唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

ヒカル氏新事業と、学歴と、自由とについて

学歴と能力の関係性について、しばしば、議論になる。

ユーチューブのコメント欄だのツイッターだのを見ていると、やれ勉強ができてなんになる、やれ勉強しかできない真面目だ、やれ学歴コンプレックスを正当化するだ、だの、喧々諤々、様々な議論が繰り広げられている。

で、こんな動画を見た。

なにやら、高卒で成功するための、一つの選択肢を、こしらえてやりたい、のだそう。

就活イベントを、YouTuberの影響力を使って行うようだ。

 

この動画のコメント欄が、非常に面白い。

学歴と、能力や成功不成功の関係性について、色々と面白いコメントがある。

 

僕は、いわゆる地方旧帝国大学に通うものである。

だから、謙遜なしに言えば、学歴を持つ側の人間である、ということになる。

もちろん、入学試験を通過するために、高校時代、それ相応の努力と時間を、受験勉強に割かざるを得なかった。

 

確かに、彼のいう通り、高校時代に、自分の「夢」や「職業」について考えた上で、学歴を取りに行ったのかと言えば、そうではないし、

多分、僕と同じ立場にあった同級の学生も皆、同じだったろうと思う。

 

僕はいわゆる「進学校」に通っていたから、難しい大学に入る、ということが、無条件に目標となっていた。

学歴の目標化に伴い、人の価値を決める尺度として成績が、置かれる。

 

これが、僕の置かれた「環境」である。

先生も設備も教科書や授業も、学歴の獲得という目標にとって、非常に恵まれたものだった。

 

 

彼がターゲットとするのは、当時の僕のような恵まれた環境にある高校生ではない。

進学校に通っているが成績が尺度として機能「させられている」状況に対して反感を持つ人たち、また、進学校ではないいわゆる「普通」の高校に通う、若者である。

彼らは、勉強なんてものの他に、もっと大切なものがあるのではないか、と思っている。

そして、「外部にある尺度的に」価値が低いと、見なされている、あるいは、見なされるだろう、という事実に対して、抗おうとする。

 

そして、その抵抗は、「価値」を持てる人からすると次のように見える。

「勉強といういわば学生の義務、人間の義務から目を背け、そして、義務をうまくこなすことのできない事実を、環境のせいにしたり、世間のせいにして、自らを正当化している。」

 

抵抗者からすれば、そのような言論は、もう、全く意味を持たないように見える。

「そうやって、勉強によって測られる価値基準である学歴を、絶対的なものとして、そし持てるものとして、たいした根拠もないくせして、守ろうとしている。

そうやって、あなたたちは、自分たちの価値基準が、脅かされることを恐れている。

私たちが、不条理な価値基準によって、不当に虐げられていることを、私たちの能力のせいにして、逆に優遇されているあなたたちの存在を正当化しているに過ぎない。」

 

はっきりと、一言で断言してしまえば、このような対立は、持てるものと、持たぬものとの、対立、つまりは、ブルジョアジープロレタリアートとの対立とと同じもののように見える。

 

学歴がない人たちは、学歴を持つ人たちの無能さと、学歴という既成の価値基準を、全く不当なものとして、非難する。そして、それらを打ち倒そうとする。

逆に持てる人たちは、なんとかして自分たちの価値基準を守ろうとする。

 

「(学歴大事だ、と非難する人たちの一部の人たちは)単純の学歴社会でなくなることを恐れているんですよね。だって勉強しかできないんだから、そういう人たちは。勉強しかできないから、勉強以外のところで評価されたら、勝てないから。だから否定的になっちゃうんですよね。」

 

国家的な評価、という点において、学歴はある程度の力を持ってきたし、これからも疑い無く持ってくるだろうと思う。

なぜなら、国家が人の優劣を判断せねばならぬ状況(国家公務員試験等)において、家系や身体的な力、財力を基準とすることは、あまりに愚であることは、歴史的にも認識されてきたことだ。

そして、現状、人の能力をもっとも平等にそしてある程度の数値的な確実性を持って評価できるのは、学歴の他ない。

 

問題は、私企業における評価、という点である。

彼が問題を提起し、切り込んでいる場所は、ここである。

どういう人間が、一企業が利益を上げる、会社を発展させるという観点で、高く評価されるべきか。

また、どういう人間になれば、より高い社会的地位すなわち、高収入と高待遇を得ることができるのか。

学歴だろうか。

 

僕にはわからない。

僕は学生であって、社会人になったことがないからだ。

けれど、学歴である、と断言できそうにない。

学歴の他にも、色々な要素があるような気がしている、そしてその要素が何かはわからないけれども。

 

そして、その要素の一つとして彼は、「努力」「ストイック」「行動力」をあげている。

確かに、この要素は、学歴との因果関係はなさそうである。

 

