唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

オリンピックのボランティア かつての戦争 想起する

「生きのびることが唯一の執着となる。一切の執着が生への執着に取って代わられるとき、極限の不幸が始まる。」シモーヌ・ヴェイユ

ぼくも詳しくは知らないけれど、賃金を払うことなく時間と労力を国が無償で国民から調達する、ということはどうも確からしい。そこで得られるやりがいだとか、喜びだとか、経験だとか、どれだけボランティアをやることが素晴らしいことか、というプラスの側面をぼくは否定する気はないし、たぶん、実際やってみないことにはわからないのだと思う。これからぼくが書こうとしているのは、マイナスの側面についてだ。

ものごとのいい面を取り上げてああだこうだいったところで、取り立てて利益はない。物事を賛美する場所に美しさは生じようけれど(宗教画とか詩歌だとか)正しさは生じない。正しさは誤りを見いだしてこそ、生じうる。批判精神を失ったものに進歩はあり得ない。
はじめにぼくの立場を明らかにしておくと、ぼくは東京オリンピックのボランティアに何らの価値も正当性も見いださない。見いだすのは全体主義、想起するのは国家総動員法だ。

 

問題の分解。第一、日本人なら東京オリンピックの成功を願うべきという命題の肯定。第二、人間の「空白」へ機会を投げ込み服従を自主性へとすり替える

 

まず第一に、東京オリンピックの成功を願うべき、とする命題について批判したい。スーパーに並ぶ商品のパッケージにも、コマーシャルにも、宣伝広告にも、オリンピックゴールデンパートナーです的なロゴが入っている。また、「2020成功させよう」と耳が痛くなるほどに、宣伝されている。

一体どれだけの人々がこの、コマーシャルなどで喧伝され自明な公理とされつつあるこの命題を疑ったであろうか。想定される根拠。日本国民であるから。日本人だから。日本で行われるから。
日本国民ならば、日本人ならば自分の国で行われる東京オリンピックの成功を願うべきだし協力せねばならないという暗黙の強制がここに見られる。すべての日本人が東京オリンピックの成功のために団結して力を注ぎ、2020の感動を手にしようというスローガンがいま大きくなりつつある。そして、東京オリンピックの成功を願わない、また協力しないなどという態度は、日本人としてあるまじきものだ、という命題がここから導出される。この傾向は、東京オリンピックが近づくにつれてますます顕著に拡大していくだろう。

現在、どうして無償で協力しないといけないのかという非難はあるけれど、その非難は対価と報酬が釣り合っていないという類いの非難であるから、東京オリンピックの成功と自分の歓びが一致し報酬が生まれ大きくなり、さらには世論全体がオリンピックの成功を願う一色に染まるだろうから、オリンピックが近づくにつれてあからさまに非難することが難しくなる。
オリンピック成功の本質は、国民意識の高揚である。スポーツの国家的イベントの成功を国民として願う態度と、政治の国家的イベントである戦争の成功を国民として願う態度が、ぼくにはどうしようもなく本質的に同一なものに思える。ぼくは、オリンピックというものが自分の国で開催されるのは初めてであるから、オリンピックが近づくにつれて盛り上がる国と国民を見るのはこれが初めてだ。たぶんぼくはそこで、戦争へ突き進む国の国民意識の向上と協力体制の樹立とおなじものを見ることになるのではなかろうか、とビクビクおどおどしている。

そもそも、ぼくはスポーツ観戦などで、自分の国だからという理由で外国の選手よりも日本の選手を応援することや、バレーや野球やサッカーなどでニッポンチャチャと応援することに、どうも違和感を感じてしまう。テレビに映る選手が僕の知り合いならばまだしも、どうして話したことすらない縁もゆかりもない人間を自分の国の国民だからという理由だけで応援しなければならないのか。逆に言えば、どうして日本の国民ではないからという理由だけで敵とみなさねばならぬのか、と思ってしまう。これと同じ論理がオリンピック開催においても成り立つ。隣の国の北京オリンピックの成功を祈ったりリオオリンピックの成功のために何かをするということをしないのにもかかわらず、自分の国で開催されるただそれだけの理由で、どうして成功を祈らされ無償で労力すらも提供せねばならないのか、という根本的な疑問がある。

で、実はその疑問自体はとてつもなく愚問であって、自分の国だからというたった一言の回答で十分に満足される答えとなり得るのだけれど、その疑問を提起し回答を自らに与えたかどうか、が極めて大きな意味を持つ。この疑問と答えの道をたどっておらず盲目的に国民意識というものを持ちその存在すら自覚していない国民の数が多ければ多いほど、その国は大衆的な国家となるだろう。自分の国のために何かをなすことは悪いことではない、しかし、その行動が国のため行っているのだという意識を持たなければならないと思う。
この意識さえあれば、その行動が本当に国のためになるのかどうか問うことができる。また、自分の国に焦点を当てて思考しているという自覚があれば、そのために排斥された他国の存在に気づき気遣うことができる。要するに、自分の国を愛するという愛国心は主観的なものだけれど、その主観性を批判する客観性を持つことが、健全な愛国心のためには必要不可欠だと思う。肯定にばかり突き進む精神は病に冒されている。

