唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

神と絶望と虚無主義と、恋と愛について

恋せぬものに待つものは、虚無主義の渦から顔を出す、死神だ。 

スーパーマーケットに行くと、りんごや豆腐、マグロや菓子パンが綺麗に並んでいる。
そして、品物一つ一つに、丁寧に数字が振られている。
毎日のバナナオレ 162円
玉ねぎ一玉 40円
大根一本 187円

こうして、世の中の品物には価値という名の数字が丁寧に振られている。
品物につく数字は、便宜上、貨幣的な価値だ。日本では、円という単位でつけられている。
アメリカではドルだし、中国では人民元、韓国ではウォン。
こうした、通貨的な価値について分析する学問が、経済学なのだ。
ものの価値について、通貨的に分析し、疑問を解消してくれるのだけれど、僕はお店に並ぶようなものの人為的な価値について、不思議に思うことは少ないし、生きる上で必要なことだとは思わない。

そもそも、生きる、という行為に対して、いかなる価値があるのか。
生きる、ではあまりに幅が広すぎるから、分解してみて、生きる上での行動一つ一つにどんな価値があるのか、という疑問が、近頃僕の頭の中で、ものすごいスピードでぐるぐる回転している。
寝ている。
目を覚ます。
さて、布団をめくって起き上がろうと、思う。
けれど、起きる、という行為に一体いかなる価値があるのか、数値化するとどのくらいの価値なのか、そうだな、多分、20くらいか。
朝食を食べる。
目玉焼きを作る、さて、その行為にどんな価値があるのか、作らなくてもいいんじゃないか、そもそも、食べなくてもいいんじゃないか。
食べるという行為、一体、価値があるのか、数値化すると、、、

こんな風に、生活する上でなすことやること一つ一つに対して、価値があるのか、あるのならばどれくらいか、と考えてしまう。
そうして、生きる価値というのは、一生かけてなしてきた行動の価値の総和にあるのではないか、と考えてしまうのである。
多分、こうした行動に対して、価値を懐疑的に考えてしまうのは、僕に特別な現象ではなく、世の中の若者みんなに共通する問いだと思う、共通でなくて僕普遍の問いだとしたらあまりに虚しい。

お店に並ぶ品物に、値段のラベルを貼り付けて行くかのように、僕は、身体的活動と精神的活動にすべからく、ラベルを貼り付けて行く。
大学に行く、トイレに行く、お茶を飲む、本を書棚から取り出す、ゴミを拾う。
明日の予定を考える、みたいアニメについて考える、ベンヤミンについて考える、課題について考える。
こうした身体を使う行動と、精神を占める思考内容、あらゆる、エネルギーを使う行動の価値を問い直す。
行動する前に、価値を有すか否かを判断し、有すのならばどれくらいか数量化する。
その上で、やるかやらぬかを判断する。

いわば、日常の行動は、プログラムコードに規定されたソフトウエアの処理過程のごとく機械的で無機的なものになる。
有機的で、意思を持つものは、行動をなす行為者ではなくて、行動を規定するプログラマたる理性なのではないか。
理性、こいつがとてつもなく大切だ。
理性が誰かに規定されているとすれば、例えば、超人間的な神的な存在によって規定されていたとすれば、それはどこまでも宿命論であり続け、自由は消滅する。
理性の力を、いかに維持し続けるか、が課題なのである。

 

ニヒリズムの理性。
虚無主義に規定される理性の恐ろしさ。
それは、引き算を強制される理性。
行動の数値的価値に対して、-1を加え続けるという、永久的ループ処理を繰り返すこと。
コード。
while 1
value -= 1
end

例えば、歩くことの価値が20だと判断された、純粋たる理性であれば、歩けと命じる。
けれど、虚無主義的理性は、引き算を永久に繰り返す。
つまり、20の歩く価値は、0に帰する。
たとえ、どれだけ大きな価値を持つ行為であったとしても、必ず0になる。
正義の価値、これがたとえ、999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999949999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999であったとしても、0になるのである。

