唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

多分四月、日記のような似非小説

毎週二記事、更新することにしているのだけれど、近頃はひどく不愉快な心持ちなので、書く気にならない。
それでも我慢して、無理やり書こうと、キーボードを乱暴に叩いてはみるけれど、恐ろしく反社会的な作物ばかりが成ってしまって仕方がない。
そこで、僕のパソコンのマイドキュメントファイルを漁ってみると、日記のような小説が発掘された。
これを、記事として載せることにした。

 

泳いで逃げる夢から覚めると、うんと背伸びをした。時計を見るととうに十時を回っていた。三日前、よし俺は今日から健康的で節度ある生活を送るのだと決意を新たにしたばかりであったのにもかかわらず、遅寝遅起きご飯抜きをやってのけるのだから大したものだと自身を皮肉る。
近頃の若者には厳しさ、この言葉が足りないのだと「学生の生き方」なる本で読んだのである。気がつけば、あまりに長いものだと予想した春休みももう後半に差し掛かっていた。あと二週間もすれば大学が始まる。始まる時分はあまりに長すぎやしないかとやや不満を抱いたものの、いざ終わりの足音がカツリカツリ聞こえてくると、名残惜しいものである。
第一、せっかく長い休みをもらえるのだ、来年再来年は就活があるのだから、ゆっくりと過ごせるのは今年くらいだろうと考えて、いろいろな計画を練っていたことをも忘れ、なんの制約を受けないやわらかい日々の上に寝っ転がって、だらりだらりと過ごしていたのである。先に述べた通り、節度ある生活をしようと決断するも二日間しか続かなかったところを見ると、三日坊主の名にふさわしい心がけである。
だから、ううんと背を伸ばして、布団をばさりとたたみ、顔を洗って鏡を見ると、鼻や口、頰は怠惰の色がしっかりと認められた。
けれども、目を見てみると怒りの色で満ち満ちていた。
今日はなにか一つ面白いことをしよう、と決心してさあ何をしようかと、小さな正方形のダイニングテーブルに載ったパソコンをいじくり始めた。やはり映画に限るな。おやアカデミー賞受賞作品が栄の映画館で公開中だ。こうして、the shape of waterを見ることが決まった。上映開始が十五時十五分、時計を見ると十三時だったから、ちょうどいい少しばかり書見をしてから家を出れば、いい頃合いに栄に着くだろう。彼は、『彼岸過迄』を読み始めた。三十分ほど書中に没入した。彼は手早く準備を済ませて、栄に向かった。

彼が栄に着いたのは映画上映時間の一時間ほど前であった。余裕、彼はこの言葉を頭の中で繰り返し繰り返し唱える。こいつを失っては人間ではない。ブーブーうるさいクラクションを鳴らす車の運転席に目をやれば、そこには必ず眉間にしわを寄せた不機嫌そうな顔がある。余裕がないのだ。時間に支配されているのである。
人間を人間たらしめているのは余裕であり、余裕は人ならざる存在と人との間にある緩衝材なのである。こいつを失えば、怒りや憎しみ、時間や他人、我ならざる存在に我が乗っ取られてしまう。こういう信条をもつ彼は、常にゆっくりと歩くし、点滅した信号を認めれば足を必ず止める。講義開始のチャイムがなっても、彼は走る同会生を横目に歩いて講義室へ向かう。
余裕の信条を胸に彼は、やはりのんびり歩いていた。歩きながらこう考えた。果たして、優れた作品は喜劇なのだろうか悲劇なのだろうか。映画だの小説だのドラマだの物語が今この瞬間にも生まれ、味わわれている。愉快な人物やキャラクターを展開して人を楽しませる、ドキュメンタリーチックに仕上げなんらかのメッセージを伝える、男と女が色気全開に交わり官能を刺激する、こんな風になんらかの目的があって作られる物語は明快で、マトがきちんとあるからよほどおかしなことにならない限り、期待を外されることはない。
だが、物語を「美しい」ものにしよう、つまり芸術にしようとすれば、話は別である。美しいとはなんぞや、この問いがいかに多くの人間を呪ってきたことか。美しいとはイデアである、いや美しいとは経験の束である、いやいや。とても俺には答えを導くことのできない高尚な問いであるな、彼は考えるのをやめようとした。
ここまで考えた褒美であろうか、彼に一つのひらめきが舞い降りた。物語は喜劇と悲劇に分類でき、俺の知る限り悲劇の方が時間の淘汰をくぐり抜けやすい、と。考えてみたまえ、ギリシャ悲劇その内容は知らずともその存在は多くの人が知っているし、シェイクスピアを知らない人などいない。だが、世界三大喜劇を存じる人はいるだろうか、ギリシャ喜劇を知る人はいるだっろうか。俺は知らない。ちょっと立ち止まり、スマホをポッケから出し、世界三大悲劇を検索して見ると三大悲劇詩人アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスと出た。続けて世界三大喜劇作家を検索して見ると、世界三大喜劇王としてチャップリン、ロイド、キートンがでた。悲劇は古代、喜劇は近代、もはや疑う余地なく人間の知性の発達上、悲劇が先に出ていることがわかる。人間の核に近い物語は、悲劇なのだな、つまり悲劇こそ美しい物語なのだな、こう勝手に推論した彼はエウレカエウレカ心のうちに叫びながら、それでも余裕を持ちながら、栄のきらびやかな街を悠々と闊歩した。

