唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

いないはずの鑑賞者

舞台にしろ教壇にしろ、どちらでも構わないけれど、人前に立って発表したり技を披露することが、たまにあると思います。
最近、僕は授業でプレゼンをする機会がありました。

人前に立つと自分の表情や体の動きや姿勢や言葉遣いなのに、注意が向けられ、緊張したり、あるいは慣れている人であれば洗練されたものになるかと思います。
慣れた人、慣れぬ人に共通することは、人前に立つことはある種の緊張状態を精神に生じせしめる、ということかと思います。

人前で何かすることは基本的には楽しいことだと思います。
「自分」を人前で表現することはある種の自己肯定感や承認欲求を満たすことになるからです。
社会的動物として、人間は人から見られることで自らの存在を、自らに対して証明しているのではないか、などと考えてしまいます。
だから、人は友達を作りたいと思うし、どこかの組織に属したいと思うのではないか、と。

だから、自分の前にいる人間の数がだんだんと少なくなっていくことはとても悲しいことなのではないでしょうか。
一人、また一人と消えていくことに、人は多分耐えることができないのではないか。
そして誰もいなくなった暁に待つものは、孤独の二文字に着地する。
孤独の場所には全くの緊張感がない、ある種の安心感があるかもしれないけれど、その安心感を通り越した先に待つものは、とてつもなく大きな虚無感ではないか、と。
家にずうっと引きこもると最初のうちは苦しみから逃れるという安心感に浸って、一時的な幸福感が生じるけれど、一日、二日と一人でいると、どことなく荒んだ気持ちになって、最終的には虚無感の渦に吸い込まれて行ってしまうのではないでしょうか。

そうして、人はまた、人前で自己表現することを望む。
その自己表現は、単なる行為ではなく、人生全体を指すのかもしれない。
すなわち、どこぞの悲劇作者が言ったように、人生は舞台であって、それぞれが入場し、演技し、退場していく、と。
演技とは、すなわち、社会的に生きることである、ということではないか。

演技をするには当然、鑑賞者がいなくては成り立ちません。
そしてその鑑賞者は、ある一定の数と質が担保されている必要があります。
数というのは、個人差があるかもしれませんが、できるだけたくさんの鑑賞者に自分の演技を見てもらいたい、という欲求が反映されたものでしょう。
ですから、この数というのは、実際に鑑賞をしているというか否かの客観的な事実というよりも、演技者が見てくれていると感じる数、すなわち主観的な事実のことになりそうです。

また、質というものが、いちばんの問題なのではないでしょうか。
例えば、猿が100匹見ている中でどんなに素晴らしい演技をしたとしても、そこに満足感もやりがいも生じ得ないでしょう。
それと同じように、演技をするものが、鑑賞者はどれくらいのレベルを保証すべきか、という基準を規定している。
そしてその基準は、演技のレベルに関わらずに設定されてしまう。
どれだけ稚拙なまずい演技をする役者であっても、できるだけレベルの高い人に鑑賞を要求するという、ある種のギャップが生じてしまう。
この時、その役者の演技はとてつもなく苦しいものになる。

自分の演技が稚拙なのにも関わらずに、レベルの高い鑑賞者を求めて、現在の鑑賞者に対して不満を垂れ流すことになってしまう。
不満を垂れ流された鑑賞者は、当然、たまったものじゃありませんから、彼の元を去っていくでしょう。
稚拙な演技を、誰もいなくなった劇場で続けざるを得なくなった役者の虚しさは、形容できるものではないと思います。

最も問題なのは、演技を測る基準が一定ではないということ。
簡単に点数化することができない。
つまり客観的な指標を欠いているから、主観的な指標が通用してしまう。
いくら人が君の演技は下手くそだと指摘されたとしても、当の役者は、いや俺の演技は最高だ、といくらでも弁明ができてしまうし、指摘する側としても数量的な批判ができないから、説得が非常に困難だときている。

そうやって自分の鑑賞者がだんだんと減っていく問題に対して、なんら対抗策を考えないで、いやもはや自らを正当化してしまう。
その時、役者は自分の殻に閉じこもってしまい、さらに自己正当化の過程の中で、殻を厚くしていく。

最後。
役者は気がつく。
とてつもなく強固な殻に閉じこもっている自分の演技は、稚拙か上手か以前に、誰も見ていないのだという根本的な事実に。
すなわち、演技を成立させるのは鑑賞者の存在である、と。

葛藤。
自分の演技が正しいか、鑑賞者の判断が正しいか。
前者の固執した時、存在の正当化と否定という相反する力の作用と反作用とが、存在の消滅をもたらす。
後者を取った時、存在の否定と肯定という相反する作用と反作用とが、存在を否定することによって延命させ続け得る残酷な結末。

救済。
いないはずの鑑賞者を見出すこと。
それはある種の信仰であって、なんとか教という特定の宗教に固執しない、普遍的なものに対する憧れの強化。

信仰は人を救う、などとよく言われますけれど、それはどういうことだろう、と考えてみました、という話です。