さらに言おう。
繰り返し処理は、0になると終了するとは限らぬ。
つまり、無限に-1が足されていく。
絶望への転落、無限の奈落、深さ無限の穴。
永遠に落下し続ける恐怖。
今か今かと、地面に肉体を叩きつけられ、意識が消滅する瞬間を恐れ続ける、極限の恐れ。
これこそが、絶望なのだろうか。

つまり、あらゆる行為の否定。
人生の価値は、なした行為の価値の総和であるのだから、生きる価値は0になるもっと言えば、無限にマイナスの数になる、ゆえに、自殺が正当される。
苦しみから逃れることができる唯一の解決策としての自殺である。
価値の否定。
消極的ニヒリズムである。
積極的ニヒリズムと超人思想を唱えた、ニーチェとかいう男の最後は、精神病棟で終えた、彼は、唱えるだけ唱えて、超人にはなりゃしなかったのだ。
『なぜ私はこんなにもいい本を書くのか』とかいうエッセイを綴っていたけれど僕は、『なぜ私はこれほどまでに現実と理想が乖離した人間なのか』というエッセイを書いて欲しかった。
超人は、幻想だ。

じゃあ、どうするか。
無限ループに争い売るのは、無限だけである。
無限の価値を有するものの存在。
これが、神である。
ニーチェは神を否定したけれど、結局超人なる神的な存在をもちだす必要があった、それは、人間の絶望の正体たる虚無主義に対して争う唯一の手段が、無限の価値を有する神だったからだ。
神と聞くと、僕を含めた現代人、特に日本人は、怪しい宗教を思い浮かべることだろうけれど、ここでいう神は、宗教的な神を必ずしも意味しない。
人間の精神活動にとって神の存在は、どうしても必要不可欠だと僕は思う、ちなみに僕は無宗教である。

先に僕は、無限の価値を有するものが神だと言ったけれど、正確に言えば、無限の価値を有するものを、「神」という名前で呼んでいるのだ、と僕は見ている。
それは、キリスト教的な神や仏教の仏さんを直接的に意味するような神ではなくて、無限の価値を生み出す源泉を、便宜上、神という言葉で呼んでいるというだけの話だ。
胡散臭い話ではない。
コップと言っても色々な形はあるが、みればコップだとわかる。
神もそんなもの。
コップがないと、水を飲みにくい、神がないと、人は考えにくい、それだけの話だ。

だから、虚無主義に対する、そしてそれはしばしば絶望と呼ばれ、人類にとって普遍的な状態異常を意味するのだが、一番の解決策は、神的なものを持つことだろう。
それは、教典に書かれた神でなくてもいいし、目に見えるものであってもいい。
神に対する感情は、多分、恋、という言葉で言い表せると思う。
人は恋する、人に、ものに、ことに。

そうした恋愛対象をなんでもいいから一つ持つこと。
必ず異性の人間である必要なんてこれっぽっちもないのである。ただし、人に対しての方がより愛や恋を感じやすい。*1
音楽を演奏すること、スポーツをすること、アイドル、アニメ、漫画、ゲーム、異性、なんだって構わないのだ。

恋せぬものに待つものは、虚無主義の渦から顔を出す、死神だ。 

*1:それは、古代ギリシアの思想とキリスト教との大きな差異、すなわち、前者がどちらかと言えば不可視的で無機質な「神」を規定したのに対して、後者は無機質な「神」と人々をつなぐ存在としてキリストという「神」であり「人間」であり「精霊」である存在を置いたことに見られる。今尚神秘的な力を持つキリスト教と、哲学者御用達的存在となった古代ギリシア思想との差異がこれである。もっと言えば、キリスト教の中には、新プラトン主義のような古代ギリシア思想の論理的なものが流れているのだろうけれども。