唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

思考の道具、日本語についてのエッセイ

ものを考えるにおいて、多くを学ぶことが重要になるけれど、日本語で書かれた優れた思想書はフランス語や英語で書かれたものに比べて、圧倒的に少ない。だからぼくは、日本語でものを読むことをやめて英語でものを読み考え書くほうが合理的なように思えてしまう。日本語で思考することが果たしてできるのか、外国語の思考を日本語に翻訳することしかもはや21世紀以降を生きる僕ら日本人は学ぶこともつくることもできなくなったのではないか。

こんなふうについ考えてしまうけれど、そして確かにそれはある意味では正しいのだけれど、僕は日本人であり日本語を世界中の誰よりも上手に使いこなせる人間のひとりだ。そのぼくが、わざわざ英語を得意とする人たちの元へ土足でズカズカ上がり込んで奇妙な英語で道場破りを試みるようなものに思える。隣の芝は青く見えるもの。世界標準としての英語の力はコンピューターの力も相まって、ますます大きくなることは疑う余地はない。日本語がこれからどんどん縮んでいって、広田先生よろしく「滅びる」日が来るのかもしれない(実はぼくは、十中八九滅びると思う。ぼくが生きている間に突然機器が現れたように標榜するマスコミと国家の困った顔が目に浮かぶ。当たり前じゃないか。日本語でものを考える力を養う人文科学を縮小して、英語教育とプログラミング教育の拡充を図り続け日本史を教えることをやめ世界史に切り替え、実利しか顧みることのない教育方針をとった責任と付けは必ず払わないといけません。国を物質的に膨らますことばかりに目を向けて、肝心の精神的に膨らます努力を怠った国の人たちは野蛮な人間に成り下がること間違いありません。手に職をつけて暮らし向きをよくすることは大切ですけれど、単純にどう自分が動作すればより大きな利益を集団や自己に及ぼせるだろうかという合理的な考え方しかできない人間は、自己と社会の歯車になったも同然ではないでしょうか?大切なことは、何が善いことか正しいことかをきちんと秩序立てて考える力であるべきです。お金を得ること、お客に満足を与えること、提供するサービスそのものが社会的に歴史的に正しいか善いことか、こうした大局的な視点に書欠くならば、現在とイマココの奴隷になったも同然です。時間と空間を超えた思考を展開できない人間を愚かな人間というのではないかと思います。
「責任とつけ」、とぼくはあたかもさも失敗したかのようにいましたが、成功したならば国はますます発展し、あの時の政策と方針は正しかったと賞賛されるのもあなた方ですからご安心なさい。)。

