唐木机が欲しい

読んだ本のこと、考えたこと。

書籍と欲望、肥大化するバーチャル

ここ数ヶ月のあいだに書籍を二百冊以上購入したと言えばきこえはいいものの、ただ単純に購入してでっかい書棚に几帳面に並べてじろじろ眺めてあたかも知性的人間にでも変貌したかのようにご満悦の笑みを浮かべているだけだから、そのじつみじんたりとも進歩していない。
読まないと言えば嘘になるけれど、読むよりも本を購入することにばかり精神的なエネルギーを注ぎ、あれも読みたいこれも読みたい、あるいはあれも読まねばこれも読まねばと、ウォントとマストを連呼しているだけの不毛な頭の運動を、夏休みのラジオ体操のように繰り返しているだけなのかも知れない。

そういうわけで、ぼくの部屋には5つほどの書棚が置かれていて、なかにはぎっしりと読んでもいない本が並んでいる。本というものは、手段さえ知っていればあるていど安価に購入できるものだとおもう。古本屋にこそこそ通ってみたり、インターネットの古本専門サイトのような場所で安く出品されている本をひっそり購入したりすれば、新刊書を十冊買うだけのお金でその何倍もの活字を我が物としてストックできる。
とくにインターネットは非常に便利な代物だと思う。このように安価にしかも大量に活字を購入できるだけでなく、むしろ無料で活字を垂れ流してくれるときているから、現代人が読書をしないとエライ学者連中がたいへん困惑しているようだけれど、それもそのはず、もはや活字を金を出して買う必要すら無く、ネットニュースやTwitterFacebookで大量のしかもわりかし有益な文字情報をゲットできるのだから、合理的なホモエコノミクスとしては、リンゴが木から落下するニュートン法則などよりも自明な必然ですらある。

ことは活字だけに限らない。音楽、映像、ゲーム、ありとあらゆる精神的な糧が無料で手に入る。手のひらサイズの超薄型のすこし電気的な温かみを帯びたアルミニウムの箱さえあれば、いつでもどこでもおもいのままに糧を食せる。わざわざ、書店やCDショップなどに買い出しにいく必要なく、持ちきれないだけのレジ袋いっぱいにおいしい糧をぎっしり詰め込める。オンライン、バーチャルは人間の可能性を無限に拡張するメディアである。



ところで、ぼくの部屋で開かれることを今か今かと待ち望んでいる書物をいかにすべきか、すこしばかり真面目に考える必要がある。このまま一切読まれずに、背表紙とその存在自体がインテリアと化すことを果たして書物はよしとするだろうか。否、肯んぜず、とおもう。背表紙に書かれた書物のなまえは一種の強迫観念をもって迫ってくる。書棚の前に立って、じっくりと右から左へ、上から下へと書物の規則正しい並びを観閲したときに感じるのは、所有欲のみにあらず一種の義務だったりもする。ヨメヨメと、背表紙が大声で叫ぶ。

大量生産大量消費の資本主義やフォーディズムは、環境にたいしてあるいは人間の本当の幸福にたいして熟慮するように人びとを促した、というのは歴史的事実である。結局、物質的に大量に消費することがほんとうに幸福な行為かどうか、美しい行為かどうか、よく考えてみれば「消費」それじたいを欲しているのではなくて、欲望をあるいは空白を何かで満たすことを求めているに過ぎない。だとすれば、いたずらに物質を空費しても欲望がほんとうに満たされる日は訪れるはずはない。重要なことは、欲望に対して向き合う姿勢の変革と、欲望それ自体への十分な理解であるはずだ。欲望しているとうの対象を包むベールを丁寧に一枚ずつ剥いでいって、核心部分をしかと観察しなければ、時間的にも存在的にも欲望は満たされることなく、それどころかますます肥大化して欲望のカタマリと化してしまうかも知れない。

物質的なものに限らず、精神的なものに対してもまったく同じことがいえるし、むしろ物質的な欲望は精神的な欲望のほんの一部分にしかすぎなくて、その本質はまったくの精神的なものなのかも知れない。所詮、資本主義は記号を生み出し人びとは記号をその差異のなかで認識し消費しているに過ぎないのだ、という現代思想的な考え方をもちだすまでもなく、いま欲望に入り込もうとするバーチャル上の飽和化したコンテンツに対する姿勢が問われているとおもう。たしかに、インターネットを使えば無料で大量の音楽や映像や活字を消費できる。だが、その消費は欲望を満たすためのエネルギーを十分に含んだものなのか、ぼくは疑問に思う。バーチャル上の消費つまり、インターネットで音楽を買ったり動画を見たりするのは、身体を介さない非物質的な消費に思える。場所をとりませんよ、というふうにデジタルコンテンツのよさをさえ主張されてはいるけれど、液晶画面上に記号だけが表示される消費を、はたして消費としてあるいは所有として欲望を満たしたり、精神的な糧として摂取され血となり肉となりうるのかどうか、ぼくには疑問に思う。

なにも質が低いといいたいのではなくて、ものとしてそこに存在するという感覚、手に触れることができる安心感みたいなものが、だんだん僕ら人間の精神的な糧から奪われつつあって、だんだんと記号的ないわば霊魂的な部分だけがぬきとられて液晶画面上に無機質な黒の活字の順列だけで身体を仮像される環境的な変化に、どうも喉の渇きにも似た欠乏と、ぼくという人間の身体と精神からの距離がひらいていく糧に恐れと寂しさが混じった不安を投げる。

そこにあるけれど、そこにはない。ぼくの部屋の書棚に並んだ書物と、スマートホン上に表示される音楽や活字。疎外、といえばいいだろうか。こちらがわへと引き戻す必要があるように、さいきん感じ始める。丁寧に一枚ずつページを繰って本を一冊一冊読み込んで、そこに存在せしめる一種の努力が必要だと思う。音楽を聴くために、音楽が身体化したCDやレコードを丁寧にオーディオにセットしてそこにあるようにしてあげること。バーチャル上で完結する現代だからこそ、リアルを大切にしないといけないとおもう。