唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

意味、価値、食欲。

死ぬものにはすべてを語る権利があるって誰か歌ってたけど、果たして語ったその「すべて」は価値があるのかってことを考えるとある人間の口から発射される波と肉体の営みの有意味性っていうのはすべて失効するんじゃないか。
これは多分僕の精神的な「異常」、なぜ括弧付きかといえば医学的なとか精神医学的なって話じゃなくて単に常と異なるって意味でつまり普通の範囲外っていう意味でつけたんだけど、そう、異常なわけだったことは認識してるんだけど、本でも映画でもアニメでも人間の会話でさえも、「好き勝手言いやがってるな」っていうある種の意味の打ち消し作用が働いてしまう最近である。
ものの見方は一義的なものではないから、どの面から見るかで世界というか事物というかあらゆる認識は変わってくるわけで、誤りとか間違いっていうのはその認識を空間という論理性へ移転せしめる作業を行なった場合にその範囲内でのみ規定されるわけだから、まあ何いってもいいんだと思う。完全な自由、けれど、正しさとか絶対性とかからは自ずと離れる。

つまり絶対に正しいとか美しいとか素晴らしいっていうものは存在しないんじゃないかっていう一種の脅迫的な疑いでもって自分の首をじわじわ締め付けて、日が昇る頃にふっくらと膨らみ血色の良かった首が、日が沈む頃には細く懐疑の紐で締め付けられて青白くなってる始末。0をかける、いやもっと大きな負の数をかけるっていう操作を目の前に広がるすべての知覚に施してやって、逐一あらゆる価値というか意味を否定するのを義務としたのだって勝手に閣議決定されたらしい。

時間を飲み込む作業は、絶え間ない否定との葛藤なわけで、否定が肯定を打ち滅ぼした瞬間、時間の価値は地に落ち、意識は別の有意味性の検索を開始する。

 

結局、現代思想とか社会学とか認知心理学とか哲学とか文学って、言いたい放題どうだ面白いだろっていうなんら正しさっていうものの担保なき精神の運動なわけで、その根拠を辿っていった先には無という恐ろしい深淵が口を開けて待ってるんじゃないか。面白さっていうのは、確かにある。ソシュールやパースの記号論だの、フーコーの権力論だの、メディアはメッセージであるっていうマクルーハン、ボードリアールの消費社会の考え方っていうのはなるほど激しくうなづけるし面白いと思うんだけど、果たしてその営みって有意味なのかっていう根本的な問いがあって、世界の味方に一種の記号のフレームを提供する作業って正しさの担保がないんじゃないか。経験を束にして、事実を束にして、もって実証的に正しいとみなす行為を学問と呼んでいいのか。

真に価値を持つ学問、っていうか真に価値を持つものってなんだろうっていう問い。金にならない思想、しかも正しさを十分に担保できない一種のフィクションをしたり顔で説き続ける人間を知的だのアカデミックっていっていいのか。実際に、労働して社会を動かす人間の方が、何十倍の偉いんじゃないかなんて思ったりもする。

文化的に生きよとか、文化水準をあげて人格的に成長せよみたいなことをよく言われるし、大学っていう一種の「エリート」育成機関の構成員たる以上そうした価値観というかそれゆえに保持しているハビトゥスの重力に従ってそういう方向に引っ張られてるんだろうけど、そもそも文化が価値を持つのはなぜかっていう問い。だって、文化は金を生まないでしょう、しかもそもそもかつての教養主義的なつまり偉大な哲学や思想の本と修練を積むことで人格を養うのだっていう考えってそれこそ現代思想が構造だーっていって破壊した価値観じゃないか。制度じゃないの?みたいな考えから、人間が依拠してきたっていうか素晴らしいって信じてきた価値とその基準を構造と断じて破壊した結果生じた無価値性みたいなものを、文化が持ってるんじゃないか。いわば、自己の営みによって凸凹穴だらけになった空洞の文化を有意味だって認めることができない今、もはやその文化が生んだ現代思想が断罪する資本主義社会に身を投じて金を価値だってするしかないような気さえするんであって、ならば文化的に生きるみたいな人文科学的な素養は否定されるよね。

 

だとしたら、唯一の正しさって数学とそれを原子として成立する自然科学にしか存在しないってことになる。

あるいは、正しさじゃない場所に事物の価値が存在するとしたら。
そうだったら人文科学は復権する。

結局、どんなものが価値を持つのかっていう問いはプラトンあたりからずっと考えられてきた問題なんだろうけど、答えでないですね。

 