日本という国家が尊敬するに値しないものだということは歴史を見ても制度を見てもすぐに分かります。第二次世界大戦の日本帝国の愚業は上げても挙げ尽くせません。そのあと、日本は変わったのだと言いますけれど実は全然何も変わっていません。官僚も政治家も当時の日本の未来を正しく予想できなかった人たちが実はそのまま政治の椅子についています。いえいえ、これは当然のことで、政治の素人が突然国を動かすようになることの方が空恐ろしいことではありますし国が根底からひっくり返した経験が僕ら民衆にはありませんから当然体制は変わりません。
要するに、日本という国は明治維新以降なにも変わってはいないとぼくは思います。(一番いい例が特高警察でしょう。彼らはそのまま権力を引き継いで公安警察になりました。)そんな国をぼくは尊敬しようという気にはなりません。具体的に申せば、ぼくは日本という国に服従はします。法と憲法を遵守します。が、命令は一切受けないつもりです。ひっくり返そうとも思いません。革命は必ず戦争を生みます。戦争は最も人間を隷属する愚業で何があっても避けなければならないからです。たとえ、正当な防衛であったとしても、暴力を行使されたとしても、力で以って反撃することは断じてやってはならないと思います。
じゃあ日本という国家ではなくて、文化はどうなんだ、という問いが出ましょう。国というのは、国家機構と文化的な概念の両方を含んだ言葉ですから。さて、日本の文化を見たとき、なるほど芸術は素晴らしいと思います。仏像や寺院や庭園や自然、短歌や和歌や俳句、美しいかな文字で書かれた物語も鈍重な趣を持つ漢文も立派でいい。文学だって、夏目漱石太宰治ら文豪をあげるまでもなく、多彩な擬音をもってまた複雑な敬語や言葉遣い、慎み深い感情のない奥ゆかしさを描く物語(I love you.を和訳するとどうなるかと問われた漱石は、「月が綺麗ですね」くらいなものだと答えたという例がよく物語っています)をぼくは好きです。けれども、それは芸術として日本文化を見た時の話です。こと思想に関して述べればお粗末極まりない。ぼくは日本の思想を調べるたびに猛烈な吐き気に襲われす。日本の思想は潔癖のです。名前はあえて出しませんし言葉にすらしたくないほど嫌いですけれど、簡単に一言で日本思想を述べるならば、排外的で潔癖なものといえば足りるでしょう。日本の思想は、選民的な民族思想でしかなく、自分たちの民族とか国家とか天皇を正当化するためになされた必死な試みであって、個人とか広い視野とかには一切関心がありません。関心があるのはただ一点、集団の利益と名誉。まったくもって、日本思想は自己を正当化することしかせずに、否定作用がなされていません。人間の思考は、肯定と否定とを交互に行いながら発展していくものだと思います(芸術は強い肯定作用だけでも発展し高みに登るでしょうけれど)。この否定佐用を欠く日本思想は思想ではなく宗教に過ぎません。いえ宗教が悪いというわけではなくて、思想と宗教は相互に否定と肯定の作用を与え合ういわば兄弟みたいなもので、片方がかけたならかなり大きな違いが出るいうものでしょう。

結構です、長々と訳のわからない文章を綴ってきました、ぼくは今論文を書いているのではなくてエッセイを書いている気でいます。長い文章、実はぼく大嫌いです。気の利いた短い警句を積み重ねたパンセやカイエこそ思索の果実のあるべき姿理想像だとさえ思っています。だのにどうしてこんなに長々と書き散らしているかといえば、正直ぼく自身の思考がだいぶん混乱しているからなんです。昨日、日本語最高と考えてドイツ語にフランス語も英気味勉強しなくて身構わないぞと意気込み古典文法の勉強を始めたかと思えば、今日はこうして日本語がダメだと書いているのですから。もっといえば、一昨日ぼくは日本語万歳主義を歌う文章を英語でノートに書いたほどです。
で、まあなんと言いますか結局の結論として言えることは、目の前に、ぼくが日本人であって日本語で思考せざるを得ない、という事実だけが立ちはだかっているということ。そして日本人であることすなわち日本語で思考する人間に生まれついた運命は、決して変更し得ないということ。そして最も重要な悲惨な悲劇的な事実は、日本語の過去に渡る思考の蓄積は西洋のそれと質的にも量的にも遠く及ばないということ。そしてアルファベットの権力は情報化と国際化が叫ばれる今と未来、拡大し続けるということ。もっといえば、日本語はだんだん辺鄙な場所へと追いやられついには「おはよう」「こんにちは」レベルの低次元の思考だけが行われる単純な言語に成り下がってしまうこと。ぼくはこうした運命と言いますか予言と言いますか、大和魂とか愛国の心とか忠君の思いとかいう難しい感情からでなく、単純に自分の母親がだんだん衰弱していく様を見ているような苦しくて悲しい気分になってしまいます。
ほんとうは、まだ間に合うのではないか。病床でうごめく母を見捨てイケイケな若者連中と酒でも飲んで騒ぎたい衝動との間で迷っているような気分なのです。いやまだ間に合う、間に合わせてみせよう。

