唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

頭いい、魔法、文系、理系。

頭いいとか、頭悪いとか、僕らが小さい頃からよく人を判断するときに使う言葉だけれど、その本当の意味というかこの言葉が対象者に対して及ぼす作用というか、よく考えてみると、難しいものだと思う。
誰だって頭がいい方が嬉しいに決まっているし望むに決まってる。自分で自分自身のことを頭いいと思いたいし、他人にもそう思ってもらいたいと思うに決まってる。俺は頭悪いと思われたいと切に望む人はいないだろうし、まあ、頭いい悪いに頓着しない人間と思われたいという人はいるに違いなくてそういう人たちは頭いい悪いの基準自体をないものとして無視しようと色々と策を練るのだろうけれど、それは現実を自分の都合のいいように捻じ曲げているようにしか思えない。だって、現実に、「頭がいい」とか「頭が悪い」という言葉が存在しているし、使用だってされているんだから、そうした枠組みが存在するという事実をないものとして殺してしまうことはできないと思う。

話を進めると、頭いい、ってどういうことか、という問題。僕らが学校に通って、頭をよくするために授業受けたりテストされたししてきたんだけど、小中高では頭いいっていうのはテストで良い点数をとっている人だったし、通知表の合計点が高い人だったし、模試で上位に食い込む高偏差値の人だったと思う。で、それ以外に頭いいって言われるのは、例えば囲碁が強いとか将棋が強いとか、他、人が知らないような知識をたくさん持っている昆虫博士とか星博士とか、そういう人たちだったと思う。他にも、数学ができるとかもあって、そういう頭の良さは、知識の量よりも持っている知識をどれだけ複雑に組み合わせてまるで一本の糸を紡ぐように長く伸ばしていけるか、ということのようだと思う。そういう二つの頭の良さをまとめてみると、要するに、知識をどれだけ持っているかという量的なものと、知識をどれだけ動かせるかという運動的なものと、二つの要素が組み合わさって頭の良さ、というものが定義されてる。一般的にいうところの、記憶力と応用力ってやつになると思う。

そうなると、頭がいいっていうのは、知識の量またはもしくはかつ運動性が優れている人間のことを指すことになると思う。じゃあ、頭がいいのがどうして、いいことだって思われているかといえば、知識をうまく操れる人間は世界でも上手に立ち回れるからってことになると思う。僕らが生きている世界は、つまるところ、全て情報の集合体であって、サイバネティクスや認識論よろしく、眼や皮膚や鼻などの五感で獲得する知覚はようは情報であって、例えば、目の前にペンが見える、触るとひんやり冷たいという知覚はペンという情報を獲得したってことだし、他にも世界中に存在する全ての存在はつまり情報だってことになる。で、今ぼくが書いた世界という言葉の意味としては、現在という時間軸とそこに存在する空間という座標のことで、時間を過去に下ったところの世界は歴史という世界に変化してやっぱりその歴史上の空間的な認識だって情報として獲得することになる。現在という時間を超越したところに、歴史っていう世界があるってことになる。つまり、時間軸を超越すれば、歴史という情報の体型がある。

もっといえば、空間を超越したところには、概念上の例えば、数学の理論体型だとか物理の体型だとか、コンピュータの世界だとか、なんというか、宇宙空間の外側にも世界があるってことになる。そういう世界は、宇宙に生きる人間の精神的な営みが膨らませたいわば想像の世界というべきだろうか。実際に、座標上に点を打つことはできないんだけど、確かに、その存在は把握できるっていうもの。例えば、少し気持ち悪いけれど、愛だとか友情だとか価値だとか美しさだとか正しさだとか正義だとか、概念上のものやら、エネルギーだとか重力だとか、もっといえば無限だとか線分だとか円だとか三角形だとか、プラトンのいうところのイデアみたいなもの。見えないんだけど、たしかにあるように思われるもののこと。だけど、文字としてつまり情報としては、把握し存在せしめることができることはたしかだと思う。僕らはこうした、宇宙の外側、精神の内側の事物を情報として、言葉を操作することで操ることができるってことになる。

で、話を戻すと、頭いいっていうことがどうしていいことか、という問いに帰ってくると思う。情報をうまく操ることができる人間は、世界に対して大きな影響力を持つということ。より頭が良ければ良いほど、強い影響力を行使できる。情報の操作はつまり世界の操作の設計図みたいなものにもなるから、まあ工学的な、テクノロジーだって頭がいい人が扱えるものだし、他にも政治だとか経済だとか人間を動かすことだって結局情報の操作がしからしめる技、ってことになる。
こんな風に考えると、人は情報を組み立てて、世界にぶつけて、世界を自分の考えるママに動かそうとするってことになる。まあもちろん、情報をぶつける世界は実際の宇宙でなくても、概念上の世界でもなんでも構わないのだけれど。筋肉がむきむきならむきむきなほど、重たいものを持ち上げたり破壊したり世界を作り変えることができるように、頭がいいほど複雑な情報を分解したり逆に構築したりして世界を支配できるってことになる。学問体系の違い、例えば、文系と理系、経済学と政治学、哲学と法律学、数学と物理、他いろんな違いっていうものはつまるところ、情報の色の違いみたいな部分に帰ってくるように思える。ある一つの世界をどう分解して、情報をどう構築するかっていう方法論的な違いでしかなくて、その元をたどれば、やっぱり一つの情報つまり世界みたいなところに帰ると思う。

