唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

おとな、職業、趣味、将来と生活のこと。

まだまだ餓鬼というか子供というかお子ちゃまというか、さすがにファミレスでちっぽけなエビフライが乗ったお子様セットを頼むような年齢ではないんだけど、精神的にはお子ちゃまセットを頼むレベルだなって最近は思ってしまって、いやもっと言ってしまえば僕の周りにいる同級生や先輩や街中を歩いてるおしゃれなお兄さんお姉さん、杖ついてる爺さん婆さんでさえも、やっぱりお子ちゃまセットを頼んで美味しく食べてるんじゃないかななんて思ってしまう。
食べ物で言えば、ご飯とおかずのセットが料理というわけで量的に子供は少ししか食べないし、質的には安物のというか味付けが幼稚な甘いだけとか辛いだけとかそういうモノクロチックで一元的なもので満足してしまうのがお子様セットであるし、それを食べる子供なわけで、だとしたらべつに精神的に考えてもおんなじことじゃないかと思ってしまう。というのも、なんというか「おとなっぽい」って言われるようなものがまあ、街に行けば陳列されているわけで名古屋の栄とか名駅とかいくと地下街とかショッピングモールなんかで並べられている商品やらぶら下がってる看板やらがいわゆる「おとなっぽい」と世間で一般的にみなされているものだから、さてどんなものかしらんと思ってたまに鑑賞しに行くんだけど、いったいどうしてキラキラ光るアクセサリーだのネックレスだの、布切れだの電化製品だの、まあ物質的なものじゃなければ旅行ツアーだの英会話だのビジネスプランセミナーだのもっといっちゃえば風俗だのホストだのホステスだの酒だのイタリア料理だのが、「おとなっぽい」ものってことになるんだとおもう。
道行く女の人や男の人の持ち物をちらりとだけど、まあ街に出れば100人位は眺められるもので彼らの行動や服装持ち物が「おとなっぽい」ものってことになるんだろうけど、こういっちゃわるいけど、「おとな」というか「こども」みたいだなって思う。いやぼくが彼らよりも大人だなんて言いたいんじゃなくて、もはやそんなことはどうだって良くて問題はぼくが彼らを尊敬して模倣したいと思えるかってことで、そうは思えなかったっていう絶望というか苦悩というかそんな感情にがっかりしてる。子供からしたら「お子様セット」じゃなくてステーキだとかフランス料理だとかワインとかを嗜む大人の姿は憧れで近づきたい羨ましいって思うから大人だって言えるんであって、子供が憧れない大人っぽさってなんだろな、なんて思ったり。それどころか子供に軽蔑されるような大人っぽさって在るのかなって思うわけで、そういう意味では精神的に憧れない大人っぽさはもはや「お子ちゃまセット」だよねって話で、そうなってしまった以上子供は大人っていう目指すべき目標を失って宙ぶらりんの状態に強制的にさせられてしまうわけで、これぞ自由って強気で意気込めればいいんだけど、やっぱり不安は抱えてしまって焦りというか苛立ちというか、そうした感情が手っ取り早くインスタントにむしろ目標っていうカテゴリが実際の経験に先立って、かっこいいから憧れるっていうより、憧れたいからかっこいいと思うっていう全く逆さまの思考が生まれちゃうよねって思う。そりゃもう隷属でしょってね。

