唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

「ある」とはなにか、あるいは絶対性について パルメニデスから

「ある」という概念は一つの機能であり関数である。例えば、人間がある、という時の「ある」は人間という存在がすでに「ある」という前提の上に立って、その存在を「ある」という言葉で呼び出している。すなわち、「ある」は、概念を呼び出す機能と概念そのものを入れておく容器の存在を指す機能の二つを有する言葉であると言える。我々が、ある、とかない、とか語る時そこで語られている「ある」は存在の呼び出しか、存在そのものの前提を指すのか、吟味しなければならない。

そしてまた、最も重要なことを指摘せねばならない。パルメニデス詩篇で語ったように、我々は存在そのものの容器がある、という前提に立たなければならない。この「ある」を懐疑にかけることはもはや、自己の存在そのものの否定にしかならず、そしてまた、容器そのものが「ない」のならば、我々はなんら精神的な活動をなすことができなくなってしまう。確かに、我々の精神的な探究活動は、どこまでも無意味で臆見で誤りであるかもしれない。だが、だからと言って、我々の探究活動を成り立たせる前提たる「ある」を否定し、自己は無意味だとか宇宙は存在しないとか真面目な顔で語って、底抜けの懐疑主義虚無主義に陥ることは、論理性だの道徳性だのの観点から禁止されるべきものではないが、一つの存在の範疇に自己がある以上、禁止されねばならないことである。

一つのイデオロギーや体制や国家や宗教を絶対的なものとして崇拝し、真理探究は全てそこから始めるのだとする絶対主義は歴史が、愚かであったと証明している。だからこそ、我々は、いかなる絶対的な視点をも認めず、あらゆるものを懐疑と吟味の俎上に載せて、批判的に思考しなければならないという、デカルト的な思考の型が埋め込まれている。さらにその型は、科学の力が大きくなり実験と観察に基づく科学的思考こそが真理に近づく方法だとするイデオロギーと、マルクス主義の失敗による資本主義の優位性の確立が生んだ労働と営利上の優位性確保の必要性の肉迫とにより、ますます拍車をかけられている。
が、ややもすると、宗教も思想も信じることができなくなった現代、かつ科学が発達した状況下の我々は、懐疑の糸にくくりつけられて風に揺られる脆くて宙ぶらりんの存在になりがちではないだろうか。

当然、絶対性など断じて容認すべきではない。絶対性に依拠した思考と行動を垂れ流す人間ほど、見ていてムズムズするものはない。例えば、どこかの神様の言う通りに厳密に思考と行動を規定し型にはめて恐ろしい形相で理想を叫び飛んだり跳ねたりする狂信者、また共産主義イデオロギーを崇拝し反対勢力をことごとく非難し自らに対する一切の否定的な意見を受け付けない態度*1が挙げられよう。だからこそ、あらゆるものを疑い、なんら正しいものは存在しないのだとし、信頼できる自分よりも大きな勢力に与するのだと言う奴隷的な考えに陥っても行けないと思う。

もしも何が正しいか、知りたいと思うのならば、対象を多角的に考察するべきである。そのためには、肯定と否定の両方から観察した書物や人物や実験を訪ねなければならない。自分の意見の正しさを証明するための学問や勉強や行動ほど、有名無実なものはない。ポーズをとっているにすぎない。

が、しかし何かを探求するために、たった一つ、妄信的に信じなければならないものがある。先に述べた「ある」だ。言語以前の言語、存在以前の存在としての「ある」は絶対的に信じなければならない、とパルメニデスはいう。「ない」は獣道である、それは、「ない」のならば何事も語ることができないから。

*1:往往にして、彼らは社会が人間の思考を規定し自らはその臆見から逃れ正しさを主張しているのだとの思想を有しているから、彼らに対抗する意見はすべからく発展途上の社会が生んだ誤謬であって、それに囚われている人間をこそ救うべき、と言う考えを持つ。そこまで行けば主義は、もはや宗教となる。