唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

【小説】二重性のエピグラフ

一筋の閃光がどこからともなくやってきて、虚無の暗闇を徐々に照らしてゆく。閃光の一本の筋、その周りにほのかな黄金色の暖かな光が充塡していく。光は自らを包み込む容器としての空間を形成し、その中に収まる。光線が一本その周りに抗して空間が創造されていく。そして、光線の先頭には球でも立方体でもない、形容しがたい一つの物体(物体とここでは便宜上記したけれど、一つの存在としてさえも決して定義することのできない絶対的な「何か」である。)がただひたすらに真っ直ぐ、なにものもあらぬ虚無の闇の幕を一枚、また一枚と破り捲るが如く、進んでいく。その進行は早い遅いというような、比較対象を必要とする記述を許さない絶対的な直進である。虚無においては、上や下、右や左といった相対的な方向性は存在しない。孤独なこの光線の先頭たる物体こそが、世界そのものであった。物体を側から観察する我々はややもすれば、この創造者に対して、意思や信念や法則性を見出そうと愚かな想像力を働かせるかもしれない。だが、この物体はもはやこうした想像力の作用をも跳ね返し、何らの概念をも生じさせない。ゆえに我々がこの物体を目にしたのならば、その瞬間にこの物体に対するすべての言語は無に帰し、ただ説明できぬ恍惚感のみがぼんやりと残像として残るだけである。

男がいた。当然、名前を持っていた。けれど、我々は彼の名前を思惟する必要も認識する必要もない。ただ、男がいた、それだけを知りさえすれば十分である。男はこの閃光を、見た。閃光を見るということ、それは閃光の先頭のあの物体を見ることとは大きく異なっていて、閃光に対して概念を抱くことはできるのである。だから、男はその閃光の美しさに感動し、恍惚とした気分を味わい、言語的な思索と叙述をなしたのである。男は、閃光を「恍惚線」と定義した。男は、恍惚線のすばらしさと美しさを粗末な大学ノートに書き綴った。原稿用紙に綴られた男の、恍惚線に対する愛は本当だった。恍惚線が放出するエネルギーを男は受け取り、生きるために、そしてまた彼自身の創作活動のために利用した。男は手記の中でこう述べている。

「恍惚線が私たちに提供するエネルギー。価値、希望、恩寵、美しさ。何にでもいい変えられよう。私たち人類の生存において、食物から摂取する生物的なエネルギーの他に、精神の働きを支える精神的なエネルギーがあるはずだと、私は昔から考えており、その仮説を何十年にも渡って実証しようと試みてきたのである。文学、哲学、芸術、宗教。こうした人間のためにある、あるいは人間がために為す人類の精神的な営みを分析すれば、エネルギー源の存在と正体が判明すると思ってきた。だからこそ私がこの恍惚線を発見した時には、涙を流し鼻水垂らし、四肢のあらゆる部分から喜びが放出されたかのように感じた。恍惚線とはすなわち、あらゆる存在と実在の根底に流れる宇宙の体液である。」

男は、宇宙の体液たる恍惚線の源の存在を仮定し、それを「恍惚光源」と定義した。男はさらに躍起になって恍惚光源の探求に身も心も捧げ、15年の歳月を費やしてとうとう、恍惚光源を見た。恍惚とした気分のみを残像として残しつつも、少々残酷ではあるけれどその記憶は持ち得ない。はずであった。男は、恍惚とした気分を理由もわからずに味わって終わるはずであった。けれども、男が抱いたのは、未だかつていかなる人類さえも感じたことのない絶望と虚無感であった。加えて、理由がわからないときたから、男は出所がわからない負のエネルギーを一気に吸収してしまった。男は、誰にも会わず、何も語らず書かず、独り静かに首を吊って死んだ。遺書すらも残さなかった。
ここで我々は、一つの疑問を感ずるはずである。男は何を見たのか。なにゆえに、男は恍惚に与れなかったのか。

真実を語ろう。男は、恍惚線を逆走してしまったのである。恍惚線は一本の直線であるからしてそしてまた直進し続けるからして、当然、流れには向きというものがある。男は、恍惚線を伸ばし続ける恍惚光源の方へではなくて、恍惚光源がやってきた方へ向かって逆走し、探求し、ついにその果てにまでたどり着いたのである。男が見たのは、自分が辿ってきた恍惚線が、別の恍惚線から分岐したちっぽけな存在であるという事実であった。分岐点に立った男は、自分が辿ってきたよりももっと太い恍惚線から数え切れないほどの恍惚線が分岐しており、自分の恍惚線はそれらのうちのちっぽけな一本に過ぎなかったことを知った。目を太い恍惚線の方へ向けると、さらに真っ直ぐ遠近法の彼方へ伸び続けた暖かな光の線が確認できた。男は悟ったのだ。この太い恍惚線さえもまた、もっと太い恍惚線の分岐した一本に過ぎず、そしてその一本もまた分岐した一本に過ぎず、こうして無限に恍惚線は続いていき、多分、恍惚線の本当の光源は、存在しない、いや、たとえ存在したとしても存在を確認することはできないのだ。ここに男のエネルギーは全て吸収され尽くし、莫大な負債さえ残ることとなった。恍惚線を逆走したのだ、当然の摂理であろう。男が正気に戻った時に感じた、出所のわからぬ負のエネルギーは、男のどうしようもない罪な行動から生じたものだった。負のエネルギーゆえに、男はもはやこの世界にその精神を存在させ続けることはできない。だから男は、必然的に首をくくって自殺したのだ。

ここまで我々は、男の生涯を抽象的に見てきた。この世界の仕組みなど当然、わかるはずもないから、私はいわば比喩的に男の生涯を綴ったに過ぎない。あらゆる物事はその通りに具体的に観察され、記述するべきだ、というある種の実証主義的な主張とはあえて逆の記述を私はやった。論理的に具体的に世界をありのままに記述すれば、神秘は全て無に帰するだろう。有用性と論理性が支配する理性的な世界、それもよかろう。だが、私は美しい世界を望む。論理は論理性ゆえに美しいのではない。自然は自然物の具体性に美しさが宿るのではない。美しさは、抽象性を以って述べられなければならない。私は、この男の生涯をい美しいと思う。だから私は、男に対して最大の敬意を払って、二重性のエピグラフをこしらえた。男の物語の幕は、二重性のエピグラフを以って開かれ、そしてそこへ帰るだろう。これから我々が見ていくのは、この哀れな男の具体的な美しい物語である。