唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

自殺について

殺人は悪である、という命題は、絶対的に真である。

もはやこの命題は、人間が群れることで生存しているが故に、公理である。

公理は、ある学問を成立させるため、証明不要で定義される命題である。

例えば、ユークリッド幾何学であれば、平行でない直線を延長すれば必ず交わる、というようなものなど。

これを否定するということは、それを公理として存在しているものを、全て否定することになる。

だから、人間の存在を定義するための公理である、殺人は悪であるという命題は、絶対的に真でなければならない。

 

さて、この命題を仮に殺人悪公理とする。

この公理は、殺人が善であるとされた場合、人間の存在やら社会の存在やらが脅かされることになるが故に、定められたものである。

道でばったり会った赤の他人に発砲したり、ナイフを刺したり、これが当たり前の世界ならば、社会の発展は望めない。

 

ところで、自殺はどうであろうか。

自らが自らを殺すことは悪であろうか。

これは、殺人悪公理に含意されるものであろうか。

 

僕の見解は、含意される。

だが、遵守は強制されない。

否、強制させること能わず、なのである。

 

人間は利己的である。

するな、と命じるだけでは、人間に命令を遵守させることは難しい。

罪と罰が必要である。

何が罪かを決めて、罪を犯した人間には罰を与える。

 

この殺人悪公理に関しても同様である。

国家権力は、他殺を罪と定め罰を用意している。

いうまでもなく、法律である。

法律は他殺に対しての抑止力である。

ある程度、効果があるようである。

罪と罰がきちりと決められていれば、これは悪なのだという認識も促進されていく。

 

さて、自殺について。

自殺は、法律の守備範囲外である。

法律は、人格に対して罰を与えるが、その人格がもうこの世にないのであれば、その人格に対して罰を与えることができない。

罪の認定に関しても、当然、罪の認定は罪を犯した事後になされるものであるから、自殺を行なった時点でこの世にいない人間に罪の認定はできない。

 

これ故に、自殺は形而上悪であると定義できるが、形而下つまり社会においては、悪であると定義できない。

形而下における悪の定義は、罪と罰によってなされるからである。

 

社会から自殺は悪であるからやめなさいと強制されることはない以上、自殺がどれだけ形而上悪であると示されても、説得力に欠ける。

また、形而上悪であると示すことについても、他殺が形而下の罪と罰から援護射撃を受けているのに対して、自殺はなんら援護がないことからしても、説得力が弱まる。

(そもそも、人を殺すことが悪であることを論理的に示そうとすれば、どうしても社会だの人類だのを持ち出した相対的な証明にならざるを得ず、絶対的な自我に対する説得性は弱いのである。)

 

ところが、この世の罰で抑止できない自殺を、あの世の罰で抑止することはできる。

宗教である。

宗教によって、もしこの世で神の許可も得ずに自殺なんかしたら、ひどい目にあうぞと警告を受ければ、これは強い抑止である。

一つの条件付きで。

 

いうまでもない、信仰心である。

この抑止力は、信仰心の強さに比例する。

信仰心のないものに、この抑止力はなんら効果を持たないことは明らかだ。

 

科学。

テクノロジー。

日本人の無宗教的な傾向。

 

私たちが生きる日本には、環境的に、自殺を抑止するものがないように思える。

しかも、ここに、個人主義だの発達した知性だの苦痛だの孤独だのが追加された日には、自殺を防ぐのは難しい。

日本の自殺者数が多いことは周知の通り(毎年2万人)であるが、なるほど頷ける気がする。

 

だが、諸君。

あきらめては、いけない。

 

もう、宗教でも意思の格率でもなんでもいい。

自殺は悪だ自殺は悪だ、また、生きねばならぬ生きねばならぬと、信仰すること。

信じるものは、救われる

 

 

注;加筆の余地、多いにあり