唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

狂気、熱中、革命。

革命って言葉が高校時代結構好きで、なんか挫折したり絶望したり悲しい気分になった時、このままじゃいかんってことになってよし革命だって一人で息巻いていたことがある。革命って、物事というか次元というか空間とか時間みたいなものが一気に新しい場所へ移行することだと思ってて、それを革命をする側から見れば進歩だしそうじゃない観察者とかされる側から見れば進歩じゃなくて異質だ異端だってことになるんだけど、革命する当の本人からしたら自分の理想に向かって物事を破壊して創造し直すやっぱり発展とか成長とか進歩になる。で、ふつう革命なんて言葉は社会に対して使われるんだけど、それを個人につまり自分自身が自分を革命するんだっていう中二病的な意識高い系的な発想に取り憑かれて自分の中にある価値観だったり物の見方を根本から覆すんだ!って息巻くことが高校時代にあった。なんだか巷に溢れる受験体験記みたいになって嫌なんだけど、当時の僕の成績はクラス最下位赤点連発でお先真っ暗だった、というのも別に勉強なんかしなくてよくねゲームの方が楽しいぜっていう考え方というか価値観だったから、別にその現状すらもダメだっては思ってなかった。けど、まあ誰だかもう忘れちゃったけどお前バカだなってアホにされたのと、東京のいわゆるエリートさんがたと会う機会があってこれじゃいかんイー大学行かないけないっていう風に、革命を起こすことを決意して、成績をあげてエリートになるんだみたいな考えに「進歩」して革命を起こしたわけで。それまで一週間に勉強時間2時間くらいだったものを、毎日3時間とか4時間勉強するようにして、自分で参考書計画みたいなものを立ててとにかく受験で戦える戦闘力をつけようって企んで勉強を始めてみた。で、まあそういう風に意気込んだのが高2の冬だったわけで、偏差値とか全国平均少し上か下くらいだったものをそれから一年くらいかけてなんとか旧帝大の文系に滑り込めるくらいまであげたというわけ。

で、大学に入学してからまあいい大学入ったんだし俺エリートじゃねっていう風に、もちろん日本人的な謙遜にきちんと包んでおいたけど本質的にはそんな考えがあって、凝り固まった貴族というか停滞した制度みたいな部分が出て、まあ革命終えて一応の目標は達成して安定期を迎えた。でも、なんでもそうなんだけど安定が長く続くと中身腐ってくるわけで、そこから問題だとか怒りとかフラストレーションが出てきて、また何かしらのきっかけから革命だっていうことになる。で、その第二次革命的なものが最近始まったなって思う。
それまではさ、もう、いい大学入ったんだから人間的に優れてるよねっていうまあ包まずに言ってしまえばそんな考え方で、物の見方とか知的な部分っていうのはやっぱり普通よりも優れてるに違いないなって思い込んでたと思う。学歴っていうもので、人間の優位性というか卓越性見たなものが担保されるのだっていう偏差値主義の生き写しみたいな考えがあった。偏差値あげればいいじゃんっていう、他者からの評価に依存した価値観に裏打ちされた自己正当化って感じで。
そこから出発して、より幸せな人生とか豊かな生活みたいなもで彩ってやろうっていう風に考えて、ミニマリズムだの意識高い系だののまあ一時期は学生団体的なものに入って見たりもして見たんだけど、いやまてよと、そうじゃなくて、何を持って自己の価値を測るべきか金とか他人からの評価なのかっていう疑問が渦巻き始めて、それに自己から評価って言ってもそれ自己満足に安泰してたらダメだなっていう、いわば価値基準への懐疑が巻き起こって、それが大学一年の冬だったわけで、そこで学生団体やめてとにかく読書だろっていう考えに至って、哲学史の勉強したり太宰治とか夏目漱石とか文学読んで見たりした。で、それから9ヶ月経って、今大学2年の10月なんだけど、ついに革命だっていう物々しい空気が漂い始めた。

