唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

価値と意味、金銭と趣味。

じっさい大学の授業つまらんよね、どうせ講義出たって教授の話もスライドも一瞥すらくれてやらずにシカトを貫き通すんだから、単位が出る最低ラインまでの質と量でイイじゃんっていう考えに囚われて大学に行かないっていう時期が少しあって、全然行かないかっていうとそうじゃなくてどうしても卒業に必要な単位は最低限の点数と出席で取るんだけどそれ以外を切りまくるっていうこと。授業そのものが金を生むような実学的な知識でなければ、面白いと知的好奇心を満たしてくれるものでもない、そんなら行く意味って皆無だし、そこに意味を持たせるなら学生の義務みたいな自己あるいは社会に由来した強制力を必要とするけど、社会に関して言えば意識高い系よろしく別に大学行かんで経験とかプログラミングしたほうがいいぜっていう考えに最近なってきてる感あるし、個人に関して言えば義務って強制された瞬間に隷属になるつまり善いと自身が納得しているものに対する服従じゃないのなら義務は単なる隷属だっていう考えだったから、もはや大学の講義は行かんでいいっていう結論に至った。でも、学費を払っているぶんきちんと4年で卒業しないといけないな、という吝嗇というか守銭奴的な発想でこそこそ必須科目の授業に出ていた時期があった。

で、今日から新しい学期が始まって、心機一転大学の講義は全てきちんと出ないといけないという考えに変わって、今日は久しぶりに真面目に大学の講義を受けた。別に、大学の講義に出ることが善きことだとか、義務であるとか、実用的だっていう考えに至ったんじゃなくて、生活の「秩序」としてやっぱり出るべきだと思った。
自由というと外側からあれやれって言われず自分の意志だけで自分の行動を全て決めること、みたいに思われがちだしそう思っていたけど実はそうじゃないと思ってる。容器に入っていない水はだらだらとそこいらじゅうにばらまかれてしまうし、個体だってその固形たる安定性を失ってドロドロの液体になったら、もはや個体じゃない。なんにせよ、存在にはその存在を保つ壁というか形いうか一定の秩序がないといけない。その秩序をどうやって担保するかっていうのが、自由と義務の葛藤だと思う。何してもいいじゃん、どうなったっていいじゃんっていう考えで義務を全て拒むことはもはや秩序を失って存在が崩れた堕落状態に陥ることになるだろうし、逆に存在の中核を含めた多大な部分を外側から秩序づけられたのなら隷属になってしまう。そうじゃなくて、自由といういわばぐちゃぐちゃの不安定性と、義務という存在の形を保つ外側から与えられる秩序とがきちんと保たれてこそ初めての存在の確立だと思う。

そうなってくれば、大学っていうものは一つの秩序だと思う。朝から夕方まで講義がある。その講義に出ることは、完全自由なドロドロの自由な時間に一つの存在の秩序を与えること。秩序があるから自由がある。そう考えてくると、大学の講義は大学生にとっての秩序であると思う。外側から自己を規定すること、その規定というか力に対して自由で持って対抗すること、この二つの内からと外からの力が均衡になった時、真の自由であるし真に義務を果たすと言えると思う。それは、もはや自由と義務が互いに打ち消しあった安定性の存在なのかなとか、なんだか怪しい思想的な考えにすらいたるわけで、まあなんにせよダラダラとていたらくな無秩序な生活も、ガチガチに規定され秩序化された軍隊見たいな生活も、人間として向上だとか進歩が見られないものだと思う。

 

はじめに、大学の講義意味ないよねって書いたけど、果たして生活上で意味のある行為っていうのはなんなんだろうどう定義されるんだろうってことを考えてみる。意味、とか価値っていう言葉は実に多くの人が多くの場面で使っているけれど、これほどに定義が難しい言葉はない。目の前に出してみよと言われると戸惑ってしまう。でもそれでも出せ出せって急かされると、なんだろうって必死に頭を使ってこれだっ!て人類はひとつ出したんだけど、それは数字だった。価値とか意味って、空間には存在しなくて空間を超えた場所というか思考の次元というか空間に位置する人間にとっては遠い場所にあるものだから、それをどうにか近くにたぐり寄せようって考えて、数字に変換してしまうっていう価値観があるわけで、だからこその量っていう概念がある。質っていうものを空間に持ってきた結果生じたものが量だよってベルクソンだったかな僕もこれから勉強しなきゃいけない人なんだけど言ってた気がする。

