唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

実在と存在について 世界を情報化するということ

定義
実在→実際に在ること。知覚可能な事物。この世界をxyzt軸座標とするのなら、その座標上に点をうつことができる物。動詞で使うのならば、点をうつ行為。例。犬が目の前に実在する。目の前、東経何度北緯何度何月何日何時何分存在せり、と確定する行為一般と、行為がなされたものを指す。

存在→実際にはあらぬ、もしくは、あるとは言えない事物。実在とは異なり、xyzt軸座標で定義できないもの。目に見えないが、確かに、頭の中にあるもの。例えば、神。神は実在しないあるいは実在するかもしれないがそれを証明できないが、存在する。頭の中に描き出すことができるから。ペガサス。この世界には実在しないが、想像上に存在する。アニメのキャラクター。

世界は二つに分けられる。物質的なものと、精神的なもの。
人間を心と身体の二元的に分けて考える、デカルトよろしく心身二元論を世界そのものに適用すれば、世界も物質的なものと精神的なものとで分けることができる。
この目の前にあるペンとインク瓶は、物質的なもの。
ぼくがいま頭の中に描き出したペガサスは、精神的なもの。
このように、実際に、三次元の世界においてxyzt軸上に点をうつことのできる実在を全て包括するカテゴリとして、物質的なものを置くことができる。
また、これとは逆に、三次元の座標上に点をうつことができない存在を包括するカテゴリとして、精神的なものを置くことができる。
ギリシア時代以降、人々は、実在を含ませる物質的なカテゴリを形而下学、存在を含ませる精神的なカテゴリを形而上学とよんで来た。

かつては、神の存在をああだこうだやる神学的な学問、世界の仕組みや人間の構造を言葉と論理で解明する哲学が大きな力を持っていた。つまり、形而上学が強力なものとされ、形而下学は職人による技術として軽蔑され形而上学の下に置かれていた。
人々は、物質的な形而下学よりも、精神的な形而上学を重視し、膨らませて発展させて来た。

けれども、デカルト近代以降、科学と科学技術の発展は目覚ましく、ついには形而上学は、形而下学の下に置かれるようになった。
つまり、これまで形而上学で神を前提に体系化されて来た人類の知は、仮説と背理法を前提とする科学的手法の下に成立する形而下学の知に、塗り替えられていった。
形而上学の知識は、形而下学の知識に比べて、実際に実在を変化させたり、日常生活に応用できないという点で劣っていたのだ。
形而下学の知識は、世界に対して変革を意図的に起こすことができた。

形而上学が、神の存在を公理として絶対的なものとみなして出発する一つの系であるのに対して、形而下学は、人間の理性を絶対的なものとみなして出発する体型であった。つまり、どちらの学も、知の出発点として、根拠なしに正しいとみなす公理を所有しているという点では共通しているが、形而上学は神を、形而下学は人間を公理としているという点に違いがある。

問題。神の存在を否定する論理は存在しない。神は存在するという論理も存在しない。だから、神が存在するかどうか、我々人間にはこれから先も永遠に知り得ないだろう。にもかかわらず、神の存在を否定する、あるいは無視する形而下学が正しいものでありうるのはなぜかと考えてみるに、その実用性以外にはあり得まい。
科学の知識は、その実用性ゆえに正しいとみなされている。何回何百回繰り返そうが、全く同じ結果になるアルゴリズムを解明し構築する、このアルゴリズムこそが正しさの根源である。

つまり、科学の正しさとは、実用性に根付く正しさである。
逆に、形而上学の正しさは、人間の存在を精神的に支える正しさである。神がいるかいないかを解明することが形而上学の使命なのではなくて、神の存在から出発してどれだけ人間の精神(論理的な思考や美的感覚を含め)にとって心地のよい知識の体系を構築しうるか、という場所に形而上学の正しさは帰着する。

そういうわけで、形而上学の正しさと、形而下学の正しさは、全く次元を異にするものであるといえ、双方に非難しあうのはお門違いというものだろう。
二つの正しさが交錯する場所がある、その場所は、人間の精神という場所であろう。

形而上学は神の存在から人間の精神的な存在性を確固たるものにする正しさを人間の精神に供給する、そして、人間の精神は実在に対して様々に分析、アルゴリズムの構築と実行を通じて実在に働きかける形而下学を構築する。
こうして、二つの学は、人間の精神で交差するのである。

 

 

