唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

知性主義と反知性主義、すなわち意識高い系について

むずかしい言葉をたくさん並べ立てて、あるいはエライ学者先生や歴史上の人物を呼んできてしゃべってもらう。たとえば、こんな文章。

言うまでも無く、フランスの哲学者デカルトはその方法序説の第一文をこう始めている。「良識はすべての人間に平等に分配されている」。ここでいう良識とはすなわち、哲学上の理性をいう。デカルトはこの理性を絶対的なものへと方法的懐疑によって高め、これを第一の原理として推論と演繹を繰り返し行い、絶対性から相対性へと分化させていくことにより、その正しさを確かなものとして保証しながら、われわれの持つ知識というものを再び立て直すことを宣言したのである。いうまでもなく、哲学から自然科学が独立分離した瞬間である。いわば、分配された良識故に、神に頼ることなく、ある一定の方法をたどることでいかなる人間であっても、真理を追究することができるようになった、とした。
さて、このデカルトの良識は、一見すると人類史上、西欧文明を飛躍的に加速させ世界的規模にまで拡大した人類文明の根底に流れる血液であるからして、理性の目覚め、革命的な大発見であるように見える。いままで、神への信仰に依存したなんともたよりなくしかも、自己の外の存在に真理の基準を打ち立てざるを得ない不安定な、いうなれば、教会的権威によってどうとでも真理を創り出すことができるともいいうる状況に置かれていたのであるから、そこからこの理性を起点として思考を展開していく方法論の樹立は、「進歩」に見えた。なるほど確かに、このデカルト的近代の幕開け以降、人類の工業生産力は飛躍的に向上し、生活は便利にさえなった。さまざまな仮説が打ち立てられ、そこからテクノロジーが生まれ、我々の日常生活を急激に変化させた。デカルト以前の人間の思考と生活とをいま、現代人が振り返り見たとき、なんとまあ未熟なものかとおもわれさえする。現代の科学の正しさとはまったくことなる、神や聖書などという曖昧な基準を元に世界を観察し理論を打ち立て解明したと考えていたのだから。
だが、私はこのデカルト以降急速に発達した理性中心主義における科学が、それ以前の神を中心に置く考え方に勝るのだ、とは思えない。それどころか、私からしてみればその二つはその本質にあるのは全く同じものでさえ思われるのである。・・・

こんな感じでなにをいっているのかさっぱりわからない文章を目にする。こんなことを話す人さえいる。なにか、頭の良さを誇っているような話に思える。こんなにむずかしい文章を俺は作れるのだ、こんなにエライ人のむずかしい思想を俺は知っているのだ、どうだこれぞほんとうに正しいことなのだ、といいたげ。これは哲学について語った文章だけれど、ほかにも、社会学や心理学、政治学等々、おおよそ学問と名前のつく書物を開けば、こんな文章がぎょうさんアリガタイダロウと言いたげな風に豆粒くらいの文字で細々と印字されている。
で、こうした学問に従事する人たちは、むずかしい言葉で文章を書いているくせに、こんなことを言ったりしている。
「本物の学問により多くの市民が興味を持ち、学び、日常生活に生かすことが重要である。また、我々いわゆる研究者もできるだけ平易な言葉でわかりやすく親しみやすく研究内容を伝える努力が必要だ。」

学問は一種の権威を持っているように思う。正しさ、という点でピラミッドの頂点に立つのは学問だから、学問をよくする人は偉いのだ、という主張が見える。とくに、哲学に関してはこれが顕著だと思う。哲学書というものは、はっきりいって、さっぱりわからない。ぼくはすこし趣味で哲学を勉強しているけれど、哲学書も哲学書の解説をした本もむずかしい。もっと簡単なものはないか、と探してみると「ビジネスに役立つ」とか「エリートなら知ってる」とか「幸福になれる」とか、どうしてもへんてこりんな目的を溶接したような本ばかりが出てくる。目的があって、その目的に合うようにむりやり、哲学者の言葉を検索してとってきてくっつけたような本に見える。「名言集」とかはほんとうに、その哲学者の思想と切り離して詩集みたいなあつかいで哲学書の言葉を拾っているように見える。