三越、パルコ南館、ちょっと曲がってヨドバシカメラ、信号渡ってやっとこさパルコ東館に着いた。パルコ八階センチェリシネマは大小二つのホールをもつ比較的小規模な映画館である。平日ということもあり、客もそう多くはない。バラバラとまばらに散って、お客さん方は、ひどく長い脚のついた椅子に腰を掛け、映画館併設のカフェで買ったコーヒーやらマフィンやらをのんびりいじりながら味わっていた。
彼は手早にチケットを買って、そのうち一つの椅子に腰掛けて、そこいらを見渡してみた。あたりの壁には映画予告のポスターが貼ってある。一つ席を隔てて横に座っている女は同じ大学生であろうか、スマホを弄りながら、開場を待っているようだ。薄くも暖かい黄色い光に照らされてテカテカ光った黒い髪、後ろ手に一つ結んだ束の先端、黒くて長いトレンチコートにあたっている。一人でしっぽり映画を観に来るような女性には好感が持てるな、などと考えていると会場を告げる声がした。

整理券を渡し、劇場に入る。スクリーン全体がよく見える程度に後ろへ、そして中央あたりの席に腰をかけると、その斜め横にさっきの女が座った。女はコートを脱いで、隣の席にたたんで置くと、その上にトートバッグを静かに置いた。ちょっと腰掛けて、バッグの中を探ってスマホをとって、再びいじり始めた。画面が見える。(斜め前しかも劇場は薄暗いから見えるのは仕方がないのである。)スクリーンと赤い椅子の腰掛け部分がちょっとだけ映るようにして、ぱしゃりと音はしなかったが、撮ったようである。見ると、インスタグラムであった。なるほど、「一人映画なう」などと投稿する算段だろう、そしてこう思ってもらいたいのだ。彼女は一人で映画を見る孤高な女性なのだ、こんな女性になら好感を持てる、と。

ブザーがなって例のごとく予告編と商業広告が流れる。予告はまだいい、映画の雰囲気を醸成してくれるから。けれど、商業広告はぜひやめていただきたい、せっかく非日常のハレの雰囲気をじっくり味わおうとしているのに、いやらしい音と光で日常を叩きつけられてしまう。こんな場所にまで広告を出そうと考える企業も、こんな場所にまで広告を入れようとしている劇場もすべからず余裕がないものだ、余裕さえあればきっと美しくなろうに。果たして、映画は始まった。みおわった感想を一言で言えば、悲劇であった。性やら肉体やら差別やら醜いものをぐるりぐるりとかき混ぜて、我々にこう問うてきた。人間とはなんぞや?