課題。形而上と形而下を繋ぐ媒介となりうるものは、あるのだろうか。

形而上学も形而下学も双方ともに、構築のために使用される媒体は、言語である。
言語は突き詰めて考えるならば、つまるところ、情報の入れ物である。だから、言語は情報を伝える機能(function)を持った関数であると言える。
犬、という言語は、犬を存在として人間の思考へ送り込む関数である。
犬、という言葉は、犬という実在と存在、という情報を内包する一つの関数である。
すなわち、あらゆる文章は、情報が身体化された媒介物だと言える。
また、我々が、例えば、黒い犬を見て、「黒い犬がいた。」とノートに綴ったとしよう。このとき何が起きているか、それは、黒い犬という実在が情報を人間の精神に供給し人間の精神がその情報を言語の形をとって身体化させたと言える。
つまり、ここで生じたのは、情報の移動という現象である。

世界のありとあらゆる実在は、情報体であると言える。
我々は、情報体と接して、情報を受け取り、その情報を存在として精神の中で様々に加工し、記述したり後述したりすることで情報を身体化している。

ここに、実在と存在の交流が見られる。
科学的な記述とは、一定の方法論を用いて、人間の精神的な存在を、実在にできる限り近づけて身体化する行為である。実験や統計など。
また、哲学や宗教は、存在を存在として身体化することで、実在たる人間に存在の側から変革をもたらそうとする行為である。

この意味において、分析哲学は、存在であった学問体系をできるだけ実在に近づけようという取り組みであるように思われる。
人類は、近代以降、存在を実在に置き換えてきたし、これからもどしどし置き換えていくだろう。
そして、科学的だの論理的だのという言葉は、実在を正しいものであるとする盲目的信仰のもとに使用され、哲学的だの詩人的だのという言葉は、存在を正しいものとする妄信的信仰のもとに使用される(しばしば、実在側から存在側を非難する常套句として使用される)。

もし仮に、人類が、形而上学から形而下学へと発展したその次の段階があるとすれば、人間と世界を情報として取り扱う意味での情報学への進展ではなかろうか。
ありとあらゆる世界と人間を情報として取り扱うこと。
電子書籍やウェブやビッグデータやコンピュータシュミレーションなどに、その傾向が見られる。
現在、第5次産業革命が進行中であり、これから人類が保有する情報は、かつてないほどに膨大なものとなる。
その情報を、量として扱うのではなくて、質として扱えるかどうか。
単なる商業的な、人間観察的な部分にのみ注目されているように思えてならない情報産業とはまったく違った思考を展開すること。
情報を金なる木見たく扱うのではなくて、情報を一つの関数として扱い、あたかも世界や人間を電脳世界的に扱うこと。

 

....とまあ、こんなふうに最近考えていて、本を読んでいても文字は所詮情報の入れ物である道具に過ぎぬとか、「空が青いな」と考えたとき、この思考は所詮情報の操作でしかいないと考え、あの青い空は、「空が青いな」と考えを抱かせる一つの関数であるに過ぎないのだ、とか考えてしまいます。
そういうわけで、結局、生きるという行為自体、情報を食べて排出する行為に他ならないのではないか、と考えてしまう。
が、ところが、もう一つの機能が人間には備わっている。
体を使って、世界を変革すること。例えば、目の前の椅子が壊れかけている、これではいかんと思って、ドライバーを持ってきて、椅子のネジをキュッと締めてあげる。すると、グラグラしていた椅子は、飛び乗ってもビクともしなくなる。
また、竹の木を一本切り倒してきて、その竹を上手く加工して、コップを作ったり置物を作ったりできる。
このように人間は、単に情報を獲得して操作する情報体として以外に、労働という行為を通して実在に影響を与えることができる。

つまり、どうしても、実在と存在の結びつきを大きく広く素早くすることが極めて重要になってくる。そしてそれは、形而上学と形而下学のつながりに他ならない。人間と世界の間(media)を探求する必要がある。だから、そのために一旦、人間と世界、形而上学と形而下学を一つの基準の上で、情報をいう媒体に全て変換して、その間に何があるのかを調べる必要がある。

けれど、結局それは、熟練した職人や芸術家の、言語化不可能な技へと帰着するのだろうと思います。
それをどう、情報化するか。課題。多分、脳がどのように記憶を保持し処理しているかに関わると思う。犬、という言葉を見て人間がみんな例えばab波が流れるとするならば、ab波を流してやれば、犬という情報を言語を介さずに伝達することができたことになる。

けれど、すると、なかなか味気がない気もします。