唐木机が欲しい

ブログ風のフィクション。

欲望、都市、趣味、オフライン。

知識や興味はもつ本人が自由に選んで、たとえば俺はmol-74が好きなんだ、とかシューベルトをコーヒー飲みながら聞くのが趣味だとか、編み物を最近始めたんだ、みたいにみんな個性があって趣味を持ってると思いがちで、個人を個人としてアイデンティファイするものはその人の性格と意志なんだって思ってたけれど、どうも最近そうじゃないらしいぞと思い始めてきた。

趣味は何ですか?と大学入学と同時にサークルや授業やバイトの自己紹介で耳にタコができるくらい尋ねられたし、たくさんの新入生が尋ねられているのを見聞きした。たいてい、「読書です」とか「ファッションです」とか「テニスです」みたいなこれまたお決まりの単語を並べて、返事としても「ぼくもわたしも好きです、楽しいですよね、テレビでこの間やってました」みたいな問答を繰り広げるさまを見て、体験したりした。趣味、そんな言葉を高校卒業まで使ってこなかったし使う必要もなかったと思う。ただ、学校に行って勉強して部活をして家に帰って飯を食べて風呂に入って予習復習をこなして眠る、かんたんな生活の繰り返しで十分な満足感を伴う生活を送っていたとおもう。ところが、大学に入って、というか社会に出て、趣味はなにかと一種の持たなければならないぞという強迫が裏に潜んでいるかとさえ思われる質問のやり取りが行われているのを知る。で、さあ趣味を作らないとと思って、なにやらわけのわからないサークルに入ったり、へんてこなタイトルの本を買ってみたり、ゲームソフトを買って遊んでみたり、街に繰り出してかっふぇめぐりやファッションショップめぐりを始めたりする。

大学も街も人間の総体も集団もすべからく都市である。趣味という二文字を目の前にくりかえし提示されてどことなく怯え、アイデンティティーを確固たるものにすべく興味と欲望を「こしらえて」自らを仮設した欲望を満たすために都市に身を投げ込む。ほんとうに興味があるのかよくわからない人やモノで自分の身体と精神のまわりを取り囲んで、服を着るように自分の個性とやらを主張してみる。ファッションといえばいいだろうか、結局、趣味というファッションで身を包んだところでどことなく虚無感が残ってしまう。無機質的な記号としての欲望と興味をこしらえて満たしたところで、本質的な解決に至らないことを頭のどこかでわかってはいるけれど、本当の自由に身を投げ込んで時間的にも空間的にもカオスにドロドロとした液状化するくらいならと、都市的な秩序の中にとどまることを選ぶ。

何が言いたいかというと、消費社会論からの脱却はというか現代社会的な諸矛盾からの解放、まあこれは資本主義の矛盾とか労働の搾取とかいうマルクス主義イデオロギーの正当性をも含むものだけれど、それは不可能だっていう結論にじつはいたってるってこと。完全なユートピアを哲学とか思想的に実践することで実現することは、ぼくはもはや絶対に不可能だと思ってる。むろん社会の問題を解決しようと懸命に頑張る人たちをたしかにぼくは尊敬するけれど、その努力の源泉にあるのが都市的なそれこそファッションとしての社会運動つまり空いた時間を埋めるための活動になってるような人たちの内部の空虚感の大きさをこそ忌避したい。不可能だって自覚していながら、自分の力と可能性のちっぽけさに絶望していながらもそれでも実践せざるを得ないという絶望のうちの活動にこそ正しさが宿ると思ってて、可能性!とか明るい未来!みたいな耳あたりの良い文句を喧伝するような社会変革運動ってやっぱりどーだろーと思ったり。

でも、ものすごく孤立化した都市化した無機質的な暮らしというか、まあ最近でいえば21年卒から就活ルール変更みたいなある種の労働ありき金儲け第一主義的な社会と、労働のための人材育成になってる明らかにオカシイ社会の状態に絶望しないわけにはいかないよね。卒業してから金銭的な幸福の中に身を投げ込むようにプログラムされた資本主義的な社会の線路を一生懸命進んでいて、その路線からべつの路線へ移ることも広い荒野の中に身を置くことも実質的には不可能な、絶望的な状態ではあるけれど、だからといってその線路を悪だと断じて変革だ社会主義共産主義だ阿部政権打倒っていうのもだいぶんずれていると思うわけで。

なんやかや社会の文句たらたらな社会だけど、じっさい生命の危機かって言われるとそんなことなくて明日の衣食住に困窮して餓死してしまうようなひどい状況にもない。身を犠牲にした革命っていうのは、命の危機に瀕した社会で起こることだから、ある意味恵まれた恩恵的自由を与えられた現代日本ではまず起こりえないし意味も意義も持たないような気がする。

けれど、やっぱりこのままじゃつまらないって思う、だって都市の中に欲望と好奇心の源泉を見出して稼いだ金をそこへつぎ込んで快感を得ろと言ってるようなところに、のこのこと身を投げ出す気にはなれないです。都市を太らせるために金を稼いでるともみえるわけで、とんでもなく非人間的だとおもう。

 

