唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

洗脳について

世の中をよくしたい、間違っている(と私が思う)ことや人を正しい場所に戻してやりたい、人間はさあるべし、世の中はかくあるべし。
気持ちはとてもわかるし、自らの信念(必ずしも正しくある必要はない)に基づいて、様々な行動をする人々は、素晴らしいと、変に上から目線になってしまうが、思う。
善悪など人為的なものに過ぎないなどとニヤニヤしながら得意げに主張する懐疑論者は脇に置くとして、もし世の中の事象が善と悪に二元されるとするならば、善をなすべきである。

そうして、善をなす以前に大切なことは、善と悪とを判断することである。
そのためには、判断基準が必要である。
世の中には、この判断基準を広めようとする人々がたくさんいる。

宗教、哲学、文学、科学、企業、国家、マスメディア。

日頃目にするあらゆるものには、見えないようで、善と悪のステレオタイプが隠れているように思える。
判断基準を支配すること、これを洗脳という。
善と悪との基準を他者に依存する傾向がある人間が、しばしばかかるという精神的疾患。

僕は大学生である。
大学に通っていても、善と悪との判断基準を植え付けようとする人々がたくさんいるし、そういうことを志向した情報やら要求やら発言やらが、結構ある。

大学の先生、サークル、部活動、留学センターなど、いたって正常だと見なされているものと、カルト宗教や胡散臭いセミナー、インチキ商法など一般的に忌避すべきものとされているものとの志向するものは、結局のところ、どこかで判断基準の提供という点において、同じであると思う。
意図的か結果的か、また、世間から認められているかそうでないか、結局はこの違いしかないと言える。
物事を判断する基準を、どこかから僕らは輸入しているのではないだろうか。

輸入する際に、選択肢を提示されたか。
貿易商は、一つの商品だけを提示しているのではないか。
自らの商店にお客を囲い込み、その中にある品物だけを見せつけてはいまいか。
圧力の大きさの差はあるにせよ、どんな団体にも、その傾向は必ずある。

例えば、コメについて。
コメをもしも国内で生産せずに全て米だけに米国から輸入しているとしよう。
どうなるか。
米国から米の輸入が途絶えてしまったり、質の悪い米が輸入されてしまうようになった場合、どうなるか。

困る。大変困る。
もう、あんたの国にはコメを輸入しないぞ!と脅されてしまうと、まずい。
こちらはへりくだって、アメリカさんどうかお米を輸入させてください、とへこへこ頼むしかない。

アメリカさん、こうなりゃこちらのもんだとて、じゃあこういうことをしなさい、となる。
依存しすぎると困ったことになるよね、といういわゆる安全保障の点から食料自給率が低いのは困る、と言われるのはこういう事態を避けなければならぬからである。

コメがないと生きていけない。
もしもコメを自分でつくることができないのならば、つくりかたを教えてもらわなくてはならない。
コメをもらうのではなくて、コメの作り方を教えてもらいたい。
「ま、そんなに焦りなさんな。一緒に米のつくりかたを、仲間と一緒に勉強しようぜ、楽しみながら。豊かな大学生活とともに、米のつくりかたまで教えてもらえる場所に連れていってあげるよ。」

結局のところ、コメを自分でつくることを諦めて人から輸入しようとする人間が集まる場所ができてしまうことは、事実であるし大学内にもそういう場所はある。
そしてまた、往往にして彼らにはその自覚はない。

一緒にコメのつくりかたを勉強しましょう、などとの口実のもとで、楽しくワイワイ米の作り方を研究したり講義を受けたり実践したり議論したりする。
で、彼らは果たして、コメをつくれるようになっているかどうか、疑問である。
コメをみんなで共同でつくる、ということばかりに集中しすぎた結果、自分一人でコメを作れない事実に気がつかず、依存を深める。

結果的に、大人になっても老人になっても、コメをどこかから輸入し続けることになる。

社会のため、正義のため、困っている人を助けるため、将来のため。
非常に耳当たりのいい言葉だけれども、そういうことを他人からああだこうだと指図を受けたり、みんなで一緒に考えて行こう、という姿勢にはどこか価値観の植え付けという側面が見えるように思われる。
そして、それは社会から認められていようとなかろうと、集団的に何かイイことをなす空間と集団には必ず存在するのではなかろうか。

イイこと、ワルイことを決めるのは、集団でも教義でも哲学でも思想でもない。
たった一人の自分自身である。
内側の自分自身によらずに、外側のなにかベンリな手段を利用することで導かれた価値判断は、洗脳と一般であると言わざるを得ないのではあるまいか。

自分自身をつくる際に、なるほど外側にあるモノの影響を受けることは確かではある。
この影響をいかにして自分自身の支配下に置くか、ということが大きな問題になる。
集団セミナーや討論会、勉強会として、集団で行う行為から受ける影響を支配することは容易ではない。
ましてや、集団合宿だの集団生活だの仲間だのの極めて感情的になりがちな関係性を絡めた影響力を、理性によって支配することは困難極まる。

問題。どのようにして自分自身の理性を、影響力を発する対象に対して優位におくか。
→僕の思うに、本や動画、いずれにせよ一人でその対象に触れることができるものが望ましい。
一方的な講義はしばしば閉鎖的だと非難されるけれども、この点においてやけに先生が問いかけてくる対話式の講義よりも、開かれていると言えそう。

洗脳から逃れることは難しい。
例えば、僕の目の前にローマ法王がいらっしゃったとする、そしてお話をしたとする。
多分、僕はキリスト教の教えに感激して、深い信仰を注ぐようになると思う。
また、偉いお坊さんが目の前にいらっしゃったとする、そして説法を受けたとする。
やはり今度は、仏教の素晴らしさに魅了されるだろう。
イスラム教、ヒンドゥー教にせよしかり。
オウム真理教ですら、そうだと思う。

けれども、これら全ては、感情的な側面が多分に占める。
理性の働きではない。

理性を働かせることなしに、自分自身の価値基準をつくることは、危険である。
そしてこれを、言葉が含むイメージを取り除いた上で洗脳と定義できるのではないか。

 

結論。
理性は洗脳の天敵である。
洗脳は価値観形成の天敵である。