唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

純文学を読んでみてわかったこと1 漱石全集と私

僕は大学に入ってから小説を読み始めました。
中高時代、全く小説を読んでこなかったのです。
教科書に載っている小説、例えば「つまり君はそういうやつなんだな」や「君は我が友李徴ではないか」や「ごん。お前だったのか」といった国民的小説ならば授業を通して読んできましたが、そのほかの小説は読んでいませんでした。
強いていうなら、シャーロックホームズシリーズとかいけつゾロリシリーズ、怪談レストランシリーズならば全部読みましたが、それだけです。

そんな僕が大学に入ってちょっとしたエリート意識が目覚めたのか、あるいは劣等感かわかりませんが、いったい何を勘違いしたのか、純文学を読もうと意気込んで夏目漱石全集を読み始めたのです。
最初に手に取った漱石本は『吾輩は猫である』でした。
日本人ならばその名を知らぬ者はいないほどの超有名小説です。
図書館の窓際のよく日の当たる席に腰を落ち着けて、陽気な昼下がりに読み始めました。
入学したてのある春の日のことでした。

忘れもしません、24ページ読んで、それから一向に進みませんでした。
眠くて眠くて仕方がないのです。
とめどない漢語の弾丸をしきりに浴びている気分でした。
話そのものも、何ら動きがありません。
ただおじさんが出てきてああだこうだ話をしたり、お出かけしたりするだけです。
この後どうなるのだろうという手に汗握る展開にはならないのです。

今読んでいるこの一文はとても難解で意味がぼやけている、その上その先物語がどう転がっていくのだろうとワクワクすることもありません。
これは、眠らない方がおかしいです。

僕は諦めようかなと思いました。
漱石は難しいのだ、しかもつまらないのだ、そう割り切ってこれからの人生を一歩ずつ歩んでいこう、そう決心しかけたその瞬間、堪え難い知的な劣等感が僕を襲いました。
漱石はこんなことを言っているが、君、読んだことあるかい?え?ないの?吾輩は猫であるさえ読んでいないくせにこんな論文じみた文章を偉そうに綴って僕の前に放ってニヤニヤしているわけだ。これは学術に対する叛逆だ。」
こんな風にバカにされる様子が眼に浮かぶようでした。
僕が入学した大学はとても偏差値が高く、頭の良い人たちが全国から集まってくるらしいよと聞いていたので、古今東西の古典文学に精通した学生がたくさんいるのだろうと考えていました。

当時の僕は人からバカにされることに非常に強い嫌悪感を抱いていたので、「教養」として純文学の嗜みを身につけて大学の講義を受けようと、メラメラ燃えてきて、分厚い漱石全集を三冊借りて帰宅して、その日以降毎日1時間ほど眠気で閉じかけるまぶたを懸命に手で擦りつつ、読み進めていきました。

図書館で第二巻まで読み進めました。三ヶ月ほどかかりました。
それから、僕は書斎を持たないと大学生としてどうなんだ、知的にいきなければいけないのだぞ、などと考えるようになり、本棚に漱石全集を並べて悦に浸ろうと考え、岩波文庫から出ている漱石全集を、大学生協大人買いしました。
店員さんは、びっくりしたような目をこちらに向けて、ただ一言嬉しそうに「ありがとうございます!」と二度繰り返していました。

そこから、また初めから漱石全集を読み始めました。
吾輩は猫である三四郎、野分、虞美人草、とどしどし進めていき、最後のそれからを読み終えるまで、だいたい二ヶ月ほどだったと思います。
暇さえあればマットレスを窓際の日のよく当たる場所に敷いて、そこに寝っ転がって読み進めました。

気づいたことは、読み慣れていけば眠く無くなるということです。
漱石が使う言葉は大変幅が広く語彙が豊富ではありますが、やはり癖というか繰り返し使われる言葉がたくさんあります。
漢語にも慣れてきます。
最初は眠くて仕方がなかった漱石本も、次第に眠気を跳ね返すことができるようになり、数時間ぶっ続けで読むことができるようになりました。

読書は慣れだ、とはこういうことなのだと思いました。

漱石本を読んでよかったか。
僕は正直、特段よかったとは思いません。
何か身についたか、と聞かれれば、僕は何も身につかなかったと答えるでしょう。
本を読めば語彙が豊富になるとか、文章がうまくなるとか、会話がうまくなるとか巷で噂されているようですけれども、僕はそのような効果があるのか疑問です。
文章がうまくなるとは、二種類の要素に分解することができて、一つは語彙力、もう一つは構造力だと思います。

この二つの要素を、漱石本を読む前と読んだ後の僕の文章力に当てはめて見ても、さほど変わらないと思います。
語彙に関して、ここまで読んできたからならばわかると思いますが、漱石が使うような難しい漢語は一つとして使っていませんし、使えもしません。語彙力は書くという観点から見れば変化はないようです。
構造力という点に関して、僕はこの文章は最初に起承転結を考えて書き始めたわけではなく、ただ一つの「漱石本と純文学」というテーマから、様々な話題を派出させて、樹形図のようにつらつらと文字を綴ってきたに過ぎません。
どこで締めるか、それすら僕は今この時点においてさえも決めていませんし考えていません。
今この場で締めてしまうこともできます。

そういうわけで構造力に関しても上がっていないようです。
かくして僕が漱石本から得たものは、文章力ではありません。

また、巷ではこうも言われます。
人間力が上がるのだ、人生観が広くなる、人間としての幅が広くなる、などと。
これは言えているかもしれません。
例えば、漱石の小説の中には男女が駆け落ちしたり、友人の恋人を奪ったり、人間としての外見ばかりを取り繕った結果発狂して死んだりする話があります。
そうした話は、僕はこれまで体験がありませんでしたし、友達や両親から聞いたりすることはありませんでした。
これからも多分、ないでしょう。
自分が体験できない人生をシュミレーティングできたと思います。

人生シュミレーションという点で、漱石が書いた小説ひとつひとつは人を育むと言えると思います。

 

だが、それは小説の利点であって、漱石本ひいては純文学の利点ではなかろうと最近思い始めました。
別にライトノベルでもファンタジー物でもSFでも映画でもアニメでもなんでもいいのではないか。
読みやすい文章で書かれた小説の方が、また音と映像でよりビジュアルチックなものの方がいいのではないか、と思い始めました。

つづく