唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

脱言語化の試み、または言語への帰還。

気がつけば、意識がある時間すべてに言語が関係していて、眠っている間でさえも言葉を使ってる気さえする。試しにやって見るといいんだけれど、起きている今この瞬間に言葉を断って見てほしい。多分、無理だと思う、少なくとも僕は無理だった。例外といえば、昨日書いたように恍惚とする瞬間くらいなものかって思う。本当は言語で思考してるんだけど言語が背景と化してしまってもはや対象しか見えてないっていう理想的な快感が得られる瞬間。あるいは、身体が思考を制圧してるっていう場合。スポーツしてる時とかそうかなって思う。野球してる時とか、フライが飛んできたとしたら「ああフライきた、右かな、ちょっと後ろかな、よしここだ。グラブをこの辺に構えて開いて、さ、あと数秒でボールが到着するな、よし今だグラブを閉じる」なんてことを頭の中で言語化してはいなくて、身体が勝手に動く感覚。他にも、テニスとか絵なんかもそうかなって思ってて、いちいち自分の身体の動きを言葉で考えて命令なんてしてない。その意味では、身体に意識を集中させるいわば練習に裏打ちされた習慣的な行為っていうのは、脱言語化って言えると思う。

別に言語がけしからんって話がしたいんじゃなくて、言語が頭の中でくるくる回るってことに不快に思うことだってあるのかなって思うわけで、例えば辛くて悲しい時だとか、億劫で何も考えたくない時なんか、言語じゃまだなって思う。そういう時に、脱言語化が必要になるのかなと思う。まあだからこそ、悲しい時は身体を動かして思考を身体ににがせっていうアドバイスが成立するわけかなって思う。身体と精神の関わり合いについては、いわば心身問題という名前までついちゃって哲学者のお歴々が必死に討論してるくらいだからやっぱり人間を構成する重要な要素として身体と精神っていうものがあるんだと思う。そんなわけで、言語の領域である精神から脱して身体へと逃げ込むというか避難するというかそういう試みが楽しく生きる上では必要かなって思う。

で、今僕が考えてるというかそんな大したことでもないんだけど探してることが、精神に意識を向けたままの脱言語化、なんだけどつまり身体は動かさないで精神を言語の支配から抜け出したいなって考えてる。ぼうっとするっていうとなんだかアホみたいな匂いするけど、禅の瞑想といえば聞こえはいいかな。その意味では禅っていうのは一つの候補って思うんだけど、心を空っぽにしてしまったらなんというか快感ではないなっていうのが一つの懸念材料なわけで、やっぱり人間を超越して生の苦しみから脱するっていう解脱もまあ悪くないんだけど、それは消極的というか快楽ではないわけで、僕としてはせっかく生まれてきたんだから楽しまな損だなっていうそれこそ快楽主義的な方向へ時間を傾けたいなって思ってるわけで。だとすれば、精神を空にして脱言語化するんじゃなくて、言語以外の液体か気体で満たしたいなって考えてる。

まあそのための試みじゃないけどまず初めに試したのがっていうか今試してるのが、このブログなわけで精神を染めた言語の模様をとにかく出し切ってしまおうってわけで毎日息してるだけで頭の中に溜まる染料をキーボード叩いて吐き出してる。そうすると精神は空とは言わないまでも、スマホのいらないアプリケーションを消したり写真をクラウドに保存して容量を確保するように、空きができるかなって思ってて、そこの空いた部分に言語じゃないものを入れ込んで満たしていきたいなっていう野望。その意味じゃ、今書いているというか僕は毎日日記とかブログとかなんらかの形で書いてるんだけど、それは一日を過ごした中で溜まった言語を吐き出してるってことになるかなと思う。

じゃやっぱり問題は、何を入れ込めるかなんだけど、まず考えたのが音、つまり音楽。音楽に集中することができれば、それはもう脱言語化だろうとかんがえてショパンだのリストだのあるいはジャズだのをヘッドホンつけたりスピーカーガンガン鳴らして部屋を暗くして目をつむって聞いてみたんだけど、残念ながら頭の中にはやっぱり言葉がだらだら流れ込んでくる。音楽に集中する訓練が足りないのかもしれないって思ってなお今も練習中だけど、音楽っていうのは聴覚だけを占領して視覚と触覚がお留守になっちゃうから不十分なのかなって思ってる。