そういう学問が持つ権威を否定して、もっと楽しい娯楽や現場の声こそが正しいのだ、とする主張もある。これを、学者の皆さん方はあろうことか「反知性主義」などとお呼びになっておられる。あたかも、知性主義こそがただしくて、それに抵抗する反知性主義ともとれるし、知性の反対のものを求める主義ともとれるけれど、どちらにしても、知性が素晴らしいのだという考え方が透けて見える。

知性が素晴らしい、という考え方はほとんどの人たちにとって正しいと思われていると思う。小さいときから、勉強ができる人はエライと教え込まれてきた。学校だって、勉強ができるかどうかで上下が振り分けられた。知性が優れている人間が偉いのだ、という価値観があると認めなければならないし、社会もそういう価値観の元で動作している。

さて、この知性主義に対して、いや偏差値だけが人間の価値じゃないよねほんとうの人間の価値を決めるのはその人の積極性とか自主性とか熱意とか知り合いの多さとか、そういう人間的な部分だよね、という考え方が大きくなりつつある。経験を積むべきだ、という主張。いわゆる「意識高い」といわれるような考え方。どうしても、ぼくが大学に通って2年間になるけれど、この考え方がとても巨大になりつつあるような実感がある。これを、便宜的にここでは反知性主義としておこう。大学の授業、実際社会に出ても役に立たないよね、学問じゃなくてもっと実践的なインターンシップとかプログラミングとかのほうがいいよね、などという点で一種の反知性主義といえるとおもう。

この反知性主義が否定する知性とは何か。
ぼくはおかしいと思っていた。これまで必死に受験勉強に励み偏差値を気にしていた人たちが急に、大学の授業に興味を示さなくなっていくことに。かれらは大学入学前は、知性を磨くことが優れたことだと思っていたのだろうけれど、大学に入った途端、知性よりも磨くべきものがあると思ったということになる。
さて、ここでいう知性とは、なにか。
学校で磨いてきた知性、それは、いかに世界をよく知り解釈できるかという類いの学問的な知性のことではなくて、より高い社会的地位を得るために有益な道具としての知性であったようだ。勉強ができるというスコア的な知性が高ければ高いほど、社会的に承認される。つまり、彼らが例えば、高校合格、大学合格において他者(親や親戚、先生など)から褒められた理由は、彼らが学問がよくできる人だから、ではなくて、社会的により高い地位を得たから、であったと考えられる。

大学は、社会的地位の最終到達点である。だから、もうこれ以上、知性という便宜的な道具を磨く必要は無い。知性の目的であった社会的地位の獲得のためには、今度は、よりよい会社に入らねばならない、もしくは、より大きな収入を得なくてはならない。そういうわけで、そうした自分の目的を達成するために、自分がなすべき琴は何かと賢い若者は考える。そして、結論を出す。大学に出て学問的な「知性」を磨くのではなくて、社会で必要とされるの能力を磨かなければならない、と。

そこでさらに考える。社会で必要とされる能力は何か。そこで、書店の自己啓発本だのビジネス本をあさり、これからの時代に必要な能力という類いのノストラダムスの大予言的な予言の書を、ホリエモンやら落合陽一よろしく買いあさり、予言の書のいうとおりにブログを始めSNSをはじめ、発信だの交流だのを称した一大ネットワークの構築に精を出す。そして、勉強と称してたくさんの人とたくさんの話をするのだと意気込み、「積極的に」会うアポイントメントを取りまくり、挙げ句の果てには、ヒッチハイクの旅にさえ出る。

