唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

ノイズの洗浄について

受信したい情報、シグナルがあるとしましょう。
受信機を使って、シグナルを受け取るわけです。
自分が欲しい情報をつまりはシグナルをできるだけ純粋な形で受信できるのなら、これに越したことはありません。

けれど、シグナルには必ず、ノイズが生じます。
単純なシグナルならば特段気になりはしませんけれど、複雑で大きなシグナルを受信する際には大きなノイズが生じます。
受信したシグナルから、自分の欲しい情報を取り出すためには、混在したノイズを取り除く一種の作業をする必要が出てきます。

ノイズを取り出す作業にはある種のエネルギーが必要になってくる。
それは人間でいうところの身体的なカロリーかもしれませんし、もしくは精神的なエネルギーなのかもしれませんし、電力やスキルといった非物質的なものかもしれません。

ノイズと聞くと、割合的に小さなものだろうという印象を抱くかもしれませんが、往往にして、いえ、ほとんどの場合、実はノイズの方が得たい情報よりも大きくて複雑で、むしろ霧に包まれた早朝の濁った景色のように、ノイズが情報を覆い隠しているのです。
だから、情報を得たいのならばノイズを、多大なエネルギーを消費して取り除かなければならない。

そして最も大切なことなのですが、ノイズを受信すること、ノイズを除去するときには、とてつもなく大きな苦痛を生じる。
聞きたくもないもの、見たくもないもの、知りたくもないことを強制的に、脳みその中に直接にぶち込むのですから、もはや入れられたくないものを強制的に入れられる苦痛が生じるわけです。
当然ではあります、それがノイズです。
そして、ノイズを当然取り除こうというわけですが、ノイズを取り除くのはデジタル機器が器用にやるようにはうまくいきません。
辛い思い出や悲しい過去を忘れることができず、思いがけないタイミングで想起されるのと同じように、べっとりと脳内のフィルターにこべりついてしまう。

冷房や扇風機を洗うようには汚れはうまく流れてはくれません。
そうしたノイズに脳内、いえもっと言えば心の中に、べちょべちょの汚れが散乱しカビが生えて異臭を放つ状態こそが、巷でいうところの精神衰弱であったり、うつ病であったりするわけです。

だからこそ、ウィーナーよろしくサイバネティクス的な情報処理機構の洗浄のために、休息が必要になるというわけです。
さて、どのようにして、ノイズという汚れにまみれた脳みそ、あるいは心を洗浄するのか。

古来より、そうした方法は多くの人々の手により探られ、そして実践されてきました。
芸術であります。
芸術とは、情念を整えて形にしたものだとしばしば言われますけれど、それはある種の心の中の汚れを綺麗な形にして、具現化したものであるとも言えましょう。
汚れを綺麗な形にするからこそ、そこに美が認められるというわけです。

芸術家は芸術という行為によって心の洗浄をしてきた。
芸術作品を心の中に取り込むことで、まるで洗剤をつかって汚れた布切れをもみ洗いするかのように、心の汚れが綺麗に流れ落ちていくという。
それは、アイステレスに言わせると、カタルシスなのでしょう。

芸術を名乗るのならばそこには心のノイズが存在しなければならぬ、つまり、芸術とは心の汚れた人間がやる必死の生命活動が結晶化したものである、というのでしょうか。
ニコニコ笑顔、年が年中、幸福な人間にとても芸術なのできるはずがないのではないか。
つまり、生命活動においてノイズを溜め込んでしまうような繊細なフィルターを持ってしまった人間の必死な叫びこそが、芸術というのでしょうか。

魔法少女まどかマギカというアニメがあります。
そこでは、魔法少女の精神を一つの宝石にして具現化します。
その宝石が真っ黒に汚れてしまったとき、魔法少女は死んでしまう。
だからこそ彼女たちは、宝石を浄化し続けなければならない。
ただしその浄化には、他の人間を犠牲にしなければならないという一種の悲しみの構造を有している。