ならばと考えたのが、いわばヴァーチャル空間に入ってしまうこと。アニメ、ゲーム。まずアニメについていえば、どうして実写の映画じゃないのかっていえば実写の映画はまず本物の人間と世界が登場するから実際に自分がリアルな世界で時間を過ごしてるのと差がなく言語が登場してくるから、リアルとは別物であるアニメのキャラだとか世界観を楽しもうと考えたというわけで。アニメは、イデアを描いてるというか、わかるとは思うけどキャラデザインも声優も全部、本当の人間じゃない。カワイイとかカッコイイってリアルな人間に思い浮かべる印象とは次元を異にする概念がそのまんま描き出されているから、リアルな世界と距離を置いたバーチャルな世界に没入できると思ってる。しかも、さっきの音楽と違ってアニメは映像だから、視覚も満たされる。部屋を暗くして布団の中にこもってアニメを見る、これは思考停止つまり脱言語化できたと思う。セリフが言語だっていうのが玉に瑕だけど、自分自身の頭の中で言語を作り出すことをしないで済むっていう点では脱言語化かなって思う。
で、ゲームなんだけど、これはやっぱりさすがだなって思う。完璧に脱言語化できる。特にFPSみたいなもう、手先とキャラの身体がつながったこれぞヴァーチャルだって思うような場合は、有無も言わさぬ脱言語化。もちろん、ゲーム内表示とかは言語なんだけど、実際それはノイズに過ぎないかなって思っててさっき書いた野球の例みたいに、頭で言語化して命令を出さないまま脊髄反射的に手先が動くから快感だと思う。

そう考えると、ヴァーチャルっていうのはいいものだなって思う。VRはいいなって思う。これからはVRでリアルで得られる経験が全部得られれば、リアルならではの悪臭を取り払った完全イデア的な経験ができるしそれゆえに快感の総量もリアルの比にならないくらい大きくできるだろうから、いよいよ脱言語化できると思う。なぜというに、言語というのは精神の隙間に発生するノイズみたいなものだから、その隙間がリアルではちょっとしたトラブルだの見当違いだのの不愉快から生じるクレーム的作用だから、それが皆無でしかも、快感までの時間が短く、快感は長く強く得られるのなら、もはや精神は快感で満たされて言語など入る隙があるまいと思う。そうなると、麻薬的な心配があるけれど、もうそれはゲーム中毒なる言葉があるくらいだから心配するには及ばないと思う、つまり中毒になっても飽きるってことなく廃人化できるコンテンツ量とその発展の具合だから、まずもって尽きるってことはないんだあと思う。まあ問題は、バーチャルの充実とリアルの衰退がセットになるってことかなって思う。だって、リアルに時間と金をかけないで、バーチャルにそれらをつぎ込むんだから当然の帰結だとは思う。

言語化っていうのはつまり脳死プレイかなって思う。なんというかレベリングとかダンジョン周回みたいな作業って、考えながらやるんじゃなくてできるだけ頭を使わないようにつまりは精神で言語の歯車を回すことなく、遊ぶっていうことで、これって単純作業で単純労働バイトみたいに辛いんじゃないかって思いがちだけど実際そんなことはなくて、やっぱり快感がある。もちろん目的の達成みたいな部分もあるんだろうけど、脳死になれるっていうのが一種の快感かなって個人的には思う。リアルにそれこそ学校とか行ったり街に出かけたりすると、やっぱりいろんなものを見て聞いて感じて、考えるつまる言語として近く情報を変換して変形するっていう精神的な運動があるわけで例えるなら、ずっと精神がランニングしてる状態が続いてるってわけで、それこそ死ぬまで。いや休憩したいよねっていうわけで、脳死プレイっていう作業を僕の場合は高校時代とかに好き好んでやってたんだけどいい息抜きになったなって思う。

 

 

でもさっていうか、もうここまで書いていて明々白々なんだけど脳死っていうか脱言語化って、アクティブじゃないなって思うし、脳死とか言ってるくらいだからその言葉の本当の意味とは関係なしに生き生きとした生立っては言えないなって思う。なにもどこぞの熱血漢見たく「人生全力だ」とか「気を緩めるな、たえず修練」みたいな熱々のセリフを吐く気はないんだけど、ずっとさっき書いたような脱言語化ライフっていうのは張り合いがないよねって思うわけで、そこで言語への帰還が要請されるのかなと思う。

昔からよく言われることだけど、楽しみっていうのは苦しみがあるから存在するんだって言われる。ことわざでいえば、楽あれば苦ありって黄門さんも言ってるくらいだから、やっぱり楽っていう脱言語化は言語っていう苦しみがあるからこそ生まれるものだし、その逆も然りかなって思う。どっちがかけてもダメなんだろうなって。だとしたら、やっぱり言語への帰還は必須だろうということになる。

