唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

恋愛、ラブコメ、自由と隷属。

なんだったかな、あんまり例えは良くないんだけど、原子爆弾というか原子力発電というか、人間が獲得したエネルギー源の最強のものの原理は、ひとつの原子核をいじくってふたつに分裂させることらしい。その分裂でとてつもなく大きなエネルギーが得られるという。そういうわけで、1を何かで割るっていう現象はエネルギーを生じさせるなあなんて最近考えていて、その理論というか思考の回路が、ラブコメに通じるなと思ったりしてる。
昔から、三角関係というかそういう恋愛をつよくするものはやっぱり、一人の男と一人の女の関係性だけではダメで加えて、第三者がどうしても必要になっている。外からの刺激というか圧力というか、そういった外的な力が恋愛には重要だよねっていうのはよく言われることで、そいう理由かは知らないけど、よくカップルが楽しい写真をインスタにあげてたりツイッターで「付き合って2年です(ハート)、むっちゃ優しくて幸せです(星)」みたいなことをあえてみんなに発信するのをよく見かける。あとはカップルはブログをするといいとか、二人の関係性を外に発信するような専用アプリみたいなものもあるのだという。まあ、恋愛記事よろしく「こちら俺の彼女です」とか「こちら私の彼氏です」と友達に紹介すると二人のつながりはつよくなるともよく言われていて、しばしば写真を見せ合ったりするのをみる。

こういうことがいいか悪いかは知らないけど、なんにせよ、関係というものは決して内側だけじゃ十分に定義されないしつよくなりにくいから、外側からの定義を必要とするよねって話。実は、この関係の話は結構面白いと僕は思ってて、公理と理論の関係とか、学問体系の話とか、結構繋がると思ってる。ゲーテルだったかゲーデルだったか忘れたけど、不完全性定理っていうものがあって、ひとつの体型の内側だけでその体型が正しいと証明することは不可能だっていう理論らしいんだけど、まあ言い換えてみれば、ひとつの体系だけで体系を成り立たせるのは不可能で、どうしてもその外側からの援護射撃というか救援軍というかそんなものを必要とするよねって話。
ここから先は、僕の飛躍かもしれないけど、紙の上にひとつの円を描いて見て、じっと眺めてみると円っていうのは、線があって線の内側を円っていうんだけど、内側だけじゃ円は成り立たなくて、円の内側と外側が存在するから円って言えるんだなって思う。つまり、線、境界。これがミソなわけで、外側と内側を成立させる協会という概念が極めて重要な意味を帯びてくる。境界線っていうのは、内側とも接しているし外側とも接している、その意味で境界線は外側と内側の両方から、力というか作用というかを受けているとも言えるわけで、鶏が先か卵が先かじゃないけど、やっぱり鶏と卵の間には鶏と卵を定義するものがあるんであって、鶏は卵があるから、卵は鶏があるから成り立つってことになるなって思う。
何が言いたいかというと、くどくど書きすぎたけれど、関係っていうのは内と外、もっといえば内と外を隔てる境界つまり間があるから成り立つんだってことが言いたいのです。

話を恋愛関係に戻すと、付き合ってる男女が内側で、その外側に友達とかもしかしたら恋敵ががあるから、関係が成り立つんだなってこと。
で、ラブコメっていうのはこの内側と外側の葛藤からエネルギーが発生するいわば核分裂的なものだなって思う。ラブコメは、成立したカップルを描くというよりは、カップルが成立するかしないかのところを描く。で、これはお決まりなんだけど、三角関係的な要素が必ず入ってる。一人のイケメンもしくは格好良くはないんだけどどこかしらの魅力があるっていう男を、何人かのヒロインが取り合うというか譲り合うというか、利他と利己で揺れるみたいな話がほとんどだと思う。
面白いかどうかは当然人によりけりだと思うんだけど、僕個人としては案外好きだったりする。個人的趣向の話をすれば、昼ドラみたいなドロドロ争うっていうよりも、さっき書いた優しい性格の人間が、優しさと利己との間で揺れるとか、そもそもこうした葛藤をはらみつつも平和な楽しい日常が繰り広げられるみたいな話が好きだったりする。
で、こんなラブコメがこの日本で成立するのは、結構価値観的なものがあるのかなって思ってて、日本は一夫多妻制じゃないっていうのと結構西欧人と違って気持ちをすっぱり率直に言わないで慎ましやかに心のうちに隠したり微妙な機微で伝えたりする恥の文化っていうかそんなものがあるから、ラブコメが誕生するし楽しめるのかなって思う。
オタク文化よろしくツンデレとか萌えだとか、やっぱり日本人的な価値観にぴったりあってるなって思う。こうしたオタク文化的なカワイイっていうのは、ダイレクトに身体というか媚態的なものじゃなくて、まあラブコメ的なものかなっては個人的に思ってたりする。

