唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

椎名林檎の美しさについて

美しさといっても、二つあると僕は思う。
第一は、酸性的な美しさ。第二は、アルカリ性的な美しさ。

酸性もアルカリ性も、皮膚に付着すると、皮膚を溶かしてとても痛い。
理科の先生は、こんなことを言っていた。

「酸性もアルカリ性も、とても危ないことには変わりはありませんが、今回使うアルカリ性の薬品は、特に注意して使わなければなりませんよ。
先週使った、酸性の塩酸が皮膚についても、皮膚の表面を溶かすだけなのですが、今回使うアルカリ性の薬品は、皮膚に付着すると、皮膚の内部に染み渡って、内側へと侵食していくのです。」

要するに、酸性の薬品は皮膚の表面を溶かすに過ぎないのだけれど、アルカリ性の薬品は、皮膚の内部にまで入り込んでいき、内側からも肉と皮膚を溶かしていくのだという。

 

で、例えば、とても可愛い女の人を目にしたとしよう。
「あらまあ、美人だなあ」と思うわけではあるが、その美人の感じ方には二つある、という話がしたいのである。
酸性的な美人。
この人は、例えば、街を歩いているとやけに足をむき出しにして歩いて、お化粧を綺麗に載せて、高価そうな服を身にまとっていて、見る人を魅了する。

先刻、僕は近くのスーパーマーケットに、夜食の握り寿司を買いに行ったのだけれど、その際、月明かりの薄暗い夜の街道で一人の若い綺麗な女の人とすれ違った。
裾丈が少しだけ長くてゆるやかなスカートに、紺の七分袖をラフに着こなして、少しだけ香水の香りを漂わせていた。
こういう女の人は、酸性的な美人である。

アルカリ性的な美人。
これは、服装や体型などの要素から美しさを推論するのではなくて、一目見た瞬間に、美の印象を抱かせしめ、かつ、そのあとにどうして自分が美の印象を持ったのか説明がつかないような人のこと。
いわゆる、一目惚れと言われる現象もこれと近いものではなかろうか、と思う。
僕の場合の、アルカリ性的な美人の例と言えば、よく知られた人物だと、椎名林檎が当てはまる。

それは、高校二年生の期末試験のテスト勉強に、嫌気がさしてスマートホンを手にとってユーチューブに逃避していた時の出来事だ。
なんともなしに、おすすめ動画に出てきた「椎名林檎」の文字がえらく気になったのである。
高校の古典の先生が、こんなことを口走ったからだと思う。
「今どきの高校生はどんな音楽を聴くんですかねぇ。私の場合だと、中島みゆきとか、よく聴きますね。やっぱり、AKBですか?キミ、やけに嬉しそうですね?(先頭の男子生徒を先生が見て言った。クラス一同、小さく笑う。)
えぇ?ポニーテールとシュシュですか?私でも知ってますよ。(クラス一同、大きく笑う)
椎名林檎も私は聴きますね、でも、椎名林檎はなんというか、ちょっと、ジャンルが違いますからね」

ジャンルが違う、一体どういう意味で言ったのだろう、という疑問が僕の好奇心をくすぐった 、再生して見る。
確か、この動画だったと記憶している。

えらい美人だ、と思った。
そのあとは、もう、深夜までずっと、彼女の歌をひたすら再生し続けた。
ハマったのである、その日以降、テスト勉強ほったらかして、彼女のロックン・ロールを聴きまくった。

うまく説明できないのだが、椎名林檎の美しさは、可愛さではないし、媚びる態度でもないし、キャーキャー熱狂的になるかっこよさでもないし、また人生経験豊富さでもない。
けれど、それらを全て含んでいるような気もする。

実際に見てもらうのが一番良い気はするが、彼女の美しさは、PVによって大きく異なる。
時期によっても異なる。

例えば、これと

これとでは、

年代が違うこともあるけれど、印象は全く異なる。
どちらが本当だ、ということもなく、両方とも、美しさの一側面を表現していると思う。

 

人はみんな美しくなけりゃダメだ、可愛くなけりゃダメだ、かっこよくなきゃダメだ、という気はさらさらないし、
また、美しきなくてもいい、可愛くなくてもいい、かっこよくなくてもいい、などという気はそれ以上にない。

そういう言説は往往にして、可愛い人間やカッコいい人間を否定することによって、そうでない自分のアイデンティティを創り上げる、一種の嫉妬であるからである。
非自己を否定することによって自己を肯定する一種の背理法的思考を嫉妬と呼ぶのである。
非自己を嫌い、自己を愛する嫌悪とはまるで、違う。

醜いよりも美しい方がいいに決まっている。
不細工よりも可愛い方がいいに決まっている。
ダサいよりもかっこいい方がいいに決まっている。
あえて醜くなりたい、不細工になりたい、ダサくなりたい、などという人はいないと思う。

けれども、美しさや可愛さ、かっこよさにも色々あると思う。
顔やスタイルや服装や匂いだけがその基準ではない。

僕は文系だからあまりよくわからないけれど、酸はH+イオンを放出することでものを溶かす、アルカリはOH-イオンを放出することでものを溶かす。
同じ「ものを溶かす」と言っても、溶かすという点で同じに見えるけれど、よくその元をたどれば、違うメカニズムが見える。
世の中の現象や概念には、このように、同じなのだが実は違う、けれど同じと言ってもたいした実利上の損害はないから同じと言っておこう、というものがたくさんあるような気がする。

あらゆるものは、イコールで繋げることができるのだ、という一種の因果律至上主義的な思考回路が人類のうちで共有されたのは、ある種の啓蒙活動の大きな成果であることは間違いないし、それが文明を大きく進歩させてきたことは皆認めるところではある。
けれど、僕は、その因と果の間に存在する等号をよく検討することこそが、非常に重要だと思う。
そして、重要というのは、そうすることで利益が得られるとか文明をさらに発達させるという意味での、つまりは利益的発想に基づくものではないのだが、ある種のこうした哲学的な、ややもすると文系的思弁的だと否定されがちな価値観をこそ、いわゆる理系的・合理的思考にメスを入れることのできる大きな武器足りうるのではないだろうかと思う。

 

容易に、価値だとか、正しいとか、悪だ、というような言葉を使うけれど、実際その言葉が意味する概念の守備範囲がいかに広いものであるかを理解していない人が多すぎる気がする。
それは、一種の便利な道具として言葉を捉えて、利用している、思考運動のアンフェアプレーとも取れる。
ファール、イエローカード、レッドカード、ソフィスト

 

なんの話をしていたのだろう。
えらく脱線して、乗る電車を間違えて、目的地とは違う駅についてしまった気分である。
そもそも発車駅は、本当は、シモーヌ・ヴェイユの美しさについて書こうと思って、キーボードを叩き始めたのだけれども、どういうわけか椎名林檎について書いてしまったから、ヴェイユはまたの機会にとっておこうと思う。