とまあ、これが反知性主義のトクチョウである。彼らは学問的な知性よりも、社会的な能力を磨くべきだと考えてそのために行動する。そして、大学は自分たちのニーズを満たしていないから、もっと社会とのつながりを深めてより実用的な教育をすべきだと主張してアメリカのアンタープレナーシップ教育だのを引き合いに出しつつ批判する。大学のあるべき姿は、より人々に益する教育をすべきなのだ、とこういうわけだ。


ぼくは、反知性主義的な行動をとる人たちは合理的で賢い人たちだと思う。こういう人たちが就職で高く評価されて、より大きな生涯賃金を得るのだろうと思う。計画的で、未来志向で、先進的で、効率的で、人生を楽しむことができるだろうと思う。何にも間違ってはいない、意識高い系などと揶揄されて非難される筋合いはあるまいし、たとえ非難されたとしても、フフンと鼻で笑いでもしておいて、結果で示すことになるだろう。なにせ彼らが意識高い系と揶揄されるのは、そのエネルギーの大きさと行動力ゆえであって、注いだだけのエネルギーは必ず何らかの形で結果として帰ってくるだろうから。ドリーム・ブレーカーは無視すべきだ、とはよく言ったものだと思う。

が、ひとついうべきこと。正しさ、という点において、反知性主義的な人たちは知性主義的な人たちに劣る。これだけはいっておかねばなるまい。ぼくは時折、いわゆる「意識高い」立場から世の中の正しさを説く人がいるのを見て、身の毛がよだつ思いがする。一体どういう立場から、正しさを説くのかぼくにはさっぱり理解できない、挙げ句の果てに、道徳や生き方まで説き出す始末、これは堕落というほかない。名誉や効率性や自分の夢を追いかける点において優れた人たちが、どうして、他者の生き方や道徳における正しさを語るのか。ぼくは疑問に思う。

正しさを経験的に導き出して主観的に語る分には何ら問題は無いのだろうけれど、それを誰にでも適応すべき論理として説きだし、果て、主義者まで出てきた日には、もう、こんな国は破滅の一途をたどるだろう。理由。正しさの源に、実業家だの起業家だの成功者が置かれた国においてどうして、国が正しくあることがあろうか。正しく生きるのだという正義を欠く人間、自らの幸福を追い求め、自らの内側の都合を調整する人間、世論の中庸的意見をそのまま受け入れて以て正義とする人間が大量に発生し、国を動かす時代が到来した瞬間、この国はなるほど商業的に金を儲けることには何ら不都合はないだろうけれど、こと正義に関しては強者の権利が適応されることになろう。また、たぶん、これはひょっとするとぼくの偏見かもしれないけれど、そういう人たちは、教養のは幅が狭い。大衆娯楽にはよく通じて、ブランドバッグやアニメや映画やポップミュージック、ドラマや芸能人などといったコンテンツにはたしなみはあるけれど、文学作品や絵画やクラシック音楽などいわゆる古典だの芸術などと言われるものにはほとんど触れることはない。こっちが本物であっちが偽物という気は無いけれど、片方にしか素養が無い、狭い人間であることには間違いはあるまい。

結論。
なるほどたしかに、ぼくらには平等に良識が分配されているけれど、良識で判断できる範囲は自分と近しい事物でしかない。だから、ぼくらは教育をうけて、様々な物事を知ることで良識が移動できる範囲を広げて、できるだけ中庸をとるように教えられてきた。にもかかわらず、偏った物事ばかりを絶対的なものと見なす傾向が、知性主義にも反知性主義にもある。ほんとうに、知性のあるべき姿というものは、両者の中間にあるべきであるから、両方に通じるべきではないか、と思う。
ある教授。「ニュースも新聞も見ません、芸能人も知りません、映画も見ません、時間が無いのです。」
これではだめだ。
ある学生。「学問むずかしくてつまらない、やる意味ない、大学行く価値ない、インターンでもしてたほうがよっぽど有益だ。」
これではだめだ。

ぼくが思う理想。
どちらともつかない宙ぶらりんの状態に自らを置くこと。何色にも染まらない、白でも黒でもない、無色透明。
検討すべき。