唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

人とヒトの人生論

人はなぜ生きるのか。
どう生きるべきか。
正しさとは何か。悪とは何か。
善く生きるには何をなすべきか。

このような問いを立てるとき、問いの立案者にして対象者である「私」をヒトではなく人とみなしている。
動物とは違う、神の似せ絵としてのあるいは畜生とは次元を画した知的生命体としての人間として、自分自身についてあるいは世界について思考している。
人生、とはとどのつまり、動物として生きるのではなくて人間として生きる行為の意味を含蓄している。
正義、道徳、善悪、感情、努力、地位、義理、正直、美徳。
こうした概念は全て、人為的である。
動物としてではなく人間として考え出した言葉遊びに使うカードみたいなものだ。

 理性やら精神やら知性やらのあり方を考察して、ああだこうだと古代から意気揚々として議論され、書物として残されてきた。
古代ギリシアの悲劇は、神的なものや自然的なものを、人為的なものと対置し運命の悲惨さを嘆き歌う。
神に捧げられた物語、人々を導くための教訓。詩。

ソクラテスが始めた哲学は、人はどう生きるべきか、善なる道を提示しようと考察を重ねる。
思想に思想を積み重ね、ヘーゲル的な歴史観で見てみれば、いわゆる弁証法的な発展がなされてきた。
それは思想という一枚の板をよくよく観察し汚れている部分に絵の具を塗って綺麗にしていく作業のようなものだった。
時には、板の大半を塗り替えてしまうパラダイムシフト的な思想を打ち出すものさえいた。

時代を重ねるにつれて、思想は磨きに磨きを重ね、綺麗なものにあるいはその時代にあったものへと変わっていき、今書店に並ぶ書物には、この時代を正しく善く生きるための知恵が詰まっているのである。
哲学、思想は、人々を善く導く先導者である。

 

と思っていたのだが、それは一つの前提のもとに成り立つのだと気付いた。
私たちが人である、という命題が真である前提のもとに。
人、つまり動物とは一線を画した知的生命体でなければ、思考は正当化され得ないのではないか、そんなことを考えてしまう。

多分、私たちは人のふりをしたヒトだ。
所詮は、獣に過ぎないのではないか。
何か動物的衝動にかられ自制を失って変にいやらしい目つきをして突進する獣、という意味ではなくて、地球上に存在するスズメやカブトムシ、マグロやイノシシなど他の動物となんら変わることのない存在に過ぎないのではないか。

差別化されるとすれば、それは言語という道具を有しているというそのただ一点においてのみではあるまいか。

人は所詮、猿人が進化したホモサピエンスに過ぎない。
生存戦略上、様々な道を辿り至った先に言語があった、思考があった、道徳があった。
だから、人が生み出したあらゆる概念は所詮、種の保存における生存戦略上の生産物に過ぎない。
正義は種の保存のために好都合だから、道徳は種の保存のために好都合だから、宗教は種の保存のために好都合だから、こう切り込んでしまえばあらゆる哲学的な概念や問いは消滅してしまうのではないか。

とどのつまり、私たちがいかに生きるべきかと悩んでより善い生き方をなそうとすることは動物としていかに私という種を維持保存するのかと悩んでいることと相違はない。

結局のところ、善く生きるなんていうソクラテスの言葉はヒトを人と錯覚した妄言でしかないし、人生大事なのは富よりも道徳だという言葉は道徳的な行いをなすことで他者からの賞賛を得ることで自己保存をなそうという意図の体現でしかなく、富よりも学問が人を人たらしめるという近代知識人の主張はもうヒトであることからの逃避行動の最たるものである。
つまり、社会とは自然界であり、自然界は弱肉強食という名の自然選択と自然淘汰の場所であり、それをヒトがヒトの中でなすのだと考えると、いかにして明日の飯にありつくか、ただこの一点に問題は収束する。

ここから、大きな問題が生じる。
「自殺」の問題である。
日本において一年間での死亡者数を調べてみると、自殺は20000人、他殺は300人、交通事故が7000人。
ちなみに、全世界でのテロでの死者数は年間多い時で3万人、だいたい2万5000人で推移している。
2016年は26000人だった。

総理やら大統領やらがテロ廃絶のために種々様々な、時に怪しげな法律を半ば強引に可決し、テロ対策国民の安心安全と叫んでいるけれど、総理、この小さな島国の平和そうに見える街の片隅で毎年、テロで殺される人を世界中で足し合わせた数と同じ区内の人間が死んでいる。
それも、自ら好んでそうしている。

なぜ、これが社会問題化しない*1のか。
僕は不思議でならない。
彼らはヒトとして死んだのか、人として死んだのか、これが問題だ。
進化論に基づく唯物論によって人は殺されヒトとなる、とか。

*1:ひょっとして、自殺対策よりもテロ対策の方が権力者にとって都合の良いことだから、じゃないだろうかなんて邪推するのは、きっと愚かなことでしょう。