こんな風に考えると、魔法っていうものが案外バカにできないように見える。いや、魔法が本当にあって、杖振って呪文唱えれば閃光がほとばしるとかいう話がしたいんじゃなくて、言葉を発することで世界に影響を及ぼす、言霊思想的な部分に面白さというか真実というか、そういうものを感じる。魔法の場合は、言葉が直接世界に影響を及ぼす。例えば、「インフェルノ!」って叫んで杖を振ったら炎が上がるとか、「アバタケダブラ!」って叫んだら人が死ぬっていう風に、魔法は言葉それだけで力というかエネルギーを持ってる。けど、実際そんなことはなくて、言葉=情報と世界の間には肉体がないとこの宇宙では何にも効力がないようになってる。「インフェルノ!」って頭の中で情報を唱えて、実際に木をこすって火を起こす、「アバタケダブラ!」って情報を唱えて、目の前の人間にナイフを刺す見たく、どうしても情報と世界の間に体だとか道具だとかを挟まないと何も起こらない世界になってる。これが、魔法と実際の違い。けど、情報という点で見ると魔法もこの宇宙も本質としては変わらないように思う。こんな風に、まあもちろん詭弁というか当て付けというか僕の適当な考え方だけど、頭がいいっていうのは、魔法でいうところの呪文をたくさん知っている、って感じかなって思う。

当然、せっかく頭いいのに世界、全然変わらんじゃんっていうフラストレーションだって溜まってくるはずで、そうしたエネルギーが注ぎ込まれた場所が芸術だったり宗教だったりするんじゃないか。そうした場所は、座標上の宇宙という意味での世界とは次元を異にする想像上の世界だから、ちょっと虚しいけど自分の情報で魔法見たく世界がどんどん変わっていく。まあもちろん、外界と内界というという切り口でも観察できて、自己と世界という二元的に見たときの、世界は変わらんなら自己を変えようっていう、内側に矢印が向いたベクトルがそのフラストレーションの方向ベクトルになると思う。つまり、力が自己に向けられて、自己の情報体としての濃度が濃くなっていくってことになる。これが、宗教的な修行というか、または哲学的な自己の練磨になるんだと思うけど、その本質は、力のベクトルが科学のように外に向けられたんじゃなくて、内側を向いてるってこと。芸術は個人のためにある、みたいによく言われて、商業主義に毒されてはならぬとか言われるけど、つまり、このベクトルの方向が、自己に向けるべきで他者に向けた奉仕であっちゃいかんよってことになる。社会への奉仕になっちゃ、本当はいけないんだけど、商業的に成立している以上外にも向けないかん、ここに苦悩ありってことだと思う。

 

魔法の世界では、頭がいいだけで最強になれるんだけど、実際、そうはいかない。僕はここに、まあ例えるならプラトン哲人政治がうまくいかない理由があると思うし、哲学が科学にかなわない理由があると思うんだけど、身体の媒介を必要とするってところがミソ。ただ頭の中で情報を持って構築するだけじゃダメで、身体を駆使しなきゃいけないってことは、実際に世界に影響を及ぼすのはいわば身体がムキムキの人ってことになる。頭がいい人じゃない、体がいい人こそが、実際に世界に影響を及ぼすことになる。昔から、学問は役に立たん、実学重視だ、っていう人と、いやいや学問こそが人間の喜びだ本質だ実学はけしからん、みたいにいう人の対立があって、夏目漱石も結構悩んだみたいだし知識人とかいう人たちが苦悩する問題らしいけど、その対立の本質はここにあると思う。つまり、頭良くたって、実際に世界を動かすのは身体だってこと。逆に、頭だけじゃ世界は動かんよねってこと。もちろん、この頭と身体の比喩は、理学と工学みたいに理論体系と応用にも当てはまることだし、理想と現実みたいなもやっとしたものにも当てはめていいように思える。二元論とかそんな難しい話をするまでもなくて、結局、機能の違いってことでどっちが上だとか下だとかはないと思う、あるのは順番だけでどちらが先に動作するかってことだけのように思える。
まあ、なんというか、これはあまりに大雑把すぎるかもしれないけど、文系は内側の方向ベクトルが多くて、理系は外側の方向ベクトルが多いように思える。だから、お金を稼ぎたいんなら、方向ベクトルが外側に向いた工学というかテクノロギーというかそっちの方がいいよねって話になって、文学とか哲学みたいに100パーセント近く内側に矢印向けた学問いらなくねって話になってると思う。逆に、経済学とか、マーケティング、心理学や、組織論みたいな外側に方向ベクトル向けた学問というか理論というか、そういうものがありがたがられる風潮が、文系の「意識高い系」の本質だと思う。僕は、ここに、理系の数学とか化学式みたいな難しい記号体系を勉強しなくても手軽に日本語でできるよね、っていうそれこそまさに「頭の悪い」人たちがゾクゾク集う人気コンテンツ化したことで、こんな「意識高い」なんて揶揄する言葉ができたんだと思う。