彼らを立派だ大人だ成人だって思わせる要素っていうか世間での評価基準っていうのはなんというかその人間の頭の中に在るものっていうよりも、地位だとか金だとか金を稼ぐ方法を知っていることみたいな、どこまでも金と密接に関係したものだなって言えて、とはいえ金ってんじゃ少し味気なくて俺は金故に大人だって思われたくないから、金でかっこいい服みたいなものをこしらえて着こなしてファッションとして大人っぽさを演出してるだけなんじゃないかなって。単純に布切れのことを言ってるんじゃなくて、言葉とか理論とかもそうで、実際大人もどきが口にする言葉や行動やマナーっていうのは大人っぽさを演出するためのファッションだなって話で、だからかわからないけれどようく仔細に観察してみたら、ぜんぜん空っぽと言うか右掌をグーにしてコンコンノックしてみたら、空洞音がするみたいな絶望を味わうわけで、叩かずとも一番簡単にファッションを脱がして裸にしてしまう方法は、彼らが大人だって思わせたい人以外の人や物に対する態度を見れば良くて、まあ一番いい例が友達にはニコニコ笑顔で愛想良いんだけど、友達じゃない的というか他人というか地位が下の人間には冷たくてとんでもなくひどい態度を取る人間がその最たる例かなって思う。実際、人の本性は仲間といるときじゃなくて敵や自分より下のものと当たったときにはっきりするなって言うことで、そうすると街を歩くときには他人に囲まれているわけでそこで自分をかっこよく取り繕ったり、無愛想な態度をとるような人間まあつまりは道を譲らず方をぶつけてくるような人だったりするんだけど、そういう人は自分の本性を大々的に宣伝してくれるわけで、確かに彼らは大人なんだけど、それは子供に金で糖衣しただけの大人のフリした子供だよねってなりそう。

どんなに金を沢山稼いでいても大人っていうふうには、社会的にはみなせても人間的には満たせないのかなって思ってる。金を稼がない人間は子供だ甘えだっていう社会的な認識が間違ってるとは言わないけど、それは因果関係じゃなくて相関関係だよねって思う。金を稼ぐ、ゆえに、大人の人間だっていうのは社会的な便宜上の問題であって、それを人間としてっていう文脈で成立させることはできないんじゃないかなと思う。
本当に人を大人たらしめるのは金じゃなくて、精神の問題かななんて最近思ったりする。ようは、頭の悪い人間は子供だよねって話。料理と一緒で、味覚が甘いな辛いなみたいな単純なものしかもたないならお子様セットで十分だし、量もほんのちょっぴりしか食べれないならそりゃまだ未成熟だよねって。だってそんな成熟してない体だったら、離乳食で十分なわけで、まあ成熟させたいからこそご飯沢山食べるんだろうけれど。
精神的な食事で、味の機微がわからない、離乳食しか食べれない、例えば100円の砂糖菓子と1000円のケーキの違いがわからないような人を大人というのは問題あるなってことで。いやもちろん、砂糖菓子にだって魅力は在るんだけど砂糖菓子を正当化して、ケーキを批判する反知性主義みたいなマルクス主義みたいなやり方じゃ何も生まれなくて、問題は、1000円のケーキを理解できていないのにその状況をそのまま正当化しようとする阿呆さに在るんじゃないかなって思う。そんな事する隙があるんなら、1000円のケーキが理解できるように時間と労力使えばいいのにって思うんだけど、いやそんなことしたら価値観が変わってあーだーこーだってどうせ反論してくるわけで、知らないからこそ正しいのだっていうもうどうしようもない考え方に行ってしまって「理屈っぽい」とか「難しすぎる」っていう批判がここに出てくる。こうなってしまった人は、もうどこまでも思考停止の家畜というか柵の中の草を摘んでおけばいいじゃんなんでそんな外のものを食いに行かにゃいかんのだっていう考え方に行きつくんじゃないかなってね。
まあ、そういう硬い人ばかりじゃなくて中には、「みんな違ってみんないい」理論でそんな難しいことも素晴らしいなあそのうちぼくもやろうと思うなんていうやるやる詐欺っていうか多様性大好きな人みたいな人がもちろん出てくるわけで、むしろそういう人が最近増えつつあるなって思う、道徳教育のおかげかな。けど実際、多様性多様性言う人ってどっちつかずというか、ついてるならついていない方つまり多様性の名のもとに認めてやろうってする側を全然理解していないなってこと。便宜的に、まあ認めておいて軋轢を産まないようにしようとかんがえているだけにすぎなくて、それは何も実際に両者がバチバチ対戦する軋轢だけじゃなくて、自分の中の葛藤、果たしてどっちがより素晴らしいのかみたいな苦悩を放棄しているわけで、なるほど確かに生存戦略上ストレスも感じないで住むから賢いんだけど、その必要が迫ったとき結局阿呆な選択しかできないなってこと。

