唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

自殺願望と小説と性格の変革方法について

僕は小説を趣味として時たま書きます。
少し暗い、エセ純文学チックなつまらないお話を、原稿用紙に綴って、一人悦に浸ってニヤニヤ喜んでいるのですけれど、どうしてもできないことがあります。
人を殺すこと、これがなかなかできない。

小説は自分が思うがままに世界と人間を想像して動かすことができます。
世界と人をどう動かすか、どう創るか、ここに作者の人間性や哲学、美的感覚が反映されるのです。
だから、僕が書きたいと思う小説は、僕の人格を表現していると言ってよいでしょう。
僕は暗い小説を書きます、書きたいと思います、そしてそれは、僕の人格が暗いものであることを証左しているのでしょう。

そしてまた、僕はしばしば人から言われる通り、ある種の自殺願望を持っています。
自殺願望というと、少し言い過ぎかもしれませんが、なんにせよ確実なのは、人間だとか世界だとかに対して、決して楽観的になれず、とことん悲観的な見方をする、ということなのです。
喜びや幸福、そんなものは妖、虚構、お人形、在らぬ。
不幸や苦しみこそが、本当に在るものだ、と考えてしまう癖があって、とてつもなく哀れな人間性だなと自分でも思います。
このように、世界と他者と自己とに、有を認めず、無を認め、悲しみと苦しみが充満したガスのようなものだと考えているからこそ、どうも、生きることが楽しいことだとは思えない、というわけなのです。
こうした厭世感が、一種の自殺願望として変換されうるのだ、という意味での自殺願望なのです。

不思議なもので、高校時代も大学時代も、新しくできた友達の中には必ず、このようにいう人があります。
「〇〇(僕の名前)が自殺しても、驚かないね、死んだらダメだぜ」
冗談交じりの柔らかい微笑を浮かべて、僕に皮肉か忠告かをしてくれる友人には、感謝していますけれども、その感謝以上に、どうして、空間と場所を隔てて、同じ言葉が僕に向かって投げつけられるのだろう、と考えてしまいます。
つまり、環境が変わり、性格を変えたと自覚して、明るく振舞っているつもりなのですけれども、そうした表皮を剥がして中身のぐちゃぐちゃした部分を、目の前に並べられ、自分の内側が変わっていないことを思い知らされる悔しさといいますか、悲しさといいますか、可笑しさといいますか。

僕の厭世主義(少しカッコつけてみましょうか。)は貫かれている。

そういうわけで、僕は、人が自殺する小説や、人を殺す小説を書いて見たいと思うのです。
これは、僕の厭世主義ゆえに、一向に不思議ではない衝動と言えるでしょう。
自殺願望と殺意と憎しみと嫉妬と憤怒を、小説にしたいと思う。

そこで僕は、一つ、登場人物の女が、自殺する小説を書いてみようと思い立ちました。
話としては、優越を示すことで自己を肯定してなんとか生きてきた女が、ある事件をきっかけに、こうした相対主義的な生き方の虚無を感じ、虚無主義の沼に落ちて生き、発狂して、最後、刃物を自分の腹に突き刺して、血しぶきをあげて死ぬ、というもの。

とてつもなくシンプルで、よくあるお話のパターンですから、自伝的に綴って、過去の思い出やら人間関係やら、かっこいいイケメンので同級生やらを登場させて、主人公の女に影響を与えていけばいい。
なんやかやで、だいたい2万字くらいまで、プロットでいくと、自殺する3日前くらいまでの話はなんとか書き上げることができました。
けれど、そこで、僕はギブアップしてしまった。

理由は単純で、自殺願望を持つ女をつくるということは、自殺願望をつくるということ。
女が死にたいと思う気持ちを、書き手である僕自身が共有しなければならいということなのです。
女が発狂し、うつ状態に落ちていくにつれて、書き手である僕自身もだんだん頭が痛くなり、うつ状態に近づいていき、最後は多分心因性の発熱を起こす始末。
腹も痛いし、体はだるいし、心は虚無で鬱々しい、とてつもなく悲惨な状態で、その後一週間くらい寝ていました。

苦しみの小説を書くということは、それだけの大きさの苦しみを心の中に飼うことだったのです。
うつ病の女を描くということは、その女の人格だの過去だの人間関係だのを、自分の精神の領域を割いて割り当てて、自分となすことだったのです。
だから、小説を書くということは、とてつもなく、ある意味で、ある分野の物語においては、心を削る所業だったと知りました。