日本語が生き残るためには、日本人が外国語で思考を展開したり芸術作品をつくるのではダメだ。日本語で驚くほど強力な思考を展開するかもしくは美しい文学作品を作り上げねばならぬ。学んでまで読みたいと思わせるような思索を日本語に受肉させる必要がある。明治維新日清戦争日露戦争の栄光に入り浸っている余裕が果たして日本語にあるのだろうか。ない、と僕は思う。今ぼくの目の前で母語である日本語が死にかけている。思想としての古典を持たないだけでなく、民衆すらも自国の文化よりも外国の文化を大切にし始めた。いやそれは悪いことではない。無理やり日本文化は外国産のよりも素晴らしいと調教して省みらせる行為ではなくてむしろ、帰り見たくなるだけの文化をつくるべきだ。いつまでも日本文化は外国文化に劣らないのだとかアイデンティティがここにあるではないか、などと誰も気がつかない芸術に深遠なるものをどこぞの和辻哲郎見たく追いかけたって、一体どこの誰が日本文化にハッと気づかされ理解し惹かれるようなことがあろうか。彼らが躍起になって行った過去を美化する努力が取ろうであるとは言わないけれど、それで何が変わるのかぼくにはわからない。解釈と整列で過去そのものを変えることはできないし、どれだけ過去を掘り漁ったとてホメロスプラトンアリストテレスも発掘されることもなかろう。過去の箱を重箱の隅をついて対西洋思想用の文献が出てきはしない。

もう、西洋も東洋もない。あるのは今この瞬間の我々の意識の運動だけである。我々が何を日本語で思考し受肉し身体化できるかにかかっている。ほんとうに、過去と西洋ばかりを恍惚として見つめていても今も未来も変わらない。西洋の思想家や芸術家が我々日本人と隔てるものは、未来を創造しようとする意思と熱情と、真なるものと善なるものと美なるものへの愛を持っているかいなかのみである。過去の不在は確かにあるが、我々は150年に渡り西洋の優れた芸術と思想を日本語へ翻訳してきた。たとえそれが完全な変換と言えずとも、だ。プラトンをヘルメスを言語で西洋人は読んだか?アメリ人はフランス文学や哲学を言語で読んだか?パースは?ピアジェは?言語ではなくたぶん精神の問題だ、日本人の隷属精神を何としても打ち砕き、自由と真善美への愛とに満ち満ちたものへと変える必要がある。アルファベットと感じ平仮名の間に差があることは確かだしぼくも表音文字表意文字の違いがあることは認めるが、故に劣っているとするのは結果しだいではないか。過去だけを見て判断してはならない、西洋語が日本にやってきてまだ150年だ、これから先100年200年後に、やはりアルファベットのほうが優れていたと判断するのならいざ知らず、創造する権利と変革する自由があたえられているにもかかわらず否定へと逃げ込むなど断じてあってはならぬ。未来を創造するのみを手にして何も掘らぬ惚れぬと言うは愚かと言わざるをえまい。日本語で哲学をするもの現れよ。日本語で芸術を為すもの現れよ。かつての日本人哲学者の言葉である。

 

注 たいへん大きくて強力な台風が大阪を襲った。ぼくは大阪に住んでいるわけではないではないけれど、その翌日つまり今日たまたま大阪へ所用で出かけていた。果たして、電車が止まったのである。二時間、車内で退屈な時間を過ごさねばならなくなった。良識と余裕を持つ誰しもが経験することとは思うけれど、遅れたり止まったりした交通機関の中にいる人々はイライラムカムカするものである。ぼくもその例にならいてイライラムカムカしてきた。加えて暇ときた、手元にはスマートホンとそこからにょきにょきコードを伸ばすイヤホンである。こうなったらば、もう怒りを文章に書きなぐってやろうと、混み合った車内スマホを片手にショパンの英雄のポロネーズのような激しい曲を聴きながら久しぶりに記事を書いた。ので、誤字脱字や偏見が多々見られるが、これも公共交通機関の遅延がしからしめた偶然の賜物だ、ということでそのまま載せることにしたのでどうか、ご容赦ください。