映画館を出たのは六時十分前であった。悲劇、この言葉が離れなかった。彼は無性に劇、特に悲劇を見たくなった。すかさず検索して見ると、運の良いことに栄の愛知県芸術文化センターにて、ソポクレスの『オイディプス王』が七時からやることになっているという。六時から当日チケットと整理券を配布するらしいが、急がなければならないが、彼は余裕という言葉を忘れはしなかった。やはり、暮れからる太陽の方を向かって、人が逆光で美しく映える、背の高い女のトレンチコートがふわりふわりと待って綺麗な影を醸し出す。悠々と闊歩し、さて劇場に着いた。すでに大勢の先客がいる。赤い絨毯が敷き詰められた会場前の広いホールでガヤガヤ大勢さんがたがしゃべっていた。チケットを買い、整理券とパンフレットを受け取り、ホールの大勢さんの一員となった。やがて会場し、劇場の中へ入る。白いミストが薄く会場を覆っていた。すくなくとも白いミストは喜劇には合わないな、と思いつつ、やはり映画館と同じ中央後方あたりに腰を下ろした。座席は前に七列ほど、後ろに五列ほどある。人が入るやいなや、前方部分の席を取り合った。ガランとした雰囲気が、人がぎゅうぎゅうわいわい言いながら入るにつれて、窮屈な格好になっていく。そちら空いていますか?そちら一つ詰めていただけます?おお、こっちだ早く来い。いろいろな声が会場を包む。彼はその会場全体の様子を後方から俯瞰しながら、ふうとため息とも深呼吸ともつかぬ中途半端な吐息を漏らした。


しばらくしてオイディプス王が始まった。民衆、災難の神、家来、老人、女、王、あれやこれやうろうろしながら劇は進む。オイディプス王の衣装のした、肩のあたりに白いシャツのような服がのぞいていた。シャツではなかろうが、シャツだったら面白い、彼は自分のセーターのしたから少し飛び出して顔を出す白いシャツを、そっとセーターの下にたたみ隠した。それにしてもよくもあんな声が出せるものだ、よくもまあ表情を変えることができるものだ、俺だったら演じている自分を演じながら想像してしまいぷぷと吹き出してしまうこと、請け合いだろう。わざわざ劇に出なくとも、生きているだけでぷぷと噴き出してしまうくらいのものだ。俺は俺、ではない。俺は誰かの仮面を被って誰かのふりをしている俺なんだから。「この世は一つの劇場、人は皆役者に過ぎぬ。入場し退場する。」とシェイクスピアは言ったけれども、役者が役者を演じたなら劇場の中に劇場があることになってしまいはしないか。こんなことを考えながら、劇を鑑賞した。終わった感想は一言、悲劇だ。


劇場を出て、夜の栄、名高きタワーと宇宙船を見る。そこいらを見て見ると、女女、男女、仲良く芝生に座って談笑している。女も男も、ほおに綺麗な紅色を落としている。楽しさは何も考えさせない、考えなくとも楽しさは味わえるのだ。むしろむやみやたらに考えてしまうと、楽しさは目減りしてしまう。楽しいジェットコースターに乗りながら、このコースターの構造はこうで速さは何キロメートルでなどと考えれば、どうなるか考えて見てほしい。笑っている人を見て、こいつはここのこの部分をこういう理由で笑っていやがるな、なら俺はここの部分をああゆう理由で笑うのだろうか、などと考えてしまうのなら、その人は不幸だ。喜劇には向かない。喜劇は何も考えずに、笑うのがよい。だが、反対に悲劇は何も考えないでは見ていられない。こいつはこういう気持ちなんだな、俺がこいつならこう感じてしまう、いや現に感じているな、など悲劇は考えることで悲劇たりうる。なるほど、悲劇は芸術たりうるわけだ、妙に彼は納得して帰路についた。

 

読み返してみると、とてつもなく酷い文章だとは思うけれど、まだ幾分か愉快そうで結構だと思う。
読んだのですね。ありがとうございます。あなた、すごいです。