じゃあどうすんのってなると、それは単純というかせこ技みたいになるんだけど、どっちも理解しちゃうっていうのがいいのかなって思う。そのためには、さっきの金に関わる問題つまり金儲けの「職業」っていう次元の知識というか思想というか営みと、そうじゃない人間的な営みつまりは趣味的な生活的な知識との次元に距離を作ることかなと思う。もちろん、その両者は一致することもあるんだけど、ほとんどの人は凡人だからいや凡人と言ってもその言葉が含意するような軽蔑した意味合いじゃなくて天才とか才能を持たない人間っていう意味合いでまあ普通の人ってことで、そういう人たちはどうしても職業として社会の円滑油か歯車にならないといけないわけで、そこでうまく回って金を稼ぐ知識と、人間としての知識とをきっちり分けとかないといけないっていうこと。実存主義というか、やっぱり「私」っていう自己と、職業として世界というか他社のための便宜上の「私」をキチンと分けておかないとそれこそ人間としてすっからかんの叩けば空洞音がする人間になるなって思う。例えれば、まあ、受験勉強という職業的なことばかりに身と心を注いだ結果いい大学にはいけたんだけど、じゃあ君人間として何持ってるの趣味は特技は?って聞いたときになんにも答えられないまたは定型的な「読書です」とか「ウェーイすること」とか答えちゃうような人間になるなって思う。なんというかこれはぼくのとても偏見に満ち溢れた考えなんだけど、サークルとかで時間を潰すような大学生って結局「私」は何も所有していない空っぽで空洞音がする人間なんじゃないかなって思う。新歓のビラとか誘い文句見ても、「暇じゃつまらんからとりあえずこれやろうぜ、新しい自分、趣味、充実」みたいなテイストで攻めてて、そもそも充実とか言ってる時点でからってこと自白してるよねみたいな。なにも空っぽなのを攻める気はないんだけどかく言う僕も空っぽだったし今も空っぽかもしれないんだけど、問題はからの箱を誰かに満たしてもらおうという他力本願な思考だなって思う。誰かに寄りかかって空箱を満たそうとする人間って結局他人になにも与えられないっていうか、空箱から何も取り出せないし、なんか上げるにしてもそれこそネットニュースとかファッション誌みたいなところから拝借したインスタントなものでしかないなって思うし、まあ、そういう人間を魅力的だって感じるような人ならインスタントで充実するんだろうけど、なんだかそういう集団を見ちゃうと悲しくなるというかむなしくなるというか、飲み会の帰り道なんだろうな楽しかったかもしれんけど虚しいなって感じる感覚の原因ここじゃないかって思うわけで、よくいる意識高い系みたいな人たちこれは学生とか社会人も問わず彼らは結局空箱を他人に満たしてもらおうってしてる人たちなんじゃないかなって思う。

いやもちろん、さっき書いたとおり職業的なものは他人と一緒にならないと如何ともし難いし、それこそ充実してもらわないといけないから飲み会も何もかも必要だとは思うわけなんだけど、そこに人間的なものの不在を嘆いてクレーム入れる転職しようぜとか今の仕事幸せですかみたいな議論は、けっきょく自分の問題じゃないかなって思う。いまよくある大学不要論みたいな議論だって結局は、この2つの次元をごっちゃにしてて、そりゃ大学なんて金を稼ぐ職業的な観点で見たら存在意義皆無かもしれないけど、人間的な観点を忘れちゃいけないよねって思う。基本的に、職業的なことこそ全てだっていう人たちのほうが社会的な地位は高くなるから、もちろん彼らは人間的な部分が空になりがちなんだけど、それだからそういう人たちがすごく低次元の文章と思考でああだこうだ大学不要論をぼやいているだけだと思う。それに同調してしまうような人たちも次元的には同じ場所にいる人達だし、そういう人たちに憧れて仲間入りしようと考える意識高い系の大学生はほんとうに、なんだかなっておもってしまう。職業的に満たされることは結局金を稼ぐ能力値の話で言うなれば、ロールプレイングゲームのMPとかHPとかの話で知力じゃないよねっておもう。知力というか思想力みたいな部分はどうしても人間的な趣味みたいな次元でしか養えないのかなって。もしくは、さっきも書いたけど他人に寄りかかって身体的な快楽で我慢するかっていう。幸せな老夫婦が、ぼくにはどうしても幸せに思えなかったりする。

