唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

語る権利と信じること

「死ぬものは全てを語る権利が有る。」
—ヴィヨン

 その通りだとは思います。
生きている間に受けた喜びや苦しみ、感じ取った不条理を語る権利を、人間は普遍的に持っているのでしょう。
だから人は、ものを書きたいと言う欲望を、根源的に持っている。
四千年以上前の書き物が、現在においても書店で販売されている神秘さに密かに感動したりしています。

現代文章宝鑑、と言う本が僕の書棚に並んでいます。
広辞苑並みに分厚くて大きな本の中には、美しい文章が数多く収められています。
書名にある通り、その本は、文章の宝箱なのですが、僕は眠る前の睡眠導入剤として読むことにしています。
昨日の晩、こんな文章を見つけました。

時偶(ときたま)小生の痼疾(こしつ)咽喉カタル非常に悪化し流動物すら嚥下し能はざるやうに相成やがてこの世を去らねばならぬ危機に到達致居候故小生は寧ろ喜んでこの畜生道に堕落しつゝある地球の表面より消え失せることを歓迎致居候も唯小生が理想したる戦後の一大軍粛を見ることなくして早くもこの世を去ることは如何にも残念至極に御座候。

この文章は戦時下において、ジャーナリストである桐生悠々が発行していた雑誌『他山の石』の廃刊の言葉。
反戦的な態度をとる桐生に対して戦時体制の強化を図る大日本帝国の圧力をかけた。
また、桐生自身の病気の悪化と相まって、廃刊を決意した。
とてつもなく、力強い言葉だと思います。
実際この文章を読むのは3度目で、歴史の教科書かどこかで何度か目にしたことがありました。
何度読んでも、心に響く言葉だと思います。

力強さがあるのだけれど、その中に、クスリと小さく笑ってしまうようなユーモアさを含んでいる。
これは、一種の皮肉です。
ストレートに語ったとしても、人の心を打つことは難しい。
けれど、一種のひねりを言葉に加えてやると、皮肉になる。

僕は皮肉がとても好きなのです。
皮肉は、その存在自体が、反体制的・反構造的で、メインストリームを嘲笑する愉快さがある。
世の中の体制や常識に対する、一種の懐疑がそこに、美しく息づいている。

「当たり前だとされている事柄が、必ずしも正しいとは言えませんなあ。
あなた、ひょっとすると…
間違っているかもしれませんよ?」
などと不敵な微笑を浮かべつつ、人を小馬鹿にしたような話し方で語りかけてくるように感じるかもしれない。
メインストリームからあえてそれることで自己を主張しようとする、一種のスノッブさを感じて、不快な気分になるかもしれない。

無論、否定することでアイデンティティを必死に維持しようとする人たちもいるでしょうが、それでも僕は、肯定することでアイデンティティを維持する人たちをどうしても毛嫌いしてしまう悪徳が強く根底に根付いていると自覚しているのです。
実際に僕はかなり多くの人から、「ひねくれているな」と言われます。
どこの都道府県に行こうとも、どれだけ年を重ねようとも、付き合う人がすべからく同じ言葉を口にするので、どこか空恐ろしい気分にさせられます。

ひねくれているのだから、意見や性格を、世の中の常識に合わせなくてはいかんよ、と言った人もいました。
彼の意見はもっともなものに聞こえますけれど、「死ぬものには全てを語る権利がある」のですから、語るぶんには自由かと思います。
そしてまた、語る内容を外側から規定されるとすれば、それは「私」という国家の内政に対して大きな国から干渉を受けることになってしまいます。
なるほど、この国ではそれはある種当然のことだから、国民性的にそうなるのかもしれませんけれども。

けれど、安心してください。
語る権利はあるけれども、「聴く義務」はありません。
打ち捨てておけばいいのだと思います。
個人のアイロニカルで反社会的な主張を聴かなければならぬ、と言うわけではないのです。
同様にして、世の中で正しいとされている意見を聴く義務はないのです。
聞か猿になってもいいのです。

信じなければならない言葉などありません。
個人の言葉と行動は、どこまでも無力である。
無力でなければならぬ、と僕は思います。
個人の言葉と行動と人格とに、力を持たせようとすれば、必ず他人を犯すことになる。
ある種の正しさの主張は、人を信じさせる宣教的な行為だと思うのです。
語る権利はあるけれど、信じるように働きかける権利はないのではないか、と思うのです。

課題。
理解する、信じる、この二つの動詞をいかに使用すべきか。

ちょっと、この記事は微妙だと書き終えて思った。