唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

ペンについて2 大学生はどうあるべきか的発想から

当然、先の僕の論理はふざけたものである。

自分の成績の悪さをペンのせいにするのだから、どこぞのお偉いさん方の責任のなすりつけあいよりもはるかに汚いものだと思う。

50m走のタイムの悪さを、いやあ今日は調子が悪くてねとか、いやあスターダッシュミスったなあ、などと変な微笑を浮かべながら、尋ねもせぬのに言い訳してくる男の子と、同じ匂いを感じる。

 

だけれども、ピレネーの地図*1のごとく、過程はおかしくとも結果オーライということになったのだ。

 

最近、某大物YouTuberが、自分の仕事道具は最高級のものを使いたい、そうすることでモチベーションも上がるから、みたいなことを言っておられた。

それを聞いて僕は、正しい地図はこういうことだったのだ、と思った。

 

小学生でも中学生でも高校生でも大学生でも、彼らの本業は勉強である。

部活も遊びも大切だが、学生と称する限りやはり、各人がどれだけ勉強を重視するかに差はあれど、学業から逃れることができないという点で、本業は勉強である。

 

その勉強に使う道具に徹底的にこだわったのなら、内側からモチベーションがみなぎってくることは、自明なことにも思われる。

 

新しいバットやグラブ、ラケットを買った時のあの恍惚感は、もっとうまくなってやろう、という強い意志を誘う。

できればいいものを使いたい、そして自己向上に励みたい、と思うのは人間の性であるように思われる。

であるから、僕が中学時代以降ずっとペンにこだわり続けてきたことも、正解だったのだろうと思う。

 

さて、高校までの学業の目的は次の学校へ進学する際できるだけ高い位置で進学すること、であったと思う。

偏差値をあげなければ、成績を上げなければ、内申点を上げなければという、学生諸君の悲痛な叫びは、自らの学力的地位の維持や向上の外的な要求によって、吐かせらしめられたものだと思う。

 

他人よりも優れてなければならない、こういう言説が自覚の有無を問わず、やはり頭の上に振りかけられていたのではないかと思う。*2

 

だが、大学に進学したとなれば、もはや成績は人間を測る物差し*3としての任を解かれ、奨学金だの留学だのの審査として使われるようになったことに、気づいた。

中学高校時代は模試の偏差値だの高校内の順位だのにこだわっていたのに、大学に入った後は、人がどれだけGPAが高かろうと知ったこっちゃない、また自分のGPAだってどうだっていい、単位さえ取れれば、というような人が多いように思う。

 

要約するに、中学高校時代の勉強と、大学での勉強は、性質が変化したということになる。

とすれば、従って、学生の本業たる学業のあり方も変わってくる。

 

とまあ、こんなことは、どこに行ってもどこの本を読んでも、例えば「大学とは何か」的な本にでも、「大学生活を有効に活用しよう!」的なセミナーでもよく言われる話である。

ここからが、僕独自の妙味である。

 

つまり、ペンのあり方も変わらなくてはならない。

これまでのペンの美徳は、いかに使用している人の成績を上昇せしめることができるかであったが、これからのペンの美徳は、いかに使用している人を楽しませることができるかである。

効率から娯楽への変異。

つづく。

 

 

*1:遭難者が偶然見つけた地図に従って奇跡的に下山できたが、実は下山に使った地図が別の山の地図だったという話。

*2:頭がいいねとか、優等生とか、そういう単語が存在すること自体が、価値観を浮き上がらせているのではないか。また、校内順位を成績表にのせたり、成績上位者を掲示したり、模試では全国偏差値を太い黒字で書いてみたりすることは、学業が一種の人間を測る尺度として用いられているように思われる。

*3:当然、社会を運用していく以上、人間を何らかの形で評価し順位付けすることが必要となる。この必要性については、僕は認める。いわば、「エリート」をどう定義するか、という問題である。エリートを血筋や武力で決めるよりも、やはりこうした学力で測る方がより「公正」であるようには思われる。しかし、ここでいう学力は、学問ができるかできないかとは必ずしも一致しないことは、よく言われることではある。