から変な目で見られそうなことをしても、なんらその人の地位を貶めることにはならない、ということに加えて、

どんなにカッコイイことをしても、それは自己満足の域を出ず、人から羨望の眼差しや称賛の声を得るようなこともない、ということでもあります。 

 

だからこそ、わけの分からない方向に振り切れて髪の色がスゴイことになる人や、珍妙な香水をプンプン漂わせている人、びっくりするくらい奇抜な服をする人、喋り方が変ちきりんな雰囲気を醸し出す人など、多種多様、ダイバシティーな人たちがキャンパス内を闊歩することになるのでしょう。

 

たいへんいい傾向であります。自由とは、つまりこういうことなのだな、と大学に入って喜ばしい気持ちになりました。

中高では、僕のようなちっぽけな学校の一分子に過ぎない存在でも、いやだからこそかもしれませんが、地位だの風評だのに細心の注意を払っていました。

 

脱線しますが、人間の地位というのは、ある一人の人間を基準に不等式を連続させてつくるものだとの言説があります。

Aさん>自分

という一つの関係を、まず作ります。

Aさんが、Bさんと話すのを聞く見る知る。その有様から、

Aさん<Bさん

とつくる。

で、もしも、もしも、誰かと直接話す前にこういう不等式をつくってしまい、自分よりも上であると判断した場合、もう、その人と対等な関係は築けない道理になります。

へりくだって、でてきゃならない。

転校経験が多いひとは、クラス内の地位関係をできるだけ素早く理解する必要性ゆえに、こういう思考フレームが無意識的につくられてしまう。

こういう人間の性格を、世間では、卑屈といいます。

僕のことではないとは思いますが、もしこういう人がいたのならば、しみじみ不幸だなと思います。

 

で、大学に入ったので、もはやアニメを軽んじる道理はありません。

アニメをたくさん見てやろう、とこう決めました。

大学でたくさん友達つくるぞ、本をたくさん読むぞ、留学するぞ、とかいうほとんどすべての新入生が抱くであろう熱望と相違ありません。

 

そういうわけで、アマゾンプライムだのレンタルだので、入学以降、わりあい多くのアニメを見てきました。

それらのアニメについて、批評したいなと思います。