なんにせよ人間って考える生き物で、考えないで生きるなんてことができない以上、人間の能力ってどれだけ考えることができるかって部分に帰着すると思う。いや筋肉じゃねっていう考えもあるんだけど、筋肉べつに動かさなくても人間って生きることできるけど、頭を動かさないで生きることはできないよねってことで、思考は筋肉に先立つっていう結論に行く。で、考えるってものを分解してみると、前に書いたけど知識の貯蔵と、知識の運動っていう二つのものに分かれると思うわけで、じゃあ優れて考えられる人間になるにはどうすべきかっていえば、たくさんインプットしてたくさんアウトプットするしかないと思う。知識をとにかくたくさん頭ん中にぶち込んで、それを吐き出す。この繰り返しというかルーティンをとにかく高速にやってくことで、考える能力は磨かれるだろうと。
で、インプットって言ってもどうやるかっていう問いには、まず第一に読書つまり文字をひたすらに線状になぞることで頭に概念を形成しまくるっていう方法がまずくる。で、読書の分野にもいろいろあって哲学とか科学とか文学とかとにかく制限なく人間が持ってる知識をインプットしまくることが大事だと思う。で、文字だけかっていうとそうじゃなくて、文字の他に色つまり絵画と、音楽がある。
アウトプットはその逆だから、文字を綴って思考することと、絵を描くこととと、音楽を奏でることがあるんだと思う。

そうすると、必然的にやるべきことが浮かび上がってくるわけで、本を読みまくり音楽を聴きまくり絵を見まくる、そしてその反対の本を書きまくり音楽を弾きまくり絵を書きまくるっていうこと。

 

 

で、こういうことをとにかくひたすら極めるっていう一種の変態性というか狂気みたいなものを獲得するっていうのが第二次革命の理想なわけで、第一の革命さっき書いたけど高校時代の受験勉強しないとみたいな変革っていうのとは全然違ってて、これはさ、結局学歴というか他人からの評価を得るためにいわば普通の軸の中で上に行くためにやる努力の要請だったんだけど、第二次の場合は、普通の軸をぶち壊して全く別の次元へ行くための努力だと思う。だからそれゆえに、普通とは逆の方向へつまり狂気とか変態っていうものを獲得するっていうのが必要不可欠なわけで、そうなるためには頭の構造つまりは思考回路を全部ぶち壊してしまって新しく作り変えるっていうもう革命の字義通りの努力が求められるのかなって思う。
時間と労力を集中させるためには、一種の洗脳というか頭の中の関数をこっちで無理矢理に規定してやることが必要にさえなってると思う。

とかまあこんな感じで文章書いている間さえも、自分の頭悪すぎだろっていう一種の嫌悪感みたいなものがある出てきてるわけで、その時点でもう革命必須だなって思う。自己変革というか変化を渇望することと、自己嫌悪っていうのは裏表の関係なんだと思う。語彙だとかそもそもの思考の型というかフレームワークが全然、不足してるって感じるんだけどそれって、考えるっていう機能の知識の不足を意味してるから、インプットが必要だよねってことになる。クリエイティブにはインプットは必要ないみたいな議論が結構あるけど、アウトプットに記憶が関わる以上、インプットの量は必要じゃないかって思う。それが、言葉という知識に関わらず、音とか色彩みたいな非言語的な知識も含めて、やっぱりアウトプットにはインプットが不可欠と思う。知識編重主義の批判するのは、言語という情報の過多じゃないかな。

とにかく何も考えない時間というか何もしない時間を滅却することから始めないといけないなって思う。ぼけっと呼吸するだけだったら、別にそこらの犬とか鳩と変わらない。いや、むしろぼけっとしてるだけで癒しを与える犬や鳩の方が人間より偉いって言えるかもしれない。

まあ何をやろうかっていう部分はなかなか決まらないというか、僕が凡人だからだと思うんだけど一つ熱中できるモノが見つからないっていうそこらじゅうの学生や社会人さえもが抱いている悩みをもっていはするんだけど、とりあえず現代思想と芸術論とあと楽器だとエレキギターをやろうと思う。
実際、好奇心とか熱中度合いみたいなものって先天的だっていう話をよく聞くし、スゴイヒトの自伝なんか聞くと子供の頃から普通から逸脱した変態だった例がほとんどなわけで、内心、失敗の臭気がかすかに臭ってくるんだけど、「しかし何も起こらなかった」ってことはないだろうから、まあ1cmでも大きくなるんだったらいいかっていうくらいのポジティブさで色々やってみようと最近意気込んでるっていう話でした。