唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

虚無主義と価値の加減、その対策

懐疑、という言葉がある。
「我思うゆえに我あり」と言えばわかりやすいだろうか、18世紀、デカルトが行なった方法的懐疑が特に有名だ。
彼は、この世界のあらゆる物事を疑い尽くして、絶対的な真理を探究した。
目に見えるもの、これは幻覚かもしれぬ。
幾何学、正しいと思われる定理がひっくり返されることがしばしばある、ゆえに、今自明とされている公理体系が正しいとは言い切れぬ。
こうして、あらゆる物事を疑い尽くして、疑いの余地がある物事を偽と置いて行った。
けれども、たった一つだけ、疑っても疑えぬものがあった。
それは、疑う私の理性の存在である。
疑うということは、疑っている行為主体者である、私の理性がある。
「我思うゆえに我あり」なのである。
この私の「理性」を中心に添えて、疑いの逆の操作、つまり、演繹的に世界を再構築した。

ここまでが、方法的懐疑のあらましである。
「我、信ぜんがために疑う。
疑うために疑うにあらず。」
デカルトは、世界の存在を信じていた、そして、信じていたからこそ疑ったのである。
しばしば、懐疑論者は、世界を疑うために疑う、これはけしからんことである。
目的のない懐疑は、疑心しかうまぬ、と思う。

で、この懐疑という操作は、テクノロジーが発展した現代社会を生きる私たちはしばしば乱用しがちである。
もはや、神も何もかも信じることができなくなった。
特に、日本に住む僕などは、神を信じることは難しい。
聖書を読んで見たけれど、確かに面白かったけれど、神を信じる気にはなれない。
それは別に、キリスト教に限った話ではなくて、仏典を読んでも同じことではある。
無宗教的に育ったバックグラウンドは、神を信じるにはあまりに強大な作用を発揮する。
信じる、ということができないのである。

そうした人間が、懐疑という強力な剣を世界に振りかざすとどうなるか。
いうまでもない、虚無主義への転落である。

 

懐疑とは、価値の減算である。
理性は、物事の価値を査定する。
こいつの価値は、多分、30くらいだろう、と。
そして、懐疑である。
-1を加える操作を、繰り返す。
30回繰り返して、価値が0になったのならば、その物事の価値は30だったということだ。

で、信じる、ということは、ある存在に無限の価値を認めることである。
神で例示しよう。
理性は、神の価値を、無限だと査定する。
懐疑を加える。
-1を加える操作を繰り返すけれども、どれだけ繰り返そうとも、価値が0にならない。
永遠に繰り返す、けれど、0にならない。
そこで、懐疑を諦める。
この存在の価値を減じることで、0にすることはできないと、諦める。
この諦めこそが、信じる、ということだ。
こうした無限の価値を持つ存在を持つことは、とてつもなく人間の価値を高める。

そもそも、懐疑とは、無限の価値を証明する行為であるべきなのだ。
決して、あらゆる物事の価値を査定して、0にまで貶めて喜ぶためにやることではない。
けれども、信じるという概念が欠けた現代人は、懐疑をどこにでも振りかざそうとする。
「それ、やる価値ある?」
そもそも、価値という言葉、この乱用がどれだけの、精神的混乱を生み出すことか。

無限の価値を持たぬのにもかかわらず、懐疑を乱用する癖がついた人間の病が虚無主義である。
この哀れな患者は、あらゆる物事に対して価値を査定し、懐疑を加える。
存在への自虐である。哀れ極まりない。

治療方法。
信じることができないのならば、どうするのか。
第一の策、価値の加算をやればいい。
価値の加算、それは何か。
一種の楽観主義。Optimistic.
理性を騙すことはできない、理性が理性を騙すなど、それ自体で矛盾している。
精神を身体側から規定してやること、身体的な行為によって精神を騙すことならば可能だ。
そうした、身体的行為は、祈りと呼ばれる。
神社に行ったりお寺に行くと、なんだか神秘的な気分になる、あの感覚。
正座をして座禅を組むと、なんだか、リフレッシュした気分になるあの感覚。
これは、ある種の価値の加算である。
精神を精神によって楽しませるのではなくて、精神を身体によって楽しませること。

第二の策、物量戦法。
減じるスピードにも増す量の価値を投げ込むこと。
どのみち懐疑され0にまで貶められる価値ではあるけれど、0になるまでには多少の時間を要する。
ならば、価値が0にされる前に、新しい価値を投げ込むこと。
夢中を継続させるために、エネルギーを注ぎ込む対象物を、絶え間なく与え続けること。
多趣味。ただし、金がいる。
要は、価値の関数への入力と出力を大きくすること。
莫大な価値を投げ込み、莫大な価値を懐疑にかける。
ある種の大量生産・大量消費。気持ちはわかりけれど、環境には悪かった、それは物質的な製品だったから、ならば、情報化社会ではコンテンツを大量に消費すればよくて、それはゲームオタクやアニメオタクにあたる。
僕は、彼らと物量戦法の類似点と差異とに、ニヤリとほくそ笑まざるを得ない。

秋葉原の活気、コミケの行列。
それは、神への信仰と、虚無主義を克服するための必死の物量戦法の戦場とが共存する場でもある。
どちらにせよ、官能を刺激することで気をまぎらすようなかつての非人道的な物量戦法でないだけ、素晴らしいと思う。