唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

生のエネルギー変換方法の試論 シモーヌ・ヴェイユを読んで

境界なき有は、無限を要請する。
ゆえに、境界なき有は、神秘主義的な神の概念において主張することはできようが、有限の存在である人間に対してあるいは精神や身体に対して主張することはできない。

人間は有限であること、ここから始めよう。
有限とは、境界の有を条件として成り立つ有の状態。
有限の存在が実在するためには、必ず境界線が必要となる。
境界線とは、外と内を分ける概念である。
そこには外部から内部を規定する働きと、内部から外部を規定する働きの相互作用が認められる。
有限の存在は、外部からの規定のみで成立しうる。
逆に、内部からの規定のみでは成立しない。
境界線を引きさえすれば、そこに内と外が生まれ、存在が自動的に確立するからだ。
強制的な存在の誕生、境界線の策定が外部と内部を規定したこと、望まぬ誕生。

ここに、内と外の避けられぬ闘争が生じる。
存在の内側から外側を押す力と、外側から内側を圧迫する力の均衡を保つ必要性が出てくる。


内側の力が、すなわち意志の力あるいは自由が、外側からの圧力をうわまり、無際限に存在を拡大し続ける現象。
これは、堕落であり、怠惰である。
自らの欲望のままに外へ外へと侵攻し、存在の拡張を図る行為自体に快感を覚える動物的な衝動。
快楽主義の体をとるありとあらゆる理由づけは、理性の承認を得るためのファッションと装飾品を持っている。おしゃれな服を剥がせば裸体の人間である。

外側の力が、すなわち社会的な圧力あるいは義務が、内側の自発的な力を凌駕し、存在を縮小させ続ける現象。
いっそ、存在を消滅させてくれるのならばよい。
けれども、どれだけ大きな力が外から加わり続けようとも、存在の大きさは限りなくゼロに近づくのみで、ゼロになることはない。
また、家康のごとく、生かさず殺さずの状態に保たれ続ける苦しみの大きさは言うまでもない。
存在が消滅するためには、境界線を消滅させなければならない。
境界線を消滅させる方法はたったの二つだと、昔から言われ続けている。
死ぬか、神的なものに触れるか、このいずれかのみである。

 

さて、絶え間無き苦しみの原因はつまるところ、外と内とが争い合うその軋轢が生じさせる苦しみのエネルギーにある。
この苦しみから解き放たれようと、難しい宗教の修行だの、自殺だの、エネルギーの変換を芸術行為によって行ってきた、昔の偉人たち。
どれが正解か、それはわからない。
けれどもただ一つ言えることは、解決策として取りうる現実的な手段として、これらの偉人の行いは、不可能に限りなく近いということ。

僕は、単なる平凡な大学生に過ぎない、そしてまた、それゆえに幼少期から不可避的にしろ恣意的にしろ鍛え上げられてきた才能を持っていないのだ。
あらゆる時間は、外側からの圧力と義務の中で、知的エリートたれと進学塾での無価値な言葉遊びと数字いじりに費やされ、磨かれたのは頭の筋肉の柔軟性だった。
加えて、裕福な先進国である日本の、一般的な地位にある僕には、自殺という選択肢も宗教の修行もない。
こうした、外側から眉をひそめられること請け合いの選択をなすのならば、内と外の軋轢によるエネルギーが、僕自身のみならず僕の周辺に在る人間に対しても及んでしまう。

だから、新しい道の模索が必要となった。
新しい道、それは、外と内の力の質と大きさのバランスをとること。
外からの力、義務であるけれども、この義務を内側から規定すること。
つまり、外側から与えられるはずの義務を、内側から規定してやること。
だがこれは矛盾である。
矛盾を可能にする存在が、ある。
つまり、内側にありかつ外側にあるもの。神的存在。超自然的存在。
この存在に対して、義務を求め、恩寵を授かること。
外側から内側に対して加わるエネルギーを、超自然的存在から内側に対して加わる内的でありかつ外的であるエネルギーに置き換えること。

そして、内側から外に対して生じるエネルギー、自由について、どう処理するか。
内側から生じかつ外側から生じるようにし、そしてそのエネルギーが外側へ流れ出ないようにすること。
当然のことながら、矛盾する。
矛盾を解消する存在として、超自然的存在を引き出す。
自由を超自然的存在から得るとともに、超自然的存在に引き渡す。

すなわち、義務と自由を超自然的存在から得て、返すこと。
この変換過程において、存在に対して恩寵がその光合成的産物として与えられる。
内側と外側のその先にあるものを要請する、ある種の神秘主義

それは、超自然的存在を論理的に証明するだとか、正しいか悪いかという価値判断を求めるものではなく、むしろ拒むものである。
こうしたことはどうでもいい、重要なのは、こうした存在が実存するかではなくて、実在すると信じること。
これは、アニメや漫画のキャラクターがいないとわかりつつも、そしていないという事実にもかかわらず、頭の中で想起し希望をもらい勇気をもらい、そして好きであり続けることと同じことである。
ノンフィクションや論理的思考からしかエネルギーを抽出できぬよりも、フィクションや超自然的なものからをもエネルギーを抽出できた方が、よい。
それは、正しさを主張せんがためのエネルギーではなくて、生きる糧として変換するためのエネルギーである。

 

あとがき
シモーヌ・ヴェイユ、「重力と恩寵」を読んで考えたことです。
神、と聞くとどうしても眉をひそめてしまう体質な僕ではあります。
おかしな新興宗教や、声真似する鳥の名のつく宗教やテロリズムを思い浮かべてしまいます。
けれども、神という言葉は、宗教の専売特許ではないと思います。
信じるという行為を促す存在として、神を規定するとどうでしょうか。
「信じる」という行為は、僕らが得ている知識に不可欠な要素なのですから、「地球は自転する」という知識は、それを体験したからではなくて、そう言っている人間と言説とを正しいと信じているからこそ、持ちうるものなのです。
つまり、信じることなしに、知識を持ち得ない。
だから、こうした知識に対して神という言葉を当てることは、取り立てて弾劾されるほどの愚業とは言えないのではないでしょうか。

そして、問題の焦点を写してみると、人間が発展した理由は、信じる力にあると言えますし、信じることは、エネルギーを生むと言えましょう。
だから、ある一人の人間がエネルギーを得て、立派になりたい(金を稼ぎたい、大統領になりたいとかなんでもよろしい)と思うのならば、何を信じるか、どれくらいの強さで信じることができるのか、と自問せねばなりません。
ベタなドラマや映画なんかで、正義の味方が正義を信じ、悪の大王が悪を信じるかのごとく、行為に対してエネルギーを供給する源泉は信じることだと言えると思います。正義の味方にとりて神とは正義であり、悪の大王にとっての神は悪なのです。
そしてまた同じように、スティーブ・ジョブズにとっての神はパーソナルコンピュータの可能性だったと言えそうですし、バフェットにとっての神は投資という行為が持つ可能性だったと言えましょう。
こうした、正しいかどうかの論理的な判断を退けるある人間が持つ信仰を、信念と呼びます。

信念として何を選び、精神の王座に座らせるか、とてつもなく重要な問題だと思います。
金でもいいでしょう、誰か女性でもいいでしょう、親でもいいでしょう。
自由とは結局、信念すなわち神の選択権を意味する言葉なのではないか、なんて思ったりしました。