唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

日大タックル問題と情念と学問とについて

世の中には、そりゃ差別だろ、偏見だろ、時代遅れだろ、と思わせる現象がたくさんある。

ツイッターなんか見ていると、一日に10回くらいそんな気持ちになる。

最近だと、日本大学のタックル問題がえらく騒がれている。

メジャーの海堂高校編にそんな話があったが、まさか現実に起きるとは思わなんだ、というのが正直な感想である。

一昨日、吾郎の100マイルを、大谷選手が更新し現実に吾郎を超える野球選手が出るとは思わなんだ、と思ったばかりである。

事実は小説よりも奇なり。

 

さて、僕はこの日本大学のタックルシーンを見たとき、正直、極めて腹が立った。

怒り、である。

この選手に対する怒り。

ルールを破った、否、それ以上にスポーツマンシップに泥を塗ったくったことに対する怒り。

 

さらに、この選手の行為がコーチや監督の指示だったと推測されうることを知って、さらに怒りが増した。

ふざけるな。

とっちゃん坊や*1が許されてたまるものか。

同じ大学生として、怒りはますますに大きくなる一方である。

 

そして、記者会見である。

選手の記者会見はとても素晴らしい。

対して、大学側の記者会見は一体なんなのだ。

質問させないとか、評判は落ちないとか、無礼千万である。

これは、もう、許されざる行為、日本の恥、平成の汚点である。

「日大アメフト部、これからもあると思っているなんて、ありえない」というツイートを見て、自分でも説明できぬ微笑を浮かべたのである。

 

 

で、である。

さて、ここまで僕が感じたこと、そして考えたことは、思考と言えるのか、という問題を書いてみようと思う。

この日本大学に関する流れるツイートには、なるほどその通りだと思えるような論理的な考えを綴ったものやら、これは日本の全ての問題点を浮かび上がらせる重要な問題である、というようなものまでたくさんある。

そして、また、この問題を知った人たちは、自分なりに考えるところがあると思う。

 

基本的に、こういう、原初において怒りや同情などの情念に囚われた後に生じる思考は、思考と呼ぶに値しないのである。

情念にかられて生じる思考は、情念を正当化するために、情念によって生じせしめられた、いわば情念の装飾品のようなものである。

そして、情念にかられた人間は、奴隷であると言われる。

「〇〇である」という命題が正しいくないといかんのだ! という情念が(この場合は、タックルは卑怯だとか、日本大学はだめだ、という命題)生じてしまった後の思考には、バイアスがかかる。

それを主観的だという。

感情的だという。

 

そして、情念にかられて、どこか外国からコムズカシイ理論を持ってたり、偉いおじさんの言葉を引いてきたりして、正当化してみせる論証行為をしたくなる。

そして、さらに、仲間を集め、行動がしたくなる。

それだけでは飽き足らず、自らの問題意識と、その情念由来の論証結果を、「発信」し、仲間を支持者を増やそうとする。

これを、正義だとか善だとか抜かす人をたまに見かけるのだから、驚きである。

 

「感情的な主義主張の何が悪いのか、結果として物事が正されるのだからいいではないか。」

感情的な一面を強く含む主義主張は、共感を呼びやすい。

フェイクニュースが話題である。拡散されやすいのである。

だが、やはりよくないのだ。

なぜなら、そこにあるのは、大衆迎合の匂いであって、主観優先の倒錯したエゴイズムであって、正義も善も考慮されていないからである。

 

数学的な命題ならば、論理、という唯一無二の手段でもって、真偽を明らかにできる。

そうでない命題は、一体どのようにして真偽明らかにすべきか、それが問われているのである。

感情や多数決や情念にかられた思考で、真偽が決されてはならない、と僕は思う。

 

法律に関する問題は、その道の専門家に聞くべし。

医学に関する問題は、その道の専門家に聞くべし。

これは、同意されると思う。

民事訴訟を八百屋に頼む阿呆も、病気の判定をコンビニの店員に頼む阿呆も、いないと思う。

 

だが、道徳に関する問題は、どうか。

専門家はいるのか?

いない、と思われている。

いたとしても、大衆の中には、道徳的判断は自らの思考に基づいてやって良いというエゴイズム的な考え方が、大きくある。

そして、その考えは、SNSの広がりとともに、増しつつある。

 

あらゆる社会的な問題に対して、自分の思うがまま、主観に感情に情念に基づいて、好き勝手に意見する、そしてその正しさを主張する。

いやそれは違うと、喧々諤々、匿名同士素人同士の、「議論」。

論破がしたいのか?

それじゃあ、ソフィストじゃないか。

 

道徳に関する問題は、その道の専門家に聞くべし。

そして、道徳は、医学や法律などとは違って、自ら判断しなければならない場面が多々出てくるから、やはり専門家から学ぶべきだ、と思う。

 

つまり、正義とは何か、善とは何か、正しいとは、悪とは何か。

その判断の、方法を学ぶことこそ、僕のようなぺーぺーヒヨッコ大学生のすべきことのように、この日本大学の問題を見ていて思った。

間違いない、軽視することが絶賛流行中の文系的学問の使命は、ここにある。

 

情念を退け、主観ではなく客観的に、物事の善悪を判断する力。

学問、というやつか、と思った、という話です。

*1:メジャー、江頭のこと