唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

コメがきれても、生きる意味

自意識と優越感。
自分は特別な存在なのだ、と思うこと。
他人は劣っているのだ、と思うこと。
肥大化した自尊心。
誰でも人は、心のうちに虎を飼っているという。

昨日、コメがきれた。
お金がないときに限って、コメや醤油、みりんや酒、塩、砂糖はきれる。
正直に言えば、塩もきれている。
コメがきれたらご飯が炊けない、ご飯が炊けなければ主食がない。

パンやパスタも優れたエネルギー源ではあるけれど、僕は十九年間米で育ってきたから米が食べたい。
炊きたてホカホカの白ご飯に、興奮しない日本人は多分、いない。

夜の9時、歩いて近くのスーパーマーケットに行って米5kg1980円を買う。
帰宅して、米の袋をハサミで切って米びつに入れる。
ざー、という快音が寂しい下宿のワンルームに響く。

コメをさっと研いで炊飯ジャーに入れる。
炊けるまで35分、風呂に入って、服を着て、キッチンに立って、野菜を切ったり肉を切ったり、料理をつくる。

ちょっと遅めの夕食を自炊する。
鳥モモ肉と白ネギと白菜と大根のスープ。
だし巻き卵。
そして、炊きたてのご飯。

ダイニングテーブルにきちんと並べて、手を合わせていただきます。
うまそうに湯気をあげる白ご飯を見ながら、考えた。

 

コメ5kg、何粒あるのか。
グーグルで調べてみると、1kgあたり5万粒。
5kgで25万粒。
愛知県の人口は752万人。
米袋、約30袋分。

日本の人口は1億2千万人。
米袋、約480袋分。

世界の人口は76億人だから、米袋36480袋分。

で、僕はそのうちの米粒一粒にすぎない。
どうして、その米粒一粒が、特別な才能をもっていようか。
そういえばさっき、米袋一袋注ぐとき、四粒くらい落とした気がする。

優越感、自尊心。
井の中の蛙どころか、米袋のコメ一粒。

非凡とは何か。
そんなものあるのか。

 

ご飯を口にかきこみながら、米粒に色を塗ることを考えた。
名前をつけてもいい。
このコメ一粒は、ジョン。
これは、ポール。
こいつは、純。

これを実存主義という。
実存は本質に先立つ。
違う気がする。

 

今週の講義は、幸せとはなんぞや、という内容が三個くらいあった。
哲学者のT先生は、幸せは人によりけりと言った。
けれど僕は、T先生が本の中で生きる意味、そんなものない、と言っているのを知っている。
幸せを追い求めることこそが人生の意味です、とは言っていない、先生はただ概念分析をしたにすぎない。

人生の意味について、なぜ生きるのか、また私という存在は他者と比べて優れているのか、と悩む人は多いし、一生悩み続ける人もいるのだろうと思う。
かくいう自分も、その一人だろうと思う。
高校生の時、大学一年生の時、その悩みがある種の穴となりそこが弱みとなり、人や物が付け入る隙を与えてしまったことも多分ある。
それは、自己防衛上、大変危なっかしいことだ。
アヤシイ宗教や洗脳はその穴から入り込む。

で、結局、人生とは何かを含む哲学的問いの束を背中に背負い込んで、ここ数ヶ月くらい怪しげな哲学書や文学書を読むことになった。
特に、西洋哲学史に関する書物は、十冊以上読んだ。
ソクラテスドストエフスキー漱石太宰治など、いわゆる人生について語る人たちの本をつまみ読みした。

結局、それらの書物はある種の言葉の力に説得を頼っている点が大きかった。
いわゆる文系的な説得方法をとるそれらの解答例は、科学的な思考を素養として身につけ(させられ)た無宗教な僕のような典型的日本人型の現代人には、どうも弱々しかった。

見つからない答えを探して放浪を続けるのは辛いことだ。
で、ようやくある種の答えを本に見つけた。
納得のいく答え。
それは、このT先生の『哲学入門』だった。
ひたすら唯物論的に哲学をやる。
哲学は概念工学であるという。

そして、これは授業でも感じたことだが、T先生は二つの両極端をそれぞれ考察しそれぞれが誤りであることを示し、その真ん中を答えとして提示する、そして答えとして提示された部分についてさらに両極端を提示して...というふうに、中庸をとってさらに中庸をとってと、極めてわかりやすく議論をするように感じた。
あるいは、二つの集合についてそれぞれ考察して、その両集合の積集合をうまいこととる、みたく。
どこまでも無機質で科学的だなと感じさせる本だった。

 

結論。生きる意味、そんなものはない。
詳しくは、T先生の『哲学入門』を。
筑摩新書の『哲学入門』の書評でした。