つまるところ、人間が一人いる。これを、1とおくと、「1÷2」は解なしなんだってことかなって思う、これがラブコメの本質だろうって思う。人間じゃなかったら、二分の一とか0.5とか解が出て解決なんだけど、人間が0.5人っていうのはありえない。解が出なくて、計算ができないってことになる。だのに、解が出ないからいやだからこそ、一人を複数で割ろうとする(作者的には割らせる)ところにラブコメっていうコンテンツが生じるし、そこに魅力を与えるエネルギーが出てくるなって思う。どうしても、一人を複数で所有することができない、漱石だったか小説家が手記に綴っていた言葉にはなるほど関係性の真理の一片があるなと感心したりする。
つまり、ラブコメっていうのは1÷2の計算過程のことを言うんであって、その結果が出た時ラブコメはおしまいになる。ついでに言えば、結果は絶対に決まっていて、結果は、1÷2=1あまり1 である。それ以外は、一夫多妻制でない限りいやそうであっても認められまい。余った1は、可哀想、だからこそって言うかそこにエネルギーがあるってことになる。それともちろん、解は0って言うのもあり得る。割られる方が消えれば0になる、つまり割られることを拒否するってこと。そのためには割る数2の目の前から消えなければならないってことになって、そこに悲劇が生まれる。

 

ここまでラブコメを褒めてきたっていうか、魅力みたいなものを書いてきた。どうして大学生にもなってラブコメとかいうラノベやアニメご用達みたいな「オタク的」「幼稚」なことを、さもしかつめらしく書いているかというと、難しいことはない単にラブコメアニメにハマってるからだ。最近はひたすら、ラノベをアニメ化したラブコメものばっかり見ていたりする。オタクというかアニメファンっていう人たちは、つまり秋葉原アニメイトとかでグッズをたくさん買ったりイベントに参加して声優と握手したりする人たちまたは部屋にカワイイアニメキャラのポスターを貼ったりフィギュアを飾ったりする人たちは、こうした萌えとかラブコメアニメとかキャラが好きなんだと思う、いやもはや愛しているんじゃないかと思う。僕はというと、実は、それ自体を好きになっているんじゃなくて、ラブコメアニメとかオタク文化の回路に電流を流すことに興味を持ってるだけだったりする。要は、これはあらゆる経験に通じるところがあるんだけど、僕はたくさんある趣味のジャンルやコンテンツの種類を、それそのものそれ自体として好きになって享受するんじゃなくて、それを単なる電子回路というか思考回路として、そこに時間とか労力という電流を流して楽しんでいるだけに過ぎない。で、そういうわけで僕はこれまで色々な趣味というか経験に手を出しては引いているわけで、例をあげればアクアリウムだったりスマホゲームだったり稲作だったり哲学だったり文学だったりプログラミングだったりするんだけど、その一環というか流れとして今ラブコメというものを楽しんでいるに過ぎない。
だから、別に、アニメとかラブコメを非難することにタブーを感じないし、されていることに怒りを感じたりもしない。で、何が言いたいかというと、これから僕はラブコメそのものの本質が空虚であると非難めいたことを試みようと企んでいるのだ、ということが言いたい。

確かにラブコメはその回路図としては面白いし、電流を流せば快感を伴うんだけどその回路を構成するまあいわば、登場人物たちだの会話はというと、何だろう自由じゃないというか所詮奴隷だよねって思ってしまう。もちろん、こんな議論は全ての物語に通じるんだけど、ことラブコメに関してはさっき言った通り1÷2を実行せねばならぬという自然法則というか義務が通常の物語よりも強くかかってくるから、尚更に隷属だと思う。どういうことかというと、自由って何だろなって話に関わってくるから、順々に書こうと思う。
そもそも、自由とは何か、なんていうそもそも論をおっぱじめてしまっては、文字の羅列はヘーゲルよろしく歴史という名の下に永遠に続いていくからしないんだけど、まあ便宜上簡単に仮設しておくと、自由とは未知であるってことかなって思う。今現在この瞬間の、次の瞬間に何が起こるか「私」を含めて何人たりともわからないっていうのが自由だと思う。もっとも、「私」だけが次の未来の瞬間を知っている状態というかそう計らう行為を「自由意志」っていうんだろうけど、ここで「他人」も知っていて一致しているんなら、隷属って言っていいんだと思う。
まあその意味では、真の「自由」なんて死を除いて存在できないなって思ったりもする。だって次の瞬間に自分がどうなるか一切の未知なんてこと、ありえないしどうしても予想して知ってしまうまたは変えてしまうだろうから、その瞬間に自由は消滅して、残るのは「自由意志」ってことになる。もちろん、この自由意志こそが人間が手に入れることができる仮のというか最大の自由だって見方もできて、これで全てのあらゆる生の時間を満たしてしまおうって考えが、進歩であるんだと思う。自分で全部、あらゆる未来を既知なものにしたいっていう欲望が人間にはあって、それが方程式とかアルゴリズムとかを駆使した未来予想と変化の力になったろうと思う。

