唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

ツイートによる思索 1

久しぶりにテレビを見て悲しくなる、入れ物の大きさと材質とをよくよく考慮すればテレビが小さなビニール袋にすぎぬとすぐにわかるはず、にもかかわらず期待し勝手に失望するのは、豪華な箱にチープが胡座をかいて鎮座している詐称的エレメントを認識した瞬間の絶望の感情を抱いたから。あるいは詐欺。

「必要すら感じない人たちの、享楽消費的な概念の鑑賞会は娯楽だ、醜くて臭い。概念を頼るには豊か、あまりに豊か。ぬるま湯に浸かって、アヒルの浮きゴムをぴいぷう言わせつつ下品な話題にみんなで笑う、以って生きがいとする、堕落だ、一体どういう道理でそのような場所から信仰が生じようか。」

音も光も関数を構成する一種の変数でしかなくて、仮にもしもマイナスを全体にかけていたりゼロをかけていたり、また定数項としてとてつもなく大きな負の数を加えていたとしたならば、大変なことになるのかもしれない。問題は、関数が外にあるか内にあるか。

結局のところ受肉させないのならば、埃にすらなり得ないよねって言ったら、それなら俺は血肉をそこいらから毟り取ってくるまでさとか宣言して肉片を掻き集めてるようだけれど、もはやストームトルーパーですらないよね、それ。問題は、受肉させる概念を持っていない、というところにあると思います。夢だけれど考えて見ると面白いと思う。受肉させるだけの概念を創出することができるのか、つまり真善美を自給自足できるだけの広くて肥えた土地を所有することができるのかどうか。cultivated=cultured 教養があるかどうかに帰着するのでしょうか。そんなこと言いつつ実は。
真善美など形而上の本質をこそ求めるべきなのだ的な独善的ナルシズムが氾濫するからこそ、ある意味無意味で無価値な俗物的なるものがあらゆる価値を超越するという皮肉、その体現物たるアニメこそが慰めだと思ってるので、らき☆すた神社の鳥居の倒壊が悲しい。

大自然に住むインディオは僅かの食物しか食べず娯楽抜きの沈黙に生きる、なんと美しい肉体と精神だろうか!とあったから、1日1食、朝晩読書の生活の末帰省したら、「痩せ猿」だの「歩く死体」だの怯えられたから、美味い都市の飽食を笑顔で食い肥えたなと思って鏡を見たら、普通の日本人がそこにいた。

賽の河原、ただ黙然と小石を積み上げ続ける。必ず鬼がやってきて壊してしまうのだけれど、それでも無際限に積み上げ続けるのだという意思。また、崩された。
石を積み上げる行為に内在する、無という価値。歓び。