欲望を脱構築すること、ここにあるとすればある希望の光が見えるとおもう。好奇心もその中に入れてもいい。欲望して満たすという日常生活の営みが都市中心のものならば、そして都市の変革が不可能であるならば、都市の公理化をなげくのではなく、こちらがわにある欲望を解体して子細に観察してあたらしくつくりかえればいい。
「なにか」を欲望するという現象の根源に都市が置かれている、ならば根源を都市からほかのなにか人間的なものへと置き換えればいい。

「なにか」を欲望させる都市のひとつの機関として、メディアがあることは周知のとおりで、ぼくらがスマートホンやテレビを通して触れるコンテンツの中に欲望を作り出す装置があるとメディア論はいってるらしい。広告はいうまでもなく、映画の中で使用される小道具や暮らしそのもの、ユーチューブで見る動画の内容、ウェブサーフィンつまりグーグルが掘り出してくる情報そのものが、欲望の源泉として、いわば易怒的な役割を果たしていることはまちがいない。
テレビを捨ててスマートホンとパソコンを手放して、オフラインになること、そうすれば否応なく押し寄せる「暇」を埋めようとする内的な作用が生じて、本当の欲望が顔を出すと思う。

 

なんてことを最近考えて家じゅうにあるオンラインデバイス段ボール箱に詰めて押し入れにしまってみたり、はては工業製品の無機質な見た目と音にまで嫌気がさしてコンセントを抜いて目につかない場所へ移動させたりしてる。アナログ至上主義と言おうか、自然に帰れ的なフルイ考え方だけれど、意外と的を射てるんじゃないかなんて思う。だって、よく考えてみればインターネットでたしかに山のような娯楽と「役に立つ」情報を瞬時にゲットできるけれど、それほんとに役に立ったか?つまり人間として成長させてくれたかと自問自答した時に、あの情報はとてつもなく精神的な糧になったのような感動も温かみもないことに気が付く。つまり、一時的な冷たいインスタント食品と変わり映えしない。早い・安い・手軽、ではあるけれどただそれだけで、なにかを深く感じることもなければ、巨大な構造を俯瞰することもできない。その場しのぎの文字通りの「暇つぶし」の役割しか、インターネットが提供しているコンテンツははたしていないのではないかとすら思う。

とかなんとかいうと、「便利」そのものがはたして本当に価値のあるものかと問わなければならなくなりそうだ。科学はなるほど確かに人間を大きく飛躍的に進歩させたけれど、そして生活を便利にしたと称賛されるけれど、「便利」が持つ要素を分解してみるとどうだろうか。
便利とはつまり時短である、とぼくはおもう。*1生活に消費される時間を短くすることが人間にとっての進歩だ幸福だといえるだろうか。ほんとうは、科学が短くしてくれた非人間的な時間を、なにか人間的なそれこそ趣味で満たすところに科学のというか便利のありがたさがあるはずだと思う。むろん、労働時間は科学が発達していなかった時代と比べて現在なおも大した変化はないしむしろ増えてるんじゃないかと思うくらいだ。そこを資本主義の矛盾だといって非難した反資本主義すなわちマルクス主義は、この点においては真なることを言っていると思うし、いまなおその意見は力を持つ。

とにもかくにも、科学というかテクノロジーはそれそのものを商品としたり欲望の対象としたり、また欲望を伝播する物体となってしまってはもともこもないというか、もっと便利になりましたー時短できますみたいな新スマートホン発売イベントが欲望を巻き起こす現状は、それこそ倒錯としか言いようはない。怒りの意味を帯びたおかしいぞ!ではなくて、ほんとに可笑しい。

 

 

道はたくさんあるし、多様性は進化論的に見ても明らかに重要だからこちらが正しいというつもりはさらさらなくて、ただぼくの偏狭で頭のおかしい思考の回路を通してみればこんな風に欲望は捉えられかくあるべしと思うっていうとんでもなく個人的な偏見にすぎないことを断っておきたい。

ぼく個人としては、欲望は電子デバイスやマスメディアや都市や芸能人から与えられるべきではなくて、人間的なたとえば美しさや正しさや善さみたいな芸術的なものに惹かれて内側から生じるべきで、その欲望をかなえていくプラトンよろしく観想的生活こそが欲望と幸福個人的にあるべき姿だと思ってる。

とはいえ、右は正しい、左は間違い、おれは右しか向きません左を見るのは犯罪です、みたいな閉鎖的な系をわざわざ構築して固執する必要はないと思ってて、たまには左に行って遊んでみるのもいいじゃんと思う。このまえも、都市都市批判しておきながら、その当の都市に足を運び6時間くらいだらだら店を回ってあれを買おうかこれを買おうかなどと都市的欲望を楽しんできたりする。
つまり、ホームとアウェイ、どっちも大事だけど、ホームもアウェイもないんじゃそれが一番危ない。

*1:鉄道も飛行機もインターネットも、ある物事をなす際の時間を短くした点において便利だとして称賛され生活の中に受け入れられている。なにかできないことをできるようにした、という不可能性を可能へと変換したわけではないと思うもちろんロケットばして月に行ったのは不可能を可能に変換したわけだけれど、こと一般市民の日常性においてはたしてこのような根本的に不可能だった機能を可能にしただろうか。昔の人が不可能だったことを可能にしただろうか。ぼくらが便利だ科学の恩恵だとして称賛するのは、あくまでも時短とその集積が生んだ手間暇の省略にすぎないとすら思う。