まあなんにせよ、食欲と同じように精神的に摂取されるコンテンツというか経験にだって個人の趣向はあるんだろうし、それは年齢によって変わってくるんだろうから、今価値があるものっていうのは明日価値を失うかもしれない。逆もまた然り、これはほんとう?
一番恐ろしいのは、食欲がないってことと食べたいと思って口に入れて飲み込んでも吐いてしまうっていうこと。嘔吐下痢症なんてものに数年前にかかったことあるけど、あれはきつかった。それはまあ身体の下痢症なんだけど、それが精神的なものになってしまったら、もっときついだろうな。
食べたいと思って口に入れ必死に飲み込んでも吐いてしまう、吐いてしまうからもう食べないでいいかって思う、やせ衰えてしまう、死ぬ。
問題は、身体の病気と違って精神の病は、原因の確定が難しいこと、いやできないっていってもいいのかもしれない。お前に何がわかるんだって結構使い古された常套句だけど、精神って理解してもらいたいくせに理解を拒むっていうアンビバレントな性質を持ってると思う。

 

何が書きたかったんだろ。
まとめると、すべてを語る権利があるっていう言論の自由を振りかざしてくだらない駄文を書き連ねているこのブログの価値っていうのは、極めて小さくてかといってマイナスで消えるべきだっていうものじゃなくて、やっぱり存在していていいもの、存在していても大した影響がないものってこと。
そして、最近、この文章を書いている筆者は、食べては吐き、吐いては別のものを食べるっていう生活を送りながらも、きちんと消化されて地肉になるかつ体と健康にいい価値あるものの模索のために価値とは何かなんて問題を、考えてはやめ、やめては考えしてるってこと。で、極め付けは価値とは何かっていう問題を考える行為そのものに価値があるのかなんてことを考え出して、さらにその問題を考える行為に価値はあるのかっていう風に、永遠のメタ認知の穴に落ちつつあるんじゃないかっていう問題を提起して締めます。

 

 

追記;
そう考えたらさ、消費されるために製造された想像力をパッケージしたコンテンツって価値があるゆえに価値ないよね。テレビとか週刊誌とか自己啓発本とかってさ、いやそれに限らず全てのコンテンツってその本質において無価値なわけじゃん。それ自体何にも悪いことじゃないんだけど、無価値なものに、価値ありますよっていう虚構の衣を着せてさ頑張って売るわけでしょう? ゲームとかでも何でもかんでもそうなんだけど、価値があるなって錯覚させる構造をそこに有しているんだから、価値ってそれを看破してしまうっていうか逆に勘が良すぎて気がついてしまう人間にとってはもはや苦痛でしかないなって。勘のいい奴は嫌いだよって、ほんとうだよ、勘良すぎると早々に消されるからね。

価値がないにもかかわらず、価値があるよっていう詐欺師みたいな宣伝ボイスは苦痛なんだけど、価値がないものを価値がないよっていっている正直者ってたとえ本質において価値がなくてもその正直さゆえに価値が生じてくるんじゃないかって思う。
つまり、やれ正義!善!充実!快楽!有用!みたいな価値っていうモヤモヤした概念にアクセスする記号の大合唱を繰り広げる人やもとたちって嫌悪の対象にすらなりうる無価値性どころかマイナスの価値なんだけど、虚無!空!つまらない!くだらない!役立たない!ってもういっちゃってる人やものってすごい価値があると思うんだよね、個人的には。

だからってわけじゃないんだけど、っていうかこれはもはや個人の趣向の話になるんだけど、外見と内面を飾らないそれでいて普通より下に見えさえする人間にびっくりするほどの優秀さとかっこよさと美しさと価値を感じることや、なんじゃこれなんの役に立つんだしかも全然かっこよくないっていうものにびっくりするほど惹かれたりする。でも、俺価値ないぜっていう宣言とか、俺私着飾らないでありのままの私を見たいなものって無を装った有なわけでもっとたち悪かったりもするから難しいところだと思う。自己嫌悪や卑屈さっていうのは当然マイナスの価値だと思う。

価値あるものを探すっていうのは、それ自体矛盾してるんじゃないかって思う。見つかるはずないなって。だったら開き直って逆説的に、無価値なものを探すっていう方向に転換したほうがいいと思う。マイナスでもプラス(に見える)でもなくて、本当に完全に無価値なもの。これこそが、本物の有意味性であり無価値性であるなんて思ったりする。