ぶっちゃけ職業的な問題は、ぼくはまあいわゆる難関大学卒っていうバッジがもらえるからなんとかなるのかなっては思ってるんだけど、そうじゃない人だってやっぱり年収1000万とか目指すんじゃない限り慎ましやかな衣食住と多少の趣味に費やすくらいの金は手に入るかなって思う。だから、まあ、欲張らなくてもいいんじゃないかって思う。金なんていくらもらったって満足することはないんだしそれこそエピクロスパラドックス的に無限にループするだけなんだから、必要なだけ稼げりゃよくねっていう発想ができれば焦らんでいいのかなって思う。らくしてかね稼ぎたいとか、金持ちになりたいっていう欲望はまあ人類の発展的には悪くないんだろうけれど、そうなってじゃ自分どうなんのって考えたとき、やっぱり物質的な豊かさというよりも大事なのは精神的なさっき書いた趣味的な人間的な部分を満たしておくことだろうって思う。しかもなんというか、金欲しいぜ!みたいな欲望丸出しの人間ってけっこう人間的に貧しいっていうのは確かだと僕は思ってて、だって人生の殆どの時間を金を稼ぐことやもっと稼ぐにはどうすりゃいいかっていう活動に費やすわけで自ずと思索もそこに費やされるんだろうって思う。自己啓発本やビジネス本をプライベートな時間に読んだりする人って、金は確かにたくさん稼げるんだろうけれど、そのぶん人間的なものはからになるかなって思う。書棚を見ればその人がわかるっていうのは、あながち間違ってないのかもなって思う。
だからこそっていうか、ぼくは人間的な趣味にこそ時間を費やすべきだって思う。もちろん、引きこもってニート生活を送るっていうのは、職業的な金銭的な部分でバランスが取れていないからやりすぎなんだけれど、ある程度のそれこそ平均よりも少しだけ多めに稼いで、慎ましやかな衣食住で趣味を楽しむみたいな生活が人間的かなって思う。本当は、その2つを一致させるのが一番なんだけど、そのためには芸術家にならないといけないんだけど、うーん、やっぱりそれを叶えるためには一つの天性というか才能がないと駄目かなって思ってて、変態になれない凡人には、程々に趣味としてやるくらいがちょうどいいかなって思う。そりゃ、一部には、もうひとつのことに熱中できるくらいの変態がいるんだろうけれど、自分がそうかそうじゃないかくらいもうわかってしまっているから、趣味レベルかなって思う。時間としても、土日費やすくらいで十分だからいいんだろうって思う、一生かけて一つのことに熱中できる変態性があるならぼくだって芸術家目指したんだろうけど、残念ながらそれがなかった。
それに、職業的な部分にだって、楽しいものだってあると思ってる。なにか労働を汚いものとして蔑んで、余暇こそ最上だって考える人がいるけれど、労働というか義務というかそうした外的な圧力で自分の生活に秩序を与えることは凡人には必須かなって思う。学校を思い出せばわかるように、学校という制度で秩序が与えられた生活って人を人らしくするんじゃないかなって思う。人とも交流できるわけだし、一部のそれこそ学校に行く時間すら無駄だって考えられるような天才を除けば、凡人には外から秩序付けてもらう必要があると思う。

もちろん、社会に出ないことにはなんともいえないから、単なる想像でしかないけれど、いち大学生つまりはお子様として労働はこんなふうに捉えてますという話でした。