唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

不条理から秩序へ、「哲学」から現代思想への転換

世の中にはっていうか生活には山ほど不条理があって、いやこれおかしくねっていうような怒りを抱かせる事物がたくさんあると思ってて、不条理なき生っていうか世界っていうか体系は存在しないと言い切っていいんじゃないかと思う。政治でも哲学でも何でもかんでも、不条理はやっぱりあって問題は、その不条理にどう向き合うかってことだと思う。

大学でもそうだし新聞とか見ててもそうなんだけど、そうしたいわば社会の不条理に対して断固反対闘争あるのみみたいな態度で臨んで、デモだとか署名活動みたいなことをやる学生やらおじさんおばさんがたくさんいるのを見て、そして彼らの訴えを聞いて、なるほどその通りこれは許しがたい不条理だって思う。労働問題とか安倍政権打倒みたいな運動がそのいい例だと思ってて、そりゃ今の労働形態というか社会の状態みたいなものは許しがたい搾取だとかブラックだとか貧富の格差がどうだこうだって、恵まれない人というか不条理の渦に巻き込まれている人の例みたいなもの持ってきて現状と理想の乖離を語ったり、あるいは安倍政権の悪事やら閣僚の無能さをつらつら書き並べて憲法の無視だの国民への冒涜だの、色々言えると思うし、その言説は間違ってるとは思わない。ただ存在する不条理を目の前に陳列する行為だと、突き放してもいればそうなると思う。

で、問題は果たしてこうした不条理を正そうぜっていうストリームというか潮流や活動に対してどう向き合うかってこと。彼らは、そりゃこんな不条理があるのに黙って見てるなんて人間じゃないだの社会人じゃないだの善じゃないだの色々言って、結局自分たちへの協力を要請するわけで、ある思想っていうのは自己を膨らませるために誘惑とか勧誘を自然的人持つものだから当然っちゃ当然なんだけど、そこへ入るか入らないかっていうそれが問題なわけで。
例えば、「非正規雇用雇い止め」とか「貧困世帯の子どもたちの現状」とかの問題がどれだけ社会に対して理にかなっていない不条理かとか、人間の尊厳を踏みにじるけしからん問題だって、目の前にさ泣きながらもがき苦しむ人間の例をあげつらわれてさあ我が下へくだりたまえって言われた時に、人間の人情というか良心みたいなものに動かされて、こりゃ問題だ不条理だ社会を変革するのだ!って思いに駆られて、俺も君たちの中に入って社会の害悪と戦うのだって意気込む、っていうのが一つの選択だと思う。
で、もう一つの選択は、いやそんなの知らないっていう態度でもってはねのけるっていうもの。まあ、不条理に対して賛成とか反対とか、そういう選択はさておき、どちらにせよ動かないっていう部分にその本質があるわけで。

 

人間の不条理ってさ、課す側と課される側で構成されるんだけど、不条理って言葉は課される側からの言葉かなって思う。課す側が不条理だって皆してるんなら、そりゃもう今すぐ廃止されるべき悪だろうから、それが一種のアンビバレントな不条理であるなら課す側はそれを不条理なんかじゃない正しいことだって思ってやってると思う。
そう見た時、不条理っていうのは善と悪の重なり合うちょうど境界にまたがるものだって言えると思う。一方から見れば善だし、他方から見れば悪だっていう。で、どっちが課される側になるかっていえば、より力が弱い方が課される側として不条理の圧力を受けることになるわけで、人間は弱い方にだいたい同情するものだから、不条理の課される側にセンセーションを感じてさっきみたいに味方しようって思う。

そう考えると、弱いゆえに正義だっていう態度を不条理に対してとることは一種の思考停止なような気がする。強い弱いっていうのは、上と下、右と左みたいな必然性というか方向性みたいな善悪を一切含まないものだと思うから、それゆえに正義が定義されるみたいな考え方は情念だと思う。
で、問題は強弱に影響されずに善悪を理性的に判断することなんだけど、これ、僕はできないと思ってる。不可能だろうと。
なぜかというに、善悪の判断にはある種の基準が必要なんだけど、基準って一義的に定義できないつまり、絶対的な基準は存在しないと思う。基準って三次元的なものだと思ってて、人間の目って空間を一気に把握するんじゃなくて、二次元の視覚情報の集合体から認識することで空間をいわば推論してるわけだから、三次元的なものを把握することが性質的に不可能かなと思う。基準ってものもそんなもので、サイコロを想像すればわかりやすいと思うんだけど、下から見れば3だし右から見れば4みたいな状況があり得るわけで、見る側の立場から基準は変化して、基準が変化するなら善悪は一義に定義されないよねっていうことになる。
まあ、絶対的な基準っていえば一つだけあると思ってて、それが言葉の定義から神って言えるんだけど、神が絶対なものとしても、人間がその絶対的な神を正確に認識することはできないだろうから結局神をどう見るかっていう問いに基準の問題と同じ問いが重なって、何も動いていないことになるだけなんだけど。