で、企業にとって優秀な人材とは、努力してくれる、行動してくれる、ストイックになれる若者であることは、多分、当たっているだろうと思う。

就活問答集やエントリーシートの書き方をありがたくも享受してくれる本を、立ち読みしてみたのである。

頑張る、行動、学ぶ、懸命に、努力、御社のために。

 

確かに、こういう能力は、別に大学で勉強することでしか身につかないとか、大学で身につけることがもっとも効果的だ、とは言えない。

大学に行くくらいなら、どっかの企業にインターンに行ったり、プチ起業したり、社会奉仕活動したり、ブログしたり、アフィリエイトしたり、海外を旅したり、した方が、間違いなく稀少性もあるし、得られるものも大きいだろうと思う。

無理に進学するよりも若いうちに就職して、キャリアを積む。

そして、成功する。

彼のしようとしていることは、確かに的を射ていると、僕は思う。

なるほど、学歴よりも経験だ。

 

しかし、である。

動画のタイトルは、Be free である。

これは、自由といえようか。

これが、彼の動画に対する違和感である。

 

自由になる、とは、社会的に成功して、お金をたくさん稼いで、やりたいことをなんでもやってやる、ということか。

そういうことになる、と言う人は、自由の一側面しか見えていない。

身体的な自由、金銭的な自由、行動的な自由。

確かに、これは得ることができている。

だが、精神的な自由、は得ることができているのか。

 

企業から社会から高い評価をえて、お金をたくさん稼いで、悦に浸っても、精神的に自由であるとは言えまい。

まして、彼の言ったこと、やっていることに、おおこれはいいその通りだ参加しよう行動しよう、と高らかに唱えながら、言うがままに行動することに、なんの精神的な自由があろうか。

仮にそれが、身体的金銭的行動的な自由が得られるものであったとしても、僕はいやである。

 

これは、学歴以前の問題である、人間として、何がもっとも大切か。

僕は、間違いなく、精神的な自由と言う。

これがない人間は、どんなものを得たとしても、「幸福」とは言えないのではないか。

 

だから、僕は、彼の言っていることは正しいのだが、しかし、動画のタイトルは、Be free ではなく、Be richにすべきだったと思う。

だが、そうすると、どこか胡散臭いセミナー臭がしてくるから、Freeにしたのだろうか。

要するに、この動画は、学歴なしでお金持ちになるための選択肢を一つ拵えようという趣旨だったのだろうと思う。

 

 

最後に、学歴について。

彼が学歴を持ってそして自分の言説に対して非難を加える相手を、「敵」として提示していることは、ある種の大衆迎合的な側面が見えることをまず断っておかねばなるまい。

マルクス主義者が、ヒトラーが、まず明確に敵を定義*1し、そして自分を味方だとしたことは、やっている内容が正しいかそうでないかに関わらずに、大衆を動かすと言う戦略上、非常に賢いことである。

 

そして、学歴について、彼はなにか持っても仕方のないもの、したがって勉強もやっても仕方のないことにように言っている。

獲得する意味を、勉強する意味を、見出せないのなら、とこう言う。

学歴に関しては、別に確かに、僕もそうたいそうな意義を見出せるわけでもない。

だが、得ずに損することはあるが、得て損することはない、これは明瞭である。

だったら、取りに行こうと思う。

 

そして、勉強する意味については、先にも言ったように、精神的な自由を得ると言う点に、大きな意味があると思う。

精神的自由は、会社から社会から、高く買われることはない。

なぜならベつに、利益につながることはないから。

なんなら、ある種、会社や国家の奴隷になってもらった方が、利益的に都合がいい。

 

だが、僕は奴隷はいやなんである。

間違いには、否と言えるように、そう思えるようにならねばならぬ。

間違いを間違いだと認識できない状態を、精神的奴隷状態にあると言わねばならない。

そして、その間違いかどうでないかの基準は、利益における適合性などではなく、「道理」に寄らねばならない。

道理を得るために学ぶのである。

 

*1:それと、彼の言説、私に非難をするものは非難をしたその時点で間違っているのだから、取るに足らない、という論理は、マルクス主義者のそれと同様である。つまり、プロレタリアートの自由やら共産主義やらに対して批判をするものはその時点で、ブルジョアジーの価値観に染まっており、何とかしてと取り除かねばならぬし間違いであることは揺るがない、というそれ。誤りだ、ということを、誤りだとしてしまうと、もはや議論にならぬ。議論は、相手をやっつけるものだ、と勘違いしている人がしばしば使う、論理である。こういう人と話すのは、基本的に時間の無駄である、なぜならそんな論理を振り回す人の人柄は、自分と相反するものを問答無用で拒絶する、器の小さな人間だからだ、真の人間はまた真の議論というものは、自分と相手との立場の相違をしっかりと理解した上で両者の間に化学反応を起こし、新しいものを見出すことであるのに、とある人は言っていた。