唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

読書縮小宣言〜知性の肥満と学生の愚かな知性〜

目次

どんな本を読んだか?

今年に入ってからというもの、これまで読書(なお、以後この読書という言葉は、教養的な書物を指すのであって、ビジネス書や自己啓発書や娯楽小説*1を指すものではない)をあまりしてこなかった未成熟な知性を嘆いて、本をたくさん読むようにしてきました。
その甲斐あってか、下宿には二つの大きな書棚が鎮座し、中には岩波文庫や筑摩学術文庫が収められています。
基本的に、僕は本を買う際には出版社で選んでいます。

岩波出版か、筑摩出版、白水社といった限られた出版社からしか本を買わないようにしています。
それは、例えば、角川出版や新潮社、文春出版がダメだというわけではなくて、いわゆる大衆向けの書物は知性を磨くという観点にはそぐわないという理由によるものなのです。
僕が買うようにしている出版社は、どちらかといえば教養主義的な(岩波文庫はかつて一種の教養としての権威を持っていた。)側面が強いものなのです。
学術的と言い換えればわかりやすいでしょうか。

特に僕が読むようにしたのは、岩波文庫になります。
岩波文庫は、基本的に古典をセレクトしたランナップとなっています。
プラトンとかソクラテス夏目漱石古事記といった少し硬い印象を抱きがちな古典的な書物を、利益的な観点ではなくて学術的な観点から多数出版している文庫になります。
よく言われる言葉として、教養をつけたくば岩波文庫を読みたまえ、というものがあります。

岩波文庫には、色が割り振られていて、白は法律や政治関係の古典、青は思想や哲学ん関係、緑は日本文学、赤は外国文学となっていますから、大学生は自分が身に付けたい知識に合わせて岩波文庫を徹底的に読み込めば、大学教授が偉そうにのたまふ所の教養というものをつけることができるというわけです。
そういうわけですから、僕は今年に入って、主に青を中心として、そこに緑と赤を適度に混ぜつつ読書を進めてきたのです。
割合としては、青が5割、緑が3割、赤が2割といった所でしょうか。

 本を読む効能と副作用

本を読む、このことはしばしばとてつもなく大きな美徳のように喧伝され、読書によって人間性が高められたり、世界が広がると言われます。
今年に入り、僕はこの半年間の間に200冊くらいの本を購入して、読みました。
その経験から、さて、読書の効能とやらを述べてみたいと思います。

結論から述べると、僕は、生活を彩るための読書ならば、月に2冊くらい、書店で気になった本を読むくらいがちょうどいいかと思います。
毎月何十冊もの本を、多読だの速読だの教養だのと、妙ちきりんなキャッチフレーズを唱えつつ、真剣に読む必要性は全くないと、思います。

読書は、知識の量を増やすことにはとても有用で効率的な手段です。
何か目的があって(例えば、新しいプログラミング言語を学ばなければならない、ビジネスマナーを学ばなければならない、投資について勉強したいなど。)読書をする場合は、たくさんの本を読む必要が出てきましょうが、生活を豊かにするために読書をすることは、果たしてどうなのか、と僕は懐疑的になります。
根拠は? と問われてしまうと弱いのですが、それは、僕の主観的な実感に基づきます。

哲学書や小説をたくさん読んだのですが、その中で新しい世界の解釈の仕方、人間の感情のフレームワーク、いわゆる「愛」だの「友情」だの「嫉妬」だの「厭世観」だのといった、一つの言葉では言い表せないものの認識ができるようになったと感じます。
それは、最初のうち、つまり3ヶ月くらいまではとても大きな快感でした。
人が知らないもの、人が感じ取れないものを、認識することができる一種の優越感のようなものを感じ取ることができるからです。

けれど、その優越感は所詮、虚構の華にすぎません。
見せかけだけの華なのです。
そして今度は逆に、人にはない新しい認識のフレームワークが、逆襲に転じます。
お化けが見えるようになると考えるとわかりやすいかもしれません。
つまり、目の前の人間や現象が、人とは違うように認識されてしまう。
深く考えるようになってしまう、一種の懐疑主義に陥ってしまう危険性を、読書による知性の研鑽が秘めていることに気がつきませんでした。

小学生や中学生の頃、偉大な作家である太宰治だの芥川龍之介だのが自殺していることを知って、一生懸命勉強してきたのにもかかわらず死ぬなんて、バカだなと思ったのを思い出しました。
勉強ができないから不幸なのだ、と思っていたのでした。
ものを知らない無知が人を不幸にするのだと思っていました。
けれども、その実、そうではないのだと、たった200冊ばかりですけれども、本を読んでみて、知性の危うさの片鱗を除いた気がします。
だからかどうか知りませんが、僕は、芥川龍之介の『歯車』を読むと、ひどく感動してしまいます。

労働。
アルバイト、一生懸命にやる美しさ、僕はもはや感じ得ないようになった気がします。
バカをやること、無邪気にハシャグこと、そこには、一種の思考停止、感情依存のモチベートがある気がするけれども、知性を肥大化させてしまったのならば、もはや知性を感情が支配することはできないのではないか。
つまり、マジメ君が根暗であるとしばしば言われるのは、肥大化した知性を的確に指摘しているのではないか、というわけです。