そうなってくると、社会的に善か悪かっていう判断はできるつまり、社会的に正しいとみなされている相対的な基準に依って不条理を判断できるけど、社会は時間と空間に制約されてるからあくまでも相対的なものだってことになる。相対的な社会という一つの立場から見て善なるもののために戦うっていうかそれを善だと認めることってさ、正しさの判断を社会に委ねたことになって、人間の最も重要な価値判断っていう機能を社会に委託してるって意味での隷属だって思う。要は、自分自身の頭というか信条というか神というかそうしたものによらない価値判断は、自分のものじゃないなってことになると思ったりもする。

 

 

なんか違うな、何書いてんだろって思いながら上の駄文を連ねてたんだけど、こんなことを昨日一種の精神的混乱の中、ぐらぐら不安定に揺れる思考をスタンプで刻印するみたく書いては見たものの、やっぱそうじゃないよねなんて思う。
何が善だとか、何が悪だとか、人はどう生きるべきかっていうmustとかshouldの議論ってさ、僕は成立しないと思ってる。だって、昔の哲学者の思想書つまり人はどう生きるべきかみたいな議論を読んでると、神っていう絶対的な存在から道徳を演繹する手法が取られているように思う。プラトンってさ、人間の善についてといた最高の哲学者って言われてるから少し読んで見たんだけど、国家とか結局、最後神とか輪廻転成にいくんかいって思ってしまう。彼らの善を承認するためには神がなきゃいけない、つまり信仰せよってことになるんじゃないか。信じるものは救われるって、あたかも面白い冗談みたいな言葉があるけど、これ真理だなって思ってて、救われるような考え方を承認するためには信じなければならないっていうある種のアイロニーを含んでるように思うわけで。

いや理性があるじゃないかみたいな話もあると思う。人間の理性としてまあ権利だの尊厳だのを重視するような政治学というか自由主義っていうかそういう思想もあるわけで、マルクス主義とか実存主義みたいな確かに神っていうものを中心に据えないで、私っていう自己とか社会とかを中心に据えて、正義や善を論じるってものもありはするんだけど、まあこれは僕自身全然の勉強不足だからあまり明言できないけれど、結局人間の理性を神っていう絶対的なものに据えるかあるいは一人の思想家まあマルクスとかレーニンとかそうした自分よりも優れているって思われる人間を神に据えて、彼言いけりゆえに真理なりっていうような結局神っていう絶対性を必要とするなあって思う。

そんなこといったらきりがないぜ、科学だって結局は理性の推論とか公理みたいなものを絶対的なる神に仕立て上げてるじゃないかっていう議論が出てくるし、それは一種の真実だと思う。ただし、さっき書いた思想的な真理と科学との大きな差異は、実用性の有無にある。科学の真理って実用的じゃないですか。実際に確かめてみることができる、なんどやってもそうなる。その意味における法則性、これ、思想というか哲学には存在しないもの。客観性と主観性のちがい。だから科学が偉いっていうんじゃなくて、主観性の哲学から科学がscienceって言葉作って分離したところから見るに、科学ってものも一種の哲学的な思想であって、元来の意味の哲学の矛盾を正すために生じた人類の精神活動の一潮流なわけで、別次元のものって考えて、科学はダメだとか哲学(人文科学)はダメだっていうものはしょうがないものだと思いつつある。それこそ弁証法じゃないけど、両者の違いとか同じ部分をじっくりと見つめて吟味してやって、新しい考え方を作り出す必要がある。

そういうわけで、実証主義っていう潮流が人文科学というか哲学に流れ込んで新しい動きを作り出して、構造主義だの認知心理学だの記号論だの情報学だのの現代思想が出てきたんだと思う。現代思想って、人間かく行動せよみたいな思想だの理想を含むものじゃなくて、人間とか社会の様相を仮説的に検証して実証して目の前に提示するプロセスとか構造を特徴とするものじゃないかと思う。混沌とする宇宙に物理的な法則を与えるものが科学とするならば、混沌とする人間と社会に一種の仮説というか理論を与えるものが新しい現代思想の流れだろうと。結局、学問って混沌に秩序を与える営みだと思う。秩序づけられた世界って、人間にとって扱いやすいわけで、思考っていう精神的な営みにおいても身体を用いたテクノロジーや政治とか経済といった実践的な営みにおいてもやっぱり扱いやすいものだと思う。

人生の意味、みたいなたいそう難しいものを考えることも大事だし必要だと思うんだけど、それに理想みたいなものを考えることも大事なんだけど、今まで僕はそっちのものを色々と勉強したというか考えてきたわけなんだけど、結局生きるって一種の社会と自分に対するポーズなわけで、自己っていうか理性の内側の閉塞した系をあーだこーだするものじゃなくて、社会とか自分の心理や認知っていう外的なものとの交流というか接触の相互作用の結果としてその両者の間に生じるものなわけでそうなると、自己の理性の中に強力な宗教的なあるいは哲学的な思想の体系を構築するのと同様に、宇宙と社会と人間としての自分の近くや認識に対して秩序を与える現代思想的な知識と科学的な知識は必要不可欠に思う。

まあそんなところで、これまではプラトンだの漱石だの太宰治だのヴェイユだの哲学史を勉強してきた9ヶ月だったけど、これからは現代思想とか情報学とか数学とか認知心理学とかの方向に少し切り替えていこうっていう計画の話でした。

 

 

ps 満を辞してエレキギターを始めた。