こうして僕は、こうした鬱々しい小説だの自殺小説だのを書くのをやめることにしました。
けれども、僕が持っている人格や性格は、変わることはありません。
「人は変われる」とか「さあ、変わろう」みたいなフレッシュで耳当たりの良いキャッチフレーズが、しばしば自己啓発や意識高め団体の勧誘等で使われますけれども、僕は、人は変わらないと思っていますし、変われないと思っています。

僕の小説病の話からも分かる通り、性格とは所詮言語が規定するものに過ぎません。
「明るい性格」とか「暗い性格」とかいう性格を表す言葉を意識的にしろ無意識的にしろ信じることによって、性格が鋳型にはめられるが如く、出現する。
いわゆる「暗い性格」の人間は、自分が「暗い」と信じている。
これを変えるには、この人間の信仰を変革する必要がある。
人が信じるものを変えるのは、とてつもなく難しく、ほとんど無理と言ってもいいと思います。
洗脳ならばともかく、信仰については、変えることはできないし、無理矢理に変えたとしても、変に軋轢をその当人の中や外に残す結果となるだろと思うのです。
そしてまた、性格の強さは、信仰の強さに依存しますから、変えたい、と思わせしめるような性格の持ち主は、その性格の言葉に対する信仰は極めて強いものだと考えなければなりません。
それは、とてつもなく強力なネオジム磁石やアロンアルファを引っ張って離すようにとてつもなく強いエネルギーを必要としますし、引き離した後、傷が残るに違いないのです。

では、どうするか。
自分が嫌いな性格、自らの肉体や精神を貪り滅ぼすような性格に、どう対処すべきか。
言葉、こいつが厄介なのです。
嫉妬という言葉がなければ、嫉妬の感情を抱くことはありません。
もっと正確に言えば嫉妬という言葉を知らぬものは、ごくごく弱いモヤモヤとした「嫉妬」を感じることはあるかもしれないけれども、もっと強いいわゆるヤンデレ的な嫉妬を抱かせしめるのは、嫉妬という言葉とその言葉に付随する物語であるのだと思うのです。

ある性格を表す言葉と、その言葉に付随する物語の総量。
この二つの条件が成り立つとき、性格が力を持つ。
そして、僕たちは、性格を表す言葉をもうすでに知ってしまっているだろうと思う。
例えば、
「ねえ、この気持ちなんだろう...?なんだか心の中がモヤモヤして、けれどもあたたかいの。」
「それはね、恋ってものだね。」
「…恋ってなに?教えて…苦しいの」
このような、恋を知らない女の子の淡い青春ラブストーリー的な展開は、現実では間違いなく起こらない。
それは、「恋」という言葉を知っているから、そしてまた「恋」に関わる様々な事例を話として知っているから。

恋、ならばいい。
人をより良い方向へ引っ張る感情であるから。
けれども、最初に僕が書いたように、自殺願望やら厭世観はダメだ。
生きにくくするだけだから。
こうした相対的な悪な性格に対しては、第二の条件である、その言葉に付随する物語をできるだけ知らない状態に持っていくことが大切だと思います。
僕が小説を書いて気持ち悪くなったのは、言葉を大きく膨らませて物語にした結果、性格が肥大化したのだと思います。

小説をよむことは、何やら美徳のように喧伝されますけれども、性格を養うプロテインのようなものだと認識して、注意深く選択しなければ、感情のフレームワークを大きく好ましからぬものに変わってしまう、という話でした。

 

追記
僕が殺人願望を持っていて、人を殺したいとか傷つけたいと思っているのだ、と思われたのならば、それはとてつもなく大きな誤解です。
僕は、他人の人格を傷つける行為は、絶対的な悪だと強く信じています。
これは、論理の入る余地を許さない、一種の強力な信仰です。
又の名を、道徳といいます。
抜かりなきよう。

そしてまた、自殺するのか、という問いには、自殺はできないと答えねばなりません。
まず死体の処理を誰か他人にしてもらう、鉄道に身を投げれば車掌さんに、川に身を投げれば消防士さんを危険にさらすことになりますし、家で首切って死ねば血が飛び散り誰かが僕の死体を運んで床にこべりついた血痕を綺麗に拭きとらなければならなくなります。
とてつもなく、迷惑です。葬式費用は? 葬式で僕の親族はどんな顔をすればいいのでしょう? 親孝行もしていない、まだ死ねない、という外圧と内圧とが、自殺願望を遥かに凌駕しています。
当然ではあります、自殺は悪か権利かは知りませんが、知っているのは、自殺をすることは物理的に無理だということなのです。