唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

超えられない壁はない

本当に、超えられない壁はないのです。
神様は、乗り越えることのできない試練などお与えになりません。
だから、今どんなに苦しくて辛くて、身悶えしてしまうほどに心のモヤモヤが大きくても、決してあきらめずに、困難に挑み続けること。
これが、大切なことなのです。
難しくて、大きくて、複雑で、強力で、もうダメだと思うこともあるでしょう。
目の前の困難に打ちひしがれて、もう逃げてしまいたい、死んでしまいたいと思うこともあるでしょう。
けれど、あきらめてはいけなません。

諦めることはいつだってできます、逃げることはいつだってできます、本当に、諦めることは簡単なことです。
挑み続けること、とても大変で、苦しくて、いやになる苦行だと思います。
それでも、挑もうとする、力強い意思、絶対に乗り越えてやるのだという根性と、しつこさとしぶとさとを、たとえ嘘でもポーズでも構わないから、持ち続ける大切さ。

滝登る鯉、流れに抗い懸命に泳ぐ力強い魚の動きと美しさ。
何かに抗い、必死に生きる姿は、とても美しい。
困難はなければいいのにと思いがちだけれども、本当に人間を美しく装飾する最高のアクセサリーは、ダイヤモンドでも真珠でもなくて、苦しみや困難や試練なのです。

 

こんな耳障りのいい文句を垂れ流す無責任な人間の大量発生が創り出した、虚構の希望に魅了されて、たくさんの人間が勘違いをしている。
俺は無限の可能性があるのだとか、若いうちの苦労は金を出しても買えだとか、逃げずめげずあきらめず懸命にただひたすらに行動あるのみだとか、何か、明日から頑張ろうと思わせる文句のオンパレード。
書店に並ぶ自己啓発本SNSに大量発生するキラキラ輝くイケてる若者、noteやブログで自己発信をし自らをコンテンツにしようとする「ライター」。
彼らに触発されて、僕の明日を変えよう、生活を変えよう、行動しようと、無為なのか有益なのかわからないけれども、何やら奇妙な言動をとる意識高い人たちの発芽。
花は咲くのか、実はなるか、なった実不味いか甘いのか、僕にはわかりません。

超えられない壁はない、この言説に僕は確かに同意します。
あきらめない大切さ、これにも僕は共感します。
苦労は金を出してもすべきだ、確かにそう思います。
どんなに苦しくても辛くても、自分がそうしようと決めたのならば、諦めることなく、一生懸命に挑み続けること、それが成果が出ようが出なかろうが、関係ない、努力そのものに価値があるのだ、と確かに僕はそう思います。
だから、一種の意識高い系の本や言動に、僕は共感する一面はある。

だがしかし、それは、金を稼ぐ点において、のみであると僕は思う。
金を稼ぐことを明確なゴールとするのならば、超えられない壁はないでしょう。
けれども、この意識高い言説を、人生そのものに適応するのには、違和感を覚えてしまう。
こうした意識高い言説は、金を稼ぐビジネス面においてのみ価値を持ち意味を持つものであって、こと人生だの正義だの善だのに適用することは間違っていると思う。

 

生きるということは、壁を破って走り続けることだと思う。
その壁というのが、自分が望んで挑戦する困難や試練。
走る、前に壁が現れる、破る、走る、壁が現れる、その繰り返し。
この壁を破る点においては、あきらめてはならないし、破れない壁などないのだと思う。
けれども、敵は壁だけではない。

後ろから、追っ手が、ゆっくりと追いかけてきているのだと思う。
大きな釜を持った死神か、または目に見えない真っ黒いブラックホールか、悪魔か、口先女か、人それぞれ違って入るけれど、確かに、後ろからゆっくりと強力な追っ手が、人を追いかけてくる。
この追っ手は、決して破ることはできない。

たまに、走るのをやめて立ち止まり、後ろに振り返って、この敵を討ち滅ぼそうと試みる愚か者がいるけれど、必ず敗北する。
敗れ去った挑戦者たちは数知れない。
気が狂うのが常である。

この追っ手に関しては、とにかく逃げなければならない。
決して立ち止まって、相手の正体を確かめようとしたり、手管を把握しようとしてはならない、ただひたすらに逃げ続けること。
もしも、追っ手に、追いつかれそうになったのならば、追っ手の動きを遅延させる為の行動をすぐさまにとること。
この遅延行動を、ためらったり恥だと思ってはいけない。

遅延して、逃げる、ひたすら逃げる、死まで走り抜けること。
追いかけてくる敵は、逃げ切れば勝利となる。
前に現れる壁は、打ち破らなければ勝利とならない。
この困難のカテゴリーを誤って、何にでもあきらめてはいけない戦法を用いてはいけない。
たとえ夜逃げしてでも、逃げなければならない敵は必ずいる。

必勝の理、それは、勝てぬ敵と戦わぬこと。

だからかも知れませんね、僕の違和感の正体は。
意識高い言説の提唱者は、単なる壁破りのプロフェッショナルに過ぎないのにもかかわらず、子細ぶってののこのこと、開かずの間の扉を叩く、そうして叫ぶ、打ち破れぬ壁はない、と。
いやいや、それは壁じゃなくて、追っ手ですと不審に思う。
知恵や人格というものは、一面的なものではなくて、きちんとカテゴライズしなくては、大変なことになります。
風邪をひいて、獣医師に体を見せるような阿呆を晒すことになってしまいます。
そしてまた、その獣医師が、君、それはお腹の病気だからこれを飲むといいなどと、いけしゃあしゃあと、専門外の敷地にズカズカと汚い足を踏み込んで得意げに仰け反り帰って高笑いする姿を見ると、可笑しくて、くすりと笑ってしまいます。
バカにつける薬はありませんから、くすりと笑うしかないと、昔の賢者は言いました。