読書を控えること、肉じゃが的読書

そういうわけですから、僕はこれまでの生活習慣を改める必要が出てきたようなのです。
これまで僕は、一日4時間から多いときは8時間くらい読書をしていて、その他の時間はドイツ語や英語の勉強をする、また小説を書くなどしていたのですけれども、こうした似非知識人的な生活から生み出されるものは、知性の肥満なのではないかと思うに至りました。

だから、読書を控えようと決意しました。
読書をして得られる知識が人間性を高めるとは、到底思えない。
思えない、といっているのであって、考えない、といっているのではないことに留意されたい。
それは、一種の反知性主義に思えるかもしれません。
知識に基づく科学的な推論によって、正しさを導き出すことが、必要だと思われています。
僕にとって、そうした知性主義は一種のイデオロギーに過ぎないのではないか、と思わせしめるのは、偉大な思想家が偉大な生活者ではなかったという矛盾にあります。
立派な知識人の中には、確かに素晴らしい生き方をした人も多くいますけれども、どこかその生涯には孤独さや暗い影が潜んでいるように思えてならないのです。
どうも、えらい哲学者の生涯を見てみると、素晴らしい文句を垂れるくせして、ロクな生き方をしていない(なるほど、そうした「僕」のような未熟な知性には不幸に思われる、高尚な幸福があるかもしれませんけれども、少なくとも、知性を発達させることで人間の根源的な幸福感が正しい方向へと矯正されるとは思えない)ように思われます。
ニーチェは頭狂って精神病になるし、漱石は一生厭世主義者で胃病が悪化して死んだし、川端康成はガス自殺するし、太宰はいうまでもないし、ヴェイユは餓死するし、ソクラテスは処刑されるし、プラトンは結局政治を動かすことはできなかった。

そういうわけで、僕は読書は、たまに作って食べる料理の一品くらいのポジションに置こうと思います。
たまに僕は、肉じゃがを自炊するのですが(味は、食える程度)本当にたまにです。それも、食べたいな、と思った時に作って食べるくらいなもの。
そのくらいのポジションに読書を置くのが良かろうと思うのです。
読書を人生を生きる糧にする、とか、一生涯の趣味、とかいうのは少し、僕にはできないかなと思いました。

大学生のリテラシーとしての読書技術

ただし、読書の技術は大学時代に身につけて置くべきだ、と僕は思います。
一冊の本を一週間もかけてようやく読み終わり、しかもその内容を読み終えた頃に忘れているとか、本を読むと十分で眠くなるとかいうのは、まずいと思います。
料理が作れるとか、自転車に乗れるとか、キャッチボールができるとか、泳げるとか、こうした人間の運動の嗜みとして、できなくてはならない技術の一つだろうと思います。
尚更に言えば、大学生、特に文系であるのなら、尚更のことだと思います。

僕は、本も読めないのにもかかわらず(すぐ眠くなる、学術的単語の意味が取れない、一冊の本を読み切る集中力がない)「文系」を名乗るのは、「文系」に失礼なことだと思っています。
そうした「文」を自在に操ることができない人は、文系ではありません、理系でもありません、高校生と同程度の知的水準、いうなれば真高校生くらいなものです。大学生ではありません。
などと、反体制的なことを考えたりしてしまう自分もいます。

まとまりのない議論になってきましたけれども、知性の肥満は大変な異常ですけれども、知性が痩せすぎている大学生があまりに多いような気がしてならない、という不満もあります。
そうした痩せた知性を持つ学生は、目先の利益を提示され、うまいこと「自分を変える」だの「未来の可能性」だの「これからの時代」だのの、甘い謳い文句にひょっこり釣られてしまう。

こうした、釣られる学生がいかに多いことか、と嘆く不満が募ります。
釣られる学生が、こういう言い方も変ですけれども、中堅以下の学生ならば、構わない、むしろ有益だとすら考えます。
けれど、トップレベルの学生が、いわゆる旧帝大といった有名国立大学に通うような学生が釣られることは、一種の責任の放棄だと思います。
そうした社会や利益集団の意図を読み取り、自ら考え判断し、自分の価値観に照らし合わせて社会のためになるように行動する責任があると考えるからです。
ホイホイ、偉い人のいいなりになって、またお金につられて動かされるような人間は、「エリート」として不適である、そしてまた大衆を牽引する「エリート」としても不適である、更に言えば、こうした「エリート」の機能不全こそが国を世界を大きな危機へと導くものだと考えるからです。

こうした、エリートとしてのまた、市民としての一定の基準の知性を持ちつつ、知性を過度に太らせない程度に保つことこそが、「幸福」の条件なのだろうと考えた、という、かなり長い話でした。

ポスト読書生活

読書をやめて何をするか? クラシック音楽・エレクトロミュージック聴破計画を考えています。また、絵画観破計画もいいかと思っています。
それは、文字と数式を使えば世界の全てを記述できると考えがちな一種の言語絶対主義的なイデオロギーに対する反抗の精神なのです。
世界は書物だけでなく、音楽や絵画にも収めることができるのではないか、と考えています。

*1:例えば、森見登美彦など。