つまり、生活に二つの区分をつけて、言語と脱言語で行き来する必要があるのかなって思う。要は、考えない人間っていうのは馬鹿だろうし、考えすぎる人間っていうのも退屈だろうなって思う。常に言語言語って言って、全てを言語で支配してやるみたいな勘違い哲学者とか文学者みたいな人だって悪くはないんだろうけれど、なんだろう結局ノイローゼとか鬱になって自殺っていう思想上の問題にぶち当たってしまうんじゃないかなって思う。ニーチェが発狂して老年は精神病院にいたのは、考えすぎたっていうか言語が精神の風船を膨らませすぎてついにはパンって割ってしまったのかなって思う。もしニーチェにPS4でもプレゼントしてバーチャルの楽しみを献上し奉ったらば発狂せずに済んだんじゃないかって思う。

結局、言語っていうのは矛盾を孕んだ危険で脆弱なも一面があるんだろうって思う。言語って所詮は人間の脳というか精神の一つの機能に過ぎないし、また人類の道具に過ぎないから、高度なテクノロジーが常につくりだした人間を殺してしまう危険があるように、言語っていう道具の矛先を磨けば磨くほど自分を突き刺す危なさっていうのが増してくるんだと思う。言語って自分以外のものを守ったり攻撃したりできる矛だって考えれば、その力というか魅力つまりは文学とか哲学とか評論って素晴らしく美しいものに思えるんだけど、その反対だってあるわけでつまり、自分自らに矛先を向けることだって可能ってことを忘れちゃいけないと思う。自分自身を、自分の精神の中で作り上げた言語で賞賛して励ますことだってできるし、逆に反省というか自己批判というかそういう否定することだってできる。で、言語って磨けば磨くほどその威力は増していくわけで、言語に込める言葉っていうまあ語彙力と、言葉のアルゴリズムつまりは論理だって洗練されればされるほど強力なものになるっていうのは自明なわけで。
最近だと、『林達夫全集』っていう戦後にかけて活躍した学者で批評家の人の文章を読んでるんだけど、ものすごい強力な文章だなって思う。

そんなわけで、どこまでも自分のために自分が楽しく生きるとか過ごすためにっていう目的においてなら、脱言語化と言語への帰還っていうのはとてもいいことかなって最近考えてる。もちろんさっき発狂したとか書いたニーチェとか他にいえば、芥川龍之介とか太宰治とかは、なんというか自分の幸福のために生きたっていうよりは真理とか芸術に身を捧げたみたいな一面がある天才だから、「幸福になりたい」みたいな僕みたいな凡人と同じ次元で考えることができないと思う。

「いや言語化いらなくね? ゲームとかで楽しんでひたすら快楽に生きた方が絶対幸せじゃね?」ってふと思ったりもするんだけど、それは否って答えなきゃならんかなって思う。さっき、言語というか精神の能力みたいなものを矛に例えたけど、さびた矛持った人間ってどうかなっていう問い。加えて、言語っていうのは盾でもあると例えられると思ってて、まとめれば言語は盾と矛つまり精神の武装である、と。
言語って世界中どこ見回しても氾濫していて、自分の方へ向けてそれこそ広告とか報道とかで投げつけられてくるもので、いいものもあるんだけどなかには悪質なものも山ほどあるわけで、そのいい例としては悪いことをイイことだって嘘つくような言語。ナチスドイツとか大日本帝国とか挙げるまでもなく、錆びた武装ではこんな嘘をやっつけることができないし、まあこんな大それたことじゃなくても日々生きている中で対峙する問題一つ一つっていうのはつまりやっぱり言語なわけで手に負えない問題に押しつぶされてやられてしまってはたまらない。

その意味では、言葉一つ一つを教養という材料で膨らませることが大事な言語活動かなって思う。なんというか、言葉って人によって浅かったり深かったりすると思う。頭の悪い人っていうよりは教養(cultured=精神が耕された)がない人っていうのは、言葉一つ一つの定義が曖昧だし定義そのものもそこから関連して持ってこれる言語というか概念というか物語の数も貧弱なんだろうなって思う。教養っていうのは、どれだけ言葉を知っているかっていう単純な記憶的な要素と加えてそれ以上に重要な、言葉と言葉を結びつけて行き来するっていう運動性の要素で構成された、所有する言語体系の大きさなんだろうって思う。

とすれば、脱言語化して、言語に帰還して、また脱言語化してっていう円環運動が理想的ってことになるんだろうなって思う。