唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

議論における「私」の不在

「話題が私に関わらない議論になんら価値を認めない。」

その通りかもしれません。
居酒屋なんかでよくおじさん方がなさる議論として、「最近の若いもんは...」とは「今の日本は...」とか「将来の我が社の命運は...」とかいう議論のことを言うのでしょう。

僕らは日夜を問わず、何かを考えながら生きています。
考える対象はほとんどの時間、自分の視覚で捉えた情報や聴覚で捉えた情報ではないかと思います。
電車に乗って、座席のあき具合を見て、どこに座ろうか考える。
座って、吊り広告を眺めて、またあいつスキャンダラス、と考える。

いずれも「私」が体験(身体で経験)した情報、もしくはそこに関連する場所が思考の対象となっていると思います。
ある一点の情報から、蜘蛛が巣を張っていくように、連想し、さらに連想してと、思考の網を紡いでいく。

 

集団で思考をする行為が議論だと僕は思います。
二者以上の集団で行われる思考が、議論であるし、または講義でもある。
そこに価値があるか否かを見極める判断基準があればいいのに、と思っています。
議論の射程は果たしてどれほどの範囲なのか。
熱い議論を戦わせると言っても、どこまでの範囲の議題であれば有益とみなしうるのか。

議論というと席に座って礼儀正しく行うものだという印象を受けるものですが、デモや市民集会等も立派な議論だと思います。
要するに、集団で思考を共有する行為は、すべからく議論ではないか、と思うのです。
ある議論に価値があるかを判別することは、ある集団に価値があるかを判断する上で、因果関係ほどとは言いませんけれど、一つの検討材料になりそうです。

そうした議論は、ある目的のためになされるものを指すのであって、娯楽のためになされるものはその範疇に入りません。
友人との会話や家族との会話に、目的や利益やらを含み出したその瞬間、その関係は果たして健全なものなのか、という強い疑念が生まれそうです。

社会集団における集団的思考、すなわち議論において、価値があるか否かを判断する基準として、「私」という概念が含まれているかどうか、があると僕は思います。
つまり、「私」を含まない集団的な思考にはなんら価値を見出すことが僕にはできません。
そうした「私」が集団によって蒸発させられてしまった議論は、ある種の「集団主義」に陥っているのではないでしょうか。

ナチズムや大日本帝国について考えてみればわかりやすいかと思います。
国のために、あるいは祖国の伝統と文化のために、身を捧げ、懸命に生きることはなるほど、美しいことかもしれません、正しいことかもしれません。
けれど、そこに「私」という要素が入っているから、美しくなりうるし正しくなりうるのではにないか。
「私」という要素が集団によって奪われた議論になんの価値を「私」が見出すことができるのでしょうか。

(社会を知らない一大学生がいうなんて笑っちゃうけれど)社会にしても同じではないでしょうか。
お客様のため、社会のため、会社のために懸命に働く。残業する。余暇を捧げる。
とても美しいことかもしれませんし、正しいことかもしれませんし。やりがいあるものかもしれません。
けれど、そこに「私」がいないのに、どうして「私」が美しさや正しさややりがいを認めることができるのでしょうか。

 

何か大きな理想のため、例えば「平和」や「平等」や「正義」などのために、もうこちらが恥ずかしくなってしまうほど燃え上がることが悪いことだとは思いません。
そうした理想に燃える熱狂的な集団が、世間から非難され中傷されている現状があることも確かです。
僕は彼らに対して、間違っているとは、実は思いません。
けれどそこに僕は違和感を感じてしまう。
なぜか。
そこに「私」が不在だからだと思います。
「私」を主張することは一種の傲慢チキな態度であると見なされがちで、謙遜が美徳だとされています。
謙遜は確かに素晴らしい美徳ですが、謙遜という社会的な道徳の陰に隠れて、「私」という個性の不在を隠している人が多くいるのではないか、と思ってしまいます。
そうした個性の不在こそが、実は問題の根底にあるのではないだろうか、と。

理想や集団のための「私」であることは、堕落、なのではないでしょうか。
「私」のための理想や集団であるとき初めて、そこに意義があると言えるのではないでしょうか。

そんなことを、きっと以下の言葉は言いたいのだろう、と思いました。議論のよりは大いにあるでしょうけれど。
「話題が私に関わらない議論になんら価値を認めない。」