そんなわけでまず、意味と価値とかを語る前に、人間にはそうした空間の外にあるものを空間の中に数字として変換するきらいがあるってことを頭に入れておかなくてはいけない。その最たる例が、貨幣っていうわけだ。
そこから関連して、人間が生活上行う営為の中で意味あるよねとか価値あるねって多くの場合というかほとんどの人がみなす行為は、道徳的な範疇における金の獲得というかビジネスとかにつながるものだと思う。資格勉強してますとか、インターン行ってますとか、バイトしてますとか、公務員試験の勉強してますとか、お金に直接的につながる知識の獲得と、お金に間接的につながる地位の獲得に関係する行動は有意味だねってことになる。その最たる例が、受験勉強だと思う。別に勉強そのものに意味があるっていうスタンスで学生は勉強しないし先生も教えはしない、勉強という営為が社会的地位とか金銭の獲得に繋がるっていうそれゆえに価値あるよってみなす。その証拠として、まあたとえば、大学受験以上の勉強をして大学院に進む主に文系の学生を高く評価しない点に見れると思う。金にならない学問に意味はないんだっていう立場。

じゃあ、日常生活で価値とか意味のあることって、将来の金儲けにつながることになるのかっていう疑問が出てくる。そうだっていう人は結構いると思う。書店に並ぶビジネス書や就活本みたいなものには、そのように無駄な時間(金にならない時間の使用)を省いて有益な時間(金になる時間の使用)を促進してるわけで、まあいわば意識高いっていうのは将来の金銭的な価値のために市場的な価値を自分に付加しようっていう試みだと思う。で、それ間違ってるかっていうとそんなことはないと僕は思う。金が生活上必要なことは確かだし、金があれば物質的に幸福になれてそこから精神的な幸福も生まれうるってことも間違いないと思う。

で、これとは別の次元でも価値とか意味って成立するししてるよねって僕は思ってて、金銭的ではない数字的では無いさっき書いたような空間の外にある価値や意味。一番簡単な例だと、芸術活動とかそうだと思う。価値があることは結構受け入れられるけど、数字が価値を裏付けるっていう次元の価値じゃない。他にも、宗教の信仰だとか友情だとかスポーツだとか趣味だとか、やっぱり数字ゆえに価値が生じるっていうものじゃない場所にも価値がある。空間的数字的な価値が、数字が価値が生じるために必要なのと反対に(もしも金が得られないとして、たとえば資格の勉強とか英会話の勉強を果たしてそれでもしたいという人がどれだけいるだろうか。いたとしても彼らは金ゆえではなく対象が好きだからという非数字的な動機で行動していると思う)、数字を必要としない価値がある。そうした価値を、趣味って大雑把にくくっていいような気がする。友達と会って話すのも、好きなアイドル追いかけるのも、テニスや野球をするのも見るのも、それがやりたいから好きだからであって金が手に入るからっていう数字的空間的に理由じゃない。

金になる有意味性と趣味的な有意味性、どっちが高尚かは次元を異にしてるから判断できないと思う。あくまで主観的に、俺はこっちかな私はこっちかなっていうものしかできないしそれでいいと思う。僕個人としては、たとえ物質的に貧困でも、趣味的な有意味性を欠く人間になりたくはなと思う。

そんなわけで、はじめの問い、生活における意味や価値のある行動ってなんぞやっていう問いに「答案」がでた。金になるための行動、これは正直なところ大学卒業っていうバッジだけでいいやって思ってる。僕ら学生はあくまで学生であって社会人ではないから、社会がどんな人材を求めてるかとかどんな知識が金を得るためにひつようかなんてわからない。頑張って知ろうと努力しても、なるほど実際に社会人に会うだのビジネス本読むだの日経新聞読むだのしてる人もいるけれどまたもっと進んでインターンやそうしたキャリア系イベントに積極的に参加する人もいるけれど、個人的には学生が社会人の真似したって社会人にはなれないし社会人の見方も身につかないんじゃないかって思う。実際に社会人になって働く立場にならないと、わからないしいくら想像しても百聞は一見人しかずだと思う。そしてまた、今学生のうちに社会人的な見識をきっちりと身につけておかないともう取り返しがつかないってわけではないから、今は学生として学生の物の見方を身につけておこうかなと思ってる。