もっと意識高い系の話をすれば、彼らは、手軽な身体つまりまあ自分の行動だとかパソコンだとかインターネットだとか、理系的な大規模な実験器具だとか大きな機械を使わないで、世界に影響を及ぼしたいと考える魔法使いみたいなところがある。しかも、彼らが使う魔法は、とんでもなく頭の悪いアメリシリコンバレー直輸入のカタカナ言葉だったりコミュニティ商法だったりいわば頭悪いものだったりするから、タチが悪かったりする。
まあもっと言ってしまえば、最近よく聞く、クリエイティビティだとか創造性だとかアイデアだとか、まあよく大学でも授業とかで紹介されてたりするんだけど、こんなもの、僕はすごく嫌いだったりする。要するに、アイデアを出してみんなで考えようっていうのは、凡庸な魔法使いがデタラメに一つの対象に適当ランダムに「呪文」をかけてなんかいいこと起きないかな、っていう無駄な作業に見えるから。もしもアイデア出しのプロだとか、クリエイティビティ鍛えて20年ですみたいな人がいれば、そういう人に、頭いいっていう称号を僕らは与えないと思う。さっき、長々と書き散らした定義からして、アイデアを出しまくるような人間は、世界の情報を扱う能力に長けているとは言えないから。しかも、創造性ということ自体、たくさんの知識を持った知識編重主義を跳ね除ける水と油の関係を持つ言葉だし、知識をうまく扱う学問的な凝り固まったやり方を批判するものでもあるから、どうしても、頭いいっていうものとは両立しないと思う。
なんというか、こんなことを言うとあんまり良くないかもしれないけど、頭が悪い人ほど創造性に逃げる嫌いがあるんじゃないかって思う。量も運動性も必要なく、どこからか湧いて出てくる言葉をとりあえず口に出せばいいよねって言う容易な考え方がクリエイティブって言葉にはあって、そうした考え方を容認するまたは負けを認めちゃうような軟弱な頭の良さなんて、もっとひどいものだと思う。

いやもちろん、クリエイティビティを全否定する気はなくて、言いたかったことは頭いいってことと創造性ってことは結びつかないし置き換え可能なものじゃなくて、こと情報と言う観点から見れば、クリエイティビティっていうものは頭いい学問的なものに、完敗するしそうなるようにしないといかんってこと。魔法は頭いいことであって、創造性ではない。
が、しかし、こと、外側のベクトルや身体を動かすということになると、創造性の出番だと思う。世界を変えるという点について言えば、創造性最強だと思う。アイデアっていうのは、それ自体に価値があるんじゃなくて、その次の身体を使った行動というところに価値があると思う。アイデアは実行されるものだから、価値があるよねってこと。つまり創造性だのアイデアだのクリエティビティっていうのは、身体だってことが言いたいわけで、世界を変えることができる身体ならそれは価値あるねって認めないといけない。身体だから、その根拠というか情報としてきっちりと建築されてなきゃいかんてことは決してなくて、動けりゃいいってことになる。間違っててもよくわからんでも、動くならそして動いた結果として世界が意図通りに変わったならそれでいいってこと。その意図それ自体が、あーだこーだいうのは、身体の役割じゃなくてもはやそこまでいくと情報として認識する頭いい人の役割になる。

もう明白なものだと思うけど、金を稼ぐっていう点で見るとまたは人間を動かすっていう点で見ると、情報は身体に完敗する。もっと言えば、頭いい人は創造力を持ったいや駆使する「意識高い人」だとか職人というか実業人には、やっぱり勝てないなってこと。頭いい人が情報という呪文を駆使してできることといえば、言葉をいじくり回して陰口というか悪口というかこそこそ批判なる行為をすることだけってことになる。「あいつ、頭悪いぜ」って身体の人に言うことはそれ自体、敗北宣言のようにすら思えてくる。

 

気がついたら、6000字を超えてた。ちょっと話し言葉っぽく、頭の中と言葉の距離を縮めて書いてみた。丁寧語は、頭と頭の間の緩衝材だけど、ことブログという媒体では邪魔になるんじゃないかって最近は思い始めている。学問的な、かしこまったムズカシイ言葉遣いは、厳密さを求める学問ではなくて一人の人間の頭の中身をできるだけノイズなく言葉にすることがブログの目的だから、こんな感じでいいかなと思ったりもしてる。