まあ、その意味ではあらゆる物語の登場人物は、自由じゃないし自由意志でもなくて単純に隷属だよねって話になる。誰かが規定してるわけだし、まあ物語という文字情報の都合上、時間をそこに凍結している点で結果としては隷属なんだけど、物語が生じる瞬間は自由意志だっていう見方もできる。でも、物語を自由意志だとする見方は作家側から見た考えであって、物語を読む僕ら読者からしたら、前者の物語は隷属だって考えになっちゃうのかと思う。
物語としては、そんなところ。けど、ことラブコメに関していえば、作家から見たって隷属なんじゃないかって思う。なぜかといえば、ラブコメっていうのは絶対的な原則の1÷2っていう神のごとき法則性から演繹したものに過ぎないし、そこから抜け出すことは絶対に無理だから。ラブコメをつくるってことは、この法則性を公理として出発した隷属的な製造なんじゃないかって思えてしまって仕方がない。過程としても結果としても隷属している、もっといえばその中の可愛いあのヒロインも格好いいイケメンも全部所詮は奴隷である、なんていえちゃうよねって思いながらラブコメアニメを見たりしてる。

もっと発展させれば、少しずれるけど、世の中のあらゆる物語は全て人間の行動のプログラムコードに過ぎないって思う。恋愛とは何か、恋とは何か、例えばだけどこんな問いを投げた時、まあ誰だってなんとなくの回答は出せると思う。恋心というか、惚れるみたいな感情を感じてきちんと認識できて、そのあとに恋があるなってことはわかる。恋っていう概念が物語を想起させて、会話だとか行動をどうすべきか教えてくれるってことになる。例えば、デートに行った男女の行動っていうのは自由かっていう議論をすれば、自由じゃないなって言えると思う。ある程度、話すべき言葉も行くべき場所もやるべき行動もほとんど同じようなものだし、ロマンチックていう価値観だって所詮は映画だとか小説だとか恋話とかから引っ張り出してきた知識というか関数に過ぎない。
恋っていう感情があってその感情にくっついてる物語を想起してそれをなぞるように言動を行うってことが恋愛という言葉で示されてるのかなと思う。アルファベットよろしく一連の行動だって、物語で規定されたプログラムコードの改変と実行に過ぎなかったり。
言ってしまえば、「彼氏欲しい」とか「彼女欲しい」っていう願望さえも物語というか広告というかそういうものに規定された隷属的欲望っていう見方もできるわけで、だからかなしばしば哲学者が恋愛を否定するとか宗教的に恋愛禁止っていうのはこうした規定を払って自由になるためだったりするのかもしれない。なんにせよ、物語は恋愛みたいな生きる上での行為を教授してくれると同時に、行動自体を規定するプログラムコードにもなりうるということ。で、大体のまあ例えば、「金髪にしたらモテる」とか「料理を特訓してモテるようにする」みたいな容易な恋愛教本的な知識を体現したような人間は、自由じゃなくて奴隷だよねってことは確実かなって思う。そういう意味で、僕個人としてはどうも髪を染めたりアクセサリやブランド服で身を飾って香水つけてモテようとするあるいはその意思を仄めかすことを嫌悪するし、そういう人がちょびっと苦手だったりもする。俺わたし奴隷です、って言っているように、ひねくれた風に考えてしまうから。僕の格率というか偏見では、奴隷<自由人、なんだよね。
もちろん、さっきも書いたように自由を手にすることはできないし、どこかで人は何かに隷属しているんだと思う。それでも、隷属していると理解した上で従うのと、盲目的に従うのはぜんぜん違う。前者を服従と言うのなら、後者は隷属だよねとか。

くどくどしつこく書き過ぎてしまったので、結論をまとめてしまうと、関数が体験に先立つと奴隷だし、体験が関係に先立つなら自由かなって思うと言うことが言いたかったのです。「恋愛」って言う関数がそもそも誰かと出会う前に頭の中にあっていわば、恋の対象となる人間の登場を待っている状態で、そこに誰かがやってきたときその人物には関数が投影されて恋に落ちる、って言うのは隷属かなと言うわけで、その意味ではラブコメっていうのはそもそも人物だとか出来事だとかが「恋愛」以前に存在していなくて、作者的には「恋愛」っていう関数から演繹して見せているよねっていうこと。しかもその上、「1÷2」なんだから尚更に隷属だなと思う。
で、隷属は悪だって言いたいんではない。むしろ、隷属は思考の停止、脳死の運動ができるから疲れを癒すとか別のことを考えるときにとても良い効能があるといえる。逆に自由っていうのは絶え間ない思考と偶然性が大きく作用して常に想定外だからやっぱり疲れてしまう。物語はなるほど確かに自由なものではないのだけれど、だからこそそこに魅力があるのかなって思う。慰めとしてのラブコメ、アニメ、オタク文化というのはやっぱり何においても優れていると思う。