唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

強さとエネルギー

「正しいことを強くすることができないから、私たちは強いことを正しいことにしました。」

 勝てば官軍負ければ賊軍、強者の権利とはよく言ったものです。
わざわざ、資本主義の市場原理だの自由主義だのをもち出すまでもなく、確かに、勝てば正義であることは、疑いようのないことかもしれません。

一つのものを、二人の者が同時に所有することはできない。
一人が一つを所有するのなら、他方は所有することができない。
所有するものは勝者であり、所有できぬものは敗者である。

こんなことを誰か言っていた気がします。
そうして、これがものであったり、金であったりする場合は、そこに生じる争いは確かに、力を持つ者が勝利することでしょう。
貴重なものは高い金を積めば、所有しやすくなるでしょうし、強い政治力や軍事力を所有する方が要求を通しやすくできるでしょう。

こうした、ある一つのものをめぐる争いが、文明や社会を大きく進歩させてきたことは疑いようもないことだとは思います。
産業革命以後、あるいは、資本主義の成立以降の人類の、産業的なあるいは時保有情報量的な進歩は、目を見張るものがあります。
人間の活動に必要なものは、エネルギーではないかと僕は思います。
エネルギーは、時に金でありましょうし、情報でもありましょうし、人材でもありましょうし、時間でもありましょう。
エネルギーをなんらかの現象につぎ込むことで、所有物を増やしていく。
勝者はさらなる勝利を目指して自らの所有するものを大きくしようとエネルギーを生産するでしょうし、敗者は負けた悔しさから自らを卑下しこれではいかんとエネルギーを生産するでしょう。

そしてそのエネルギーは、正の方向から来るもの、もしくは、負の方向から来るものです。
どちらの方向からエネルギーがやってこようとも、エネルギーの意義は、力に変換されるところにあるのですから、その質がとやかく言われることはないわけです。
だから、ある物事が、負のエネルギーによって動かされていようと、正のエネルギーによって動かされていようと、勝敗に影響を与えるのは動いた大きさであるので、一向に関係がないということになるのです。

人間として強いか弱いかは所有する顕在的あるいは潜在的なエネルギーの保有量にあると言っても構わないでしょう。
そして、人間を判断する尺度はエネルギーの色ではなくて、大きさになってしまう。
どんな色のエネルギーを持っているか、などということは、エネルギーの意義がものをどれだけ動かすことができるかにあるわけですから、考慮されないわけです。

そして、その抽象的なエネルギーという概念をより便利に斟酌する手段として、数量的な値があるいは分類がなされます。
偏差値、学歴、資格、テスト、年収、服装、フォロワー。

そうした人を無機質的に審査判断する行為に対して、人間の尊厳だとか自由だとか人格だとかいう、なんだか尤もらしくて耳障りのいい言葉を使って批判する動きが、近頃増えているように思います。
つまり、学歴が全てじゃないよね、とか、人の価値は決して数字で表される偏差値的なフィルターで測れるわけがないよね、とか。
そうした批判は的を射ているような気がします。

それは、単なる敗者が勝者に対しての遠吠えのように聞こえるかもしれないけれど(それは一理ある)、そうした言説を勝者の側が使うとき、暴力へと変貌することを理解すべきなのかもしれません。
ある価値判断の基準において劣等的な立場に置かれた人間に対して、優越する人間が与える光は、お釈迦様が垂らす蜘蛛の糸などではなくて、巧妙に仕組まれた虚構なのではないか、と僕は思ってしまうのです。

エネルギーが小さな人間は、エネルギーの色を大切にしようぜ! と叫ぶ。
否、エネルギーの大きさが大きな人間よってそうさせられている。
エネルギーの色と大きさは別の次元の問題なのに、その両者をごっちゃにした倒錯した議論をしていることに、彼らは気づいていないのではないだろうか、と。
つまり、現状社会において、審査判断の基準として必然的に採用されているのは、エネルギーの大きさであって、色は判断基準として採用されてはいない。
このことに気がつかないで、エネルギーの大きさという価値基準を、尤もらしく批判するための便利なツールとして、エネルギーの色が持ち出されてしまった。

 「正しいことを強くすることができないから、私たちは強いことを正しいことにしました。」
弱者が世の中の不条理を涙ながらに叫びながら、「こんな世の中おかしいじゃないか...」と強者にしがみついた、そんな時に強者が少しだけ悲しい表情を浮かべながらに、口にした言い訳のようにも聞こえます。