さて、オリンピックに戻る。オリンピックは果たして愛国心の対象となり得るか、どうか吟味すべき。国の発展に益するか。経済効果。オリンピックが行われれば、お金がどっさり国に流れ込む。日本にある会社が儲かる。日本企業も、そこに支社を置く海外企業も儲かる。税金が国に入る。この論理、果たして、国のためになるのだろうか。
感動。果たして、スポーツが盛んな国というのは、日本が目指すべき国なのか、いや、スポーツが盛んになると国は強くなるのか。名誉、日本人選手が金メダルを何個取ったかで、中国と争う実況解説者がテレビでペラペラしゃべってた。こんなことが、愛国の対象となり得るか。

否、だ。日本という存在が存続すること、その存在性がより本質的に確固たるものになるかが愛国の基準となるべきだから、国にお金が入るだの、日本の名前が海外で有名になるだの、どうだっていいことだ。また、日本人選手が育成されるなど、ますますどうだっていい。彼らがその競技をやっているのは、その競技に対する愛ゆえだ、いわば、趣味と同じであるし、仕事としてやっているのだ。どうして、町工場の職工や芸術家と差があるといえるのか。
僕らがオリンピックに協力したとしても、愛国の名に値しない。
商業的な金銭的な行為に対して、無償で協力するいわれはあるまい。

それでもやりたいと思う思考論理について。
たった一言で十分だ。隷属。
真空。私たちはそれを持つ。何かしたいが何をしたいともいえない感情。暇だなと思うとき。退屈だなと思う。その感情を生み出す、真空。なにもあらぬ、満たしたい。あらゆる情念の原因。
真空は、満たされることを望む。問題は、何で満たすかだ。

満たす。ぼくらは、真空を満たすことで生きている。真空を満たすためには、外から何かモノを取り込まなくてはならない。問題は、その取り込むモノが、低劣なものであるか、高邁なものであるか、だ。

オリンピックのボランティアは、低劣なものである。明確な目的と動機が最初からあって、それを満たす手段として、オリンピックのボランティアを自己自ら選択したのならば、それは、真空を満たしたとは言わず、願望を満たしたというべき。そうではなくて、何にもない退屈さと虚無感を隠すために真空をないことにする現実逃避的な行動、これを真空を満たすという。オリンピックのボランティアは、低劣だ。真空を満たす、というよりも、隷属しているという方がしっくりくる。

なにもない、だからとにかく、国民的な行事にボランティアとして参加しよう、そうすれば自分になにもないことを上手に隠すことができる、という日本人的(たくさんの人間が自殺する、精神的に貧しい、金はあるが思想なき国、日本)な論理である。これを知っての上で、あえて、オリンピックという行事のボランティアを無給にしておいて、また、国民意識の高揚を煽っているようにしか思えない。

なにも、国だとか、国民だとか、企業だとか、実行委員会が悪いのではない。非難されるべきでもない。これは、一種の、重力的な自然法則だ。人間が精神的に困窮したときに起こる法則性、国家という巨大な組織を絶対的なものとみなして服従する*1隷属的な安定性の法則性。

ぼくら人間は、法則を覆すことはできない。モノが落下しないように世界を創り変えることはできまい。同じように、隷属とか無知だとかこうした、なにも精神に対して施さなかったときに生じる動物的状態に陥ることは、法則であって、そちらの方が楽(安定する)だからそうなるに過ぎない。
ぼくらが、もしもそうした状態に逆らいたい、法則に抗って空を飛びたいと願うならば、法則をきちんと認識すること、法則に逆らうために精神を意志的に動かすこと、これが必須となる。

啓蒙、啓発、とは違う。
他人に影響を与えようと考えるその時点で、思考の対象は自己から他者へとうつる。他者が介在する思考は、自己から遊離し根をどこにも持たぬ軟弱な思考にしかならぬ。だから、例えば、職業的な思考ではなくて、純粋な自分のための思考は、法則を観測し言葉で身体化し、その法則に抗うための精神的努力の痕跡を残すこと、である。これを、哲学と呼ぶのかどうかは知らないけれど、この徹底的な自己に根付かせた思考から、初めて正しさとか善さが生まれると思う。
金を稼ぐためだの、アクセス数を稼ぐためにぼくはブログを書いているのではなくて、単純に純粋に、思考の身体を保存するタッパー的なものとして、便利に使わせてもらっているに過ぎない。だから、このブログが、誰かを批判するために書かれているだとか、書いている中の人間の名声を上げるためだとか、アフィリエイトで金を稼ぐためだとか、そうしたことは一切考えていない。SEOのsの字すら頭にない。

このように、思考というものは、純粋に自己の内部で展開すべきであって、目的や対象を自己の外に求めた瞬間に、善さから離陸する。徹底的に冷たい目で世界の法則を観察し、記述する。これだけだと思う。

All you need is...

*1:あるいは、匿名のもとで批判とも言い難い稚拙な論理と「学校では教えない」的なまがい物の事実を本当だとなんらの方法的手続きを踏まえず、自らの主張に適合するという理由だけで真実とみなして以って矛として批判する行為。いずれも、体制と反体制の構成する一分子に過ぎない。